で、熱原の法難と申しますると弘安2年の事ばかりと思いますけれどそうではないんですね。
実はその始まりはもう建治元年から始まっております。
この時に、滝泉寺における日秀、日弁等が追放されるとか様々な事があって、それを日興上人が指揮を執られ、そして、上野殿がやはり庇われてるというような事があって、建治元年から始まって弘安2年がピークであり、そして弘安4年にやっと終息した前後7カ年に渡るんですね。大変な御苦労だと思う。
すべての指揮を御執りになったのは日興上人。そして、在家の立場でもって仕切ったのがこの上野殿でありまして、当時20歳前後の上野殿の身にはどれほどの御苦労があったか。
この心身共に重なる心労が影響したのかどうか、法難が終息した弘安4年の翌年の弘安5年の2月の春に重病になっちゃったんですよ。
それこそ軽い風邪なんかではない。命にかかわる死線をさまようほどの重病になって、日興上人も上野殿の屋敷に駆けつけたほどの重病であった。
この時に、大聖人様が下された御書が『法華証明抄』です。
で弘安5年は大聖人様の御入滅の年でしょう。この年にはもう大聖人様はあまり御書をおしたためになられない。『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』を含めてわずか10通ですね。
でそのあとほどんどは御自身が口述されて、側の弟子に筆記させてこれを送らせておられる。
ですから、実はこの『法華証明抄』の3日前に、日朗に代筆させて大聖人様が上野殿を励まされている御書が一つあるんですが、その3日後に「代筆では気が済まない」と思されたのか、自ら御筆を御取りになって『法華証明抄』をおしたためになった。
短い御書でありまするが、大変異例のおしたためぶりですね。
一番最初の冒頭に「法華経の行者日蓮」とおしたためになって御判形(実印)をおしたためになっておられる。
そして、ずーっとお書きになって、最後の末文が只今拝読した所であります。
「又此の者嫡子となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて」
「上野殿は、故上野殿(すなわち亡き父親)の跡を継いで嫡子となって、誰からも信心を勧められない立場にも関わらず、心の中から大聖人様を信じきった」と。
そして
「上下万人あるいはいさめ、或いはをどし候いつるに、ついに捨つる心なくして候へば、すでに仏になるべしと見て候へば」
というのは、先般も申しましたが、幕府の方から「地頭の立場で幕府が憎む日蓮房の信心をするとは何事だ」というんでもって、陰に陽に様々な迫害、脅しがあったんですね。
「この上下万民の諫め、あるいは脅し、これに、ついに『私は大聖人を命かけて信ずる』という心を貫き通した」
「すでに仏になるべし」
大聖人様の御眼から見て「南条時光はすでに仏になる」ということを証明して下さったお言葉でしょう。
「すでに仏になるべし」
こう見えれば、天魔・外道が最後の妨害をするわけですよ。上野殿の成仏を
「天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か」
「権力の脅しにも屈しないその上野殿に対して、第六天の魔王が病(病気)につけて上野殿を落とそうと今試みる。それがこの病気なのだ」
という事なんです。これが「病魔」という事ですね。
そうなんでしょ。上野殿がもう死線をさまようような重病に遭って『もうだめなのか』などという気持ちを起こして、あるいは『これだけ信心してるのになぜ』という愚痴っぽい気持ちを起こしたならば、それこそ天魔の思うつぼになるでしょう。
「『この信心を病につけてぐらつかせよう』これがすなわち今回の病なのだ」
人は「生きたい、生きたい」と思う心があるから病になるとびくびくするんですね。病に怯えるんですよ。病気の方が偉くなっちゃうんです。もうびくびくびくびくする。
そこで大聖人様が「そのような事ではいけない」と。
「死は一定なんだ。人間は1回は必ず死ぬんだ。死んだっていいではないか。
死ぬまで信心を貫いて成仏させて頂ければいいではないか。
この肚を決め切りなさい」
その仰せが
「命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ」
という事なんです。
今死線をさまよう上野殿に対して大聖人様が
「命は限りがあるのだから惜しんではいけない。少しも驚いてはいけない。病気などに驚くな」
と仰せられる。
これが「信心が病気に勝った」という事なんでしょう。この大確信を与えて下さった。
平成20年 4月27日 浅井先生指導
- 熱原の大法難における上野殿の捨身の御奉公
- 命は限りあるものなり、肚を決めた信心に立て
- 広宣流布・国立戒壇建立に戦える宿縁の有難さ