サミットのレポは中断したまま、もうちょっと喜平太さんのお話。
だって、すごくおもしろかったんだもん!
12月7日、蔵王町郷土史講座のお話。
維新後の喜平太さんは、石巻に転居。
塩田開発に失敗した後は教育者となり、小学校の先生とかやっていた。
宮城県議会の会議録にもその名があるとか。
明治4年、お父上の幸清さんが亡くなる。
このお父さんは、喜平太さんに家督を譲った後、「真田塾」という寺子屋の先生をしていたのだ。
その時の教え子たちが先生を偲んで建てたのが例の筆子塚。
そして、そこに幸村さまの子孫であることが初めて明記されたのよね。
もう徳川幕府もなくなったから、公表してもよかろうと喜平太さんが許可したらしい。
いわば、仙台真田家の記念碑みたいな筆子塚。
ああ、返す返すも行きたかったバスツアー。
いいんだ。そのうち、筆子塚探して1人で蔵王町ツアーしてやるっ!
明治になってから、喜平太さん甲冑を着て写真を撮った。
戊辰戦争の時は、洋装の軍服だったのにね。
それは、先祖伝来の甲冑。
兜に鹿角がついてたりするの。
白い采配も、幸村さまが使っていたもの。
子孫であることをもう隠さなくてもいい。
そんな気持ちだったのかもしれない。
明治20年10月16日、喜平太さんは病のため亡くなる。
藩主慶邦公と同じく神葬にしてほしいとの遺言だった。
死んでもなお伊達家に仕えたかったのね。
お墓は、仙台市の成覚寺。
また、石巻の西光寺には墓碑だけ残っている。
(震災で倒れてしまったそうだ)
そのうち、お墓参りに行ってみたいな。
ああ、また行きたいところが次々と・・・
そして、思う。
喜平太さん、大河ドラマにするべきだよっ!
つづく
本日は、眠いからちょっと短めに。
講座の内容の紹介なので、あまり詳しくは書かないつもりですが。
不適切な場合は御指摘ください。