ヤマハ株式会社の本社は浜松にある。当時は「日本楽器製造株式会社」と言っていた。
ヤマハは商標で楽器の生産量は世界一だ。
面接の日までこの事は知らず、ヤマハはオートバイの会社だと思っていた。
リクルートブックを読んで調べた訳でもなく、成り行きで仕方なく一番苦手なサラリーマンになってしまった。
卒業が近づいても、まったく就職する気はなく就職活動すらしたこともなかった。
単身中南米へ渡り、沈没船の財宝を引き上げようと企んでいた。
その資金は、現地で船とトラック、ゆくゆくはヘリコプターも手に入れ、陸海空運業で捻出しようと考えた。
別にひと山当てたかった訳でもない。
カリブ海にロマンを感じ、たとえ見つからなくとも一生夢を追い続けていたかった。
東海大学の海洋学部船舶工学科では海洋学全般、船の設計を専攻した。
プロダイバー目指し、スキューバクラブにも入り、徒手空拳で生きて行く為に空手部に属した。
ゆくゆくは小型潜航艇を自分で設計製作しようと考えていた。
最初から宝捜しの為にこの学校を選んだのではないが、最初の夢に挫折し、結果、こうなってしまった。
高校生の時、テレビで見たフランスの海洋学者ジャック・クストーの活動に感動、海洋学者になろうと思った。
クストーはスキューバ潜水具を発明した科学者で、海洋調査船カリプソ号で世界中を回り、海洋生物の保護に情熱を傾けていた。
将来は、日本の海洋開発、海洋資源の有効利用の為、深海に挑み、礎になる覚悟が出来ていたが、利益優先の企業、海に対するビジョンのない国家に失望、他の道を選んだ。
大学4年の後半、空手部の大先輩でもある就職課長から呼び出され
「お前、浜松のヤマハへ行って来い、お前にピッタリだ」と言われた。
勉強はともかく、海が専門のタフで特殊な能力の人材を捜しているらしい・・
「嫌です、南米へ行くんです」と答えたら
「お前、俺の命令が聞けんのか?」と言う。
当時の運動部は体育会と呼ばれ、中でも空手、少林寺、日本拳法、沖縄空手、合気道、柔道、剣道は「武道7団体」として勢力を誇っていた。
4年が「神様」、3年が「人間」、2年が「奴隷」、1年は「ゴミ」とされ、縦の関係は厳しかった。
規律などお構いなし、武道の先輩にも平気で逆らう無礼者だったが、この大先輩にはとても逆らえそうにない。
何しろ4年で神様になったのだが、そのはるか上に君臨する大魔神なのだ。
「しかし背広も靴も持ってないんですが」と答えたら
「背広は俺の物を貸してやる、靴ぐらい自分で買え」と言う。
真冬でも学校でもほとんど下駄で過ごしてきたので、まともに靴が履けるのだろうか。まして靴下など履くこともなかった。
「やはり下駄で行きます」と言うと
「大学のメンツ潰す気か?」と、また怒る。
「とにかく面接に行くだけ行けばそれでいい、入るか入らんかはお前の自由だ」と言うのでやむなく従うことにした。