4年生になり、1年がかりでやる卒業研究が水中撮影だった。
専攻は「船舶設計」だから卒研は設計が常識。
「何で~~?」と友人達から糾弾されたが無視、教授はそれで了解、支援もしてくれた。
好き勝手やれた海洋学部は本当に楽しかった。
真冬もプールの氷を割って水に入り、透明度、距離、シャッタースピード、絞りなどの研究に入った。
伊豆の海洋公園に大学の潜水実験プールがあり、そこへも通った。
当時発売されたニコノスⅠは画期的だったが操作が面倒だった。
それまでは耐圧で頑丈な「水中カメラケース」だったのが、カメラ本体が耐圧となった。
段ボールで何箱もフラッシュバルブを買い込み、フィルムも何種もテストしていた。
終わったら大学の暗室で現像までやっていたのだ。
高額な費用は実験データと引き換えにすべて三井海洋開発が負担してくれた。
10人でチームを組み、「海底5千mにおけるマンガンドレッジ開発」がテーマで、30mの駿河湾の海底での実験において野人ともう一人が「海中撮影班」だったのだ。
卒研発表は寝坊して行けず、相棒がやってくれたから無事に卒業出来た。
ヤマハに入社して屋久島へ。そこで買ったのがこのニコノスⅡで、操作は相変わらず面倒だった。
当時、本体カメラだけで8万くらい、28ミリレンズやフラッシュバルブ、アーム、計器類、ジュラルミンケースまとめて20万近かった。
レギュレターやウェットスーツなどの潜水用具一式も個人の必需品として会社が買ってくれた。
入社時の23歳から責任者として海関係の屋台骨を背負わされたのだ。
船長も兼務、魚類調査の半分は30mから40mの海底で潮流も速く、大型サメがいて当たり前、護身には独特の工夫が必要だった。
30mの海底で空気が来なくなり、器材を捨てて身体一つで浮上もした。
映画の世界が身に降りかかるとは思わず、失神寸前だった。
一瞬の理の判断と体力が生死の分かれ目になることは間違いない。
ごく軽い潜水病にかかっていたが面倒でそのまま放置していた。
潜水深度も潜水時間も限界ギリギリの仕事だったからまあ当然だろう。
低気圧が近づき気圧が下がると肘が疼くのですぐわかったのだが、自然治癒してしまった。
考え方によってはまことに便利だったが仕方ない。
海底の調査が終われば自分でコンプレッサーでタンクに空気を充填、4年間でタンク600本は使用した。
詳細は「連載 東シナ海流」で。
器材一式は会社に残しても誰も使いこなせないと言うことで頂いた。
このカメラは今では時代遅れの骨董品だが捨てずに押入れで眠っていた。
カビだらけになっていたが。これは野人の若き日に生死を共にした相棒なのだ。
野人には写真の趣味もなくアルバムもなかった。
いただいたプライベート写真は段ボールに入って押し入れの何処かにあるだろう。
普通のカメラは最近のデジカメ以外買ったことがなく、水中カメラは仕事の道具として必要だった。
スキューバの器材はとっくに手を離れたが、愛用のモリとこいつだけは今も残っている。
新日本紀行 1
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新日本紀行 2
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おい・・ お手!
海の底で亡骸にかけた言葉
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