あるじさまを探して・郷土史講座4回目編 2 | エメラルド

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好きなことや日々の雑感を書き綴ってます

日曜日だけど、昨日のレポの続き。

講座の内容がすっごくおもしろかったので。

ちょっと語らせてもらいます。


遅れてこっそり入室したら、ちょうど「六連銭の旗」の話してる!

急いで、窓側の後ろの席に向かう。

もう、ここが定位置みたいになっちゃった。

あわてて脇を通る時ぶつかっちゃった人もいるかもしれないけど。

「すみません」と言う心の余裕もないまま通り過ぎた。


前回は、世良修蔵が殺されたとこまでだった。

いよいよ奥羽越列藩同盟が結ばれる話から始まったと思うのだが。

20分ぐらい経過してるので、既に喜平太さんは出陣していた。


以下、講義の内容をちょっとだけ。


白河口の戦いに参謀として出陣した喜平太さん。

この時、今まで使ってた背旗じゃなく、先祖伝来の六連銭の隊旗を掲げた。

バリバリ勤王派で、会津を倒して新政府軍に従うことを訴えた喜平太さん。

しかし、仙台真田家は伊達家に恩があるので、「この恩に報いなければならない」という家訓がある。

自分の主義のために恩に背くわけにはいかない。

真田家の子孫として、伊達家のためなら朝敵となることも厭わない決意の旗なんだ。

(かっこいい!泣ける場面ですな)


洋装の軍服で戦う喜平太さん。

しかし、仙台藩の装備は、まだまだ旧式のままだった。

喜平太さんが兵制改革を訴えても通らなかった。

(その点は、会津藩と一緒よね)

ていうか、東北諸藩はほとんどそんな感じで。

新政府軍の最新式の銃器に火縄や刀槍で立ち向かっていた。

(装備の点で、既に勝敗は見えていたんだなぁ)


味方がどんどん敗走する中、真田隊は善戦。

喜平太さんみずから銃を取って戦ったけれど。

ついに弾丸が尽きて退却。

(ああ、なんか道明寺合戦思い出しちゃう)

退却後に点検したら、喜平太さん傷1つなかったと。

敵の弾は、笠や刀や短銃に当たってたけど、本人には当たらなかったらしい。

(神がかってるなぁ)


その後、二本松城が落城。

取り返しに行こうとしたけど、敗兵散乱で敵中に置かれてしまった。

再挙を図るため仙台に帰ることになった。

途中、会津に寄ったけど、戦わないで帰るのかっむかっみたいな雰囲気だったらしい。

米沢では、一緒に出兵しようと言ったけど断られたり。

(奥羽列藩同盟は、もろいよね)


喜平太さん、白石→七ヶ宿→米沢と往復して交渉してたらしい。

なんか、自分もよく通るところだけど。

あの道を藩のために奔走してたわけだなぁ。

あそこの宿場に泊まったりしたのだろうか?

振袖地蔵さまや関の地蔵さまに手を合わせたりしただろうか?

過去が現在のすぐ近くに存在してるような感覚。

今度あの街道を通ったら、西洋の軍服に六文銭を背負った喜平太さんの幻が見えそうじゃ・・・


その後の戦いに、2つの作戦があったらしい。

1つは、かつて政宗公が徳川家から攻められたときのために練った防衛計画。

もう1つは、喜平太さんが立案したと思われる作戦。

仙台城を焼いて平泉で敵と対峙する計画だったらしい。

ロシアのピョートル一世やナポレオンを例に挙げていたそうな。

(さすが、古今東西の兵学に通じた喜平太さんだわぁ)


しかし、その作戦が実行に移されることはなく。

仙台藩は降伏。

戦後処理が行われる。


喜平太さんが守ろうとした伊達家は、断絶こそなかったけれど。

藩主慶邦公は、巣鴨あたりで貧しい暮らしの末、明治七年に亡くなった。

自分のせいで伊達家を朝敵にしてしまったことをずっと悔いてたらしい。


仙台では、勤王派は人気がなくて。

勤王派の人のことはあまり調べられていない。

喜平太さん本人は勤王派だったけど。

後に官軍と戦ったということで、勤王派からも佐幕派からも批判されてるみたい。

ただひたすら、伊達家のために頑張ったのにね。


天皇家を敬い、国を守るために戦ってたのに・・・

そういうとこ、奇しくも会津藩の立場と似てたんじゃないかなーと思った。

ちょうど、尚之助さんの本読み終わったとこなんで。



つづく


出版されたばかりの本の講義なので、詳しい内容を書くことは控えていたのですが。

すっごくおもしろいとこだったので、ちょっと長々と書いてしまいました。

(しかも、もうちょっと続けるつもり)

私の主観も入ってます。

もしも問題がありましたら、御指摘ください。