専門家の欠点 教育の盲走 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

弱点のない人間も欠点のない人間もいない。

左右、上下、善悪のように対比するものがなければ弱点も欠点もないのだが、単に欠けている部分を欠点と考えるなら専門家と呼ばれる者には欠点があるのは当たり前と言うことになる。

専門家と言うのはある分野において知識や技術や経験が優れているもののことだ。

学者であれ、スポーツ選手であれ、そう呼ばれるまでには相当な時間を費やしたはずだ。

体だけでなく当然頭もそれに集中して費やしている。

つまり他の人と比べたら他の事に費やした時間が少ないということだ。

野球一筋、音楽一筋と言う言葉どおり、それに青春の全てを費やした者は多い。

良い会社、良い大学へ入ろうと受験の為の勉強一筋なら遊ぶ時間もなかったろう。家で電子機器で遊ぶのが精一杯だ。

その時々の年齢で、得たものも大きいが失ったものも大きいはずなのだ。

受験の専門家などいない。受験が終わればそれまでで、後は人生において何の役にも立たないものだ。

人生は会社に入って終わりではなく始まりだ。その会社で、社会で、家庭でどのように生きて行けるかだ。他に何もなければ術もなく挫折してしまう。

知恵もなく、雑草のような生命力もなければつまらない生涯を送るだけになるだろう。

おかしなプライドは視野を狭め、柔軟な思考や発想を妨げる事になる。

野人も幾つかの分野においては専門家で欠点だらけだ。

しかし小さい頃から専門家の欠点には気付いていた。

ミクロの世界での集中力が今の文明を作り上げたことは間違いないが過ちも同じくらい多い。

自然は多くのことを教えてくれた。学校の勉強の比ではない。

過ちをおかす度に落胆、身体も傷つき、幾度かは生死をさまよった。

その中から見つかった答えは専門外にあることが多いのだ。

人間にとっては「別の視点」と言うことになるがそうではない。

自然界はすべて連動している地球と言う生き物なのだ。

地球もまた宇宙の一部であり、「立体的な視野」は広ければ広いほど真実が見える。

ミクロはマクロあってのミクロでどちらも大切なものだ。

科学も化学も、医学も薬学も、物理学も数学も、すべて自然界から生まれた。

同じ医学でさえも専門外の医学は手が出せない。農学も水産も同じことが言える。

「赤信号皆で渡れば怖くない」の言葉どおり、専門家同士が脇道へ当然のように進むこともある。

常識が、教科書が正しいとは限らない。歴史は過ちの繰り返し。修正は痛みを伴う。

失敗、挫折、痛み、苦しみ、悲しみを知らない心は脆い。大人になるまでの時間が一番大切なのだ。

受験に合わせて子供を育てる今の教育は人を育てず肩書きを育てているようなもの。

受験の専門家を育てる事はやめて欲しい。身体だけ大きくなり人間しての中身が伴わない。気もミネラルも足りずバランスも悪い。それが野人には今の野菜と重なって見えている。

教育普及率トップクラスの日本が先進国の中では学力が極端に低いのは知恵が欠けているからだ。

知恵は理に適った思考と体験と豊かな感性から生まれる。

野人の知恵もまだ発展途上、これからが正念場だ。感性が足りないのかも・・

農業は集落を作り、人間の文化、産業を生み出した原点。

何処で間違えたか腰を据えて振り返ってみる時期だろう。

産業、健康、環境面から見ても崩壊寸前なのだ。そう思わない人のほうが少ない。

自然界から広く学ぶ事で活路が見出せる事は多い。

人が何を主張しようが森羅万象は不変のものだ。