人間は地球に存在する物質を調べ尽くした。
地質、水質、有機物を構成する物質・・
構成分、つまり成分を中心に科学は進み続けた。
化学、生物学、医学、健康学、栄養学・・
明確な意識を持たない無機物質も、意識を持って活動する有機生命体も同じような考え方をしている。
意識、生命の仕組みが皆目わからないのだから、顕微鏡で見える範囲で示すしかないのだろうが、物質と違って生命の分野は結果においてはお手上げ状態。
骨折、怪我などは治療出来ても病不調の治療は歯が立たない。
病が簡単に治せるなら医者へ行くのが手っ取り早く、健康産業は成り立たなかっただろう。
地球は鉱物、水、生物で構成され、生物は主に動物と植物。
健康食品も同様で、野人理論ではどちらも同じもの。
薬と健康食品の違いは精製か非精製かで、目的は同じ「成分効果」を求めることに変わりない。
健康食品には植物の他に海の生物から抽出した製品も多い。
しかし明確な結果が出ないから皆右往左往、何が効くか、片端から試すしかないのだから健康産業が栄える。
どれも根本から間違っているとは考えないのだろうか。
野人は道理が矛盾だらけで結果もほぼ全員に出ないものは最初から学ばない。
完全な生命の道理が世界にないのなら自分で考え、結果が完全な方程式を作る。
余計な頭は使いたくないが、ないものは仕方ないから作ったのだ。
魚介類と健康の関係・・
誕生以来、陸で生きて来た人類に海の魚介類が十分行き渡るようになったのは最近のこと。
視力は水に対応出来ず、潜水漁技術も、網などの漁具も持たなければ現在のような豊かな食材は手に入らない。
水中眼鏡とゴムがなければ野人も潜って魚が突けない。
貝塚は残っているが微々たる数、海岸での貝などの磯物や魚の捕獲で家族が養えるはずもない。
動物性蛋白質という食性は合っても量は微々たるもの。
日本、世界で飢餓、餓死の歴史を持つように、周囲に野山・植物があっても人は葉っぱでは生きられないのと同じようなもの。 量は豊富でも食性が合わないからだ。
日本では漁具が出来始めたのは鎌倉時代、漁業が始まったのは江戸時代。
偏見からボラ価格は底辺にあり業として成り立たない。
内臓のカラスミ価格は頂点・・おかしな話だ。
身が臭くて食えないなら内臓はもっと臭くて食えない。
ボラは今も漁村の神事に不可欠、名を使った「おぼこい、すばしっこい、いなせ、とどのつまり」などの言葉も生まれ、日本人に密着した出世魚の代表なのだ。
ボラは外洋も汽水域の河口にも生息、河口の汚水の中で生き延びるボラの名誉は地に落ちたが、川を汚したのはボラではない。
野人は起業時から海の博物館長と共にボラの名誉回復の為に食材開発して来た。 製造は最も評価の低いボラやシイラの冷燻製、つまり生ハムから始まった。
常識の壁は厚く、味は抜群だったが売れなかった。
魚名を言わずに食べさせると大感激するのだが・・
続く・・
石器時代の食生活4 終章
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