ほっ証明しょうみょうしょう』にたまわく
 またものちゃくとなりて、ひとすすめぬにしんちゅうよりしんじまいらせて、じょう万人ばんにんあるいはいさめ、あるいはをどそうらいつるに、ついにつるこころなくしてそうらへば、すでにほとけになるべしとそうらへば、てんどうやまいをつけてをどさんとこころそうろうか。
 いのちかぎりあることなり。すこしもをどろことなかれ。
 またじんめらめ、ひとなやますはつるぎさかさまにむか。まただいいだくか。さんじゅっぽうほとけ大怨敵だいおんてきとなるか。
 あなかしこあなかしこひとやまいたちまちなをして、かへりてまほりとなりて、どうだいくべきか。
 なくして現在げんざいには頭破ずは七分しちぶんとがおこなわれ、しょうにはだいげんごくつべきか。
 ながとどめよ。ながとどめよ。日蓮にちれんことばいやしみて後悔こうかいあるべし。後悔こうかいあるべし。
                        弘安こうあんねんがつじゅうはちにち ほうぼうくだ



 先週に引き続きまして、うえ殿どのたまわったしょ拝読はいどくいたしました。
 先週の『うえ殿どのへん』は、弘安こうあん3年の12月、うえ殿どのが22歳の時に下されたしょですね。
 只今ただいま拝読はいどくの『ほっ証明しょうみょうしょう』は、それより2年のち弘安こうあん5年2月、うえ殿どのが24歳の時に下されたしょであります。
 実は、この時うえ殿どのが「生きるか死ぬか」というせんをさまよう重病におかされてしまった。
 この時、うえ殿どのしきにおいてそばについておられたほうぼう(すなわち日興にっこうしょうにん)を通してうえ殿どのたまわった大事なしょであります。

 で先般せんぱんも申しましたが、うえ殿どのというのは宿しゅくえんの深い方ですね。私はつくづく思います。
 この方は、ざいたちでもってだいしょうにん御化ごけどうを助けまいらせた。
 ことに『晩年のだいしょうにんさまを助けまいらせるために出現された大変たいへんなお方だ』という事をおもっております。
 でこのうえ殿どのは、実は少年の時に父上ちちうえと死別された。父上ちちうえくなられたわけであります。
 そして、父のあといで富士ふじうえごうとうしょくにつかれた。
 同時に、とうしょくというのは、鎌倉かまくらばくに任命されてる。御家ごけにんたちでもって任命されてとうしょくになっているわけであります。
 で、16歳の時にだいしょうにんさま佐渡さどから御帰りになって身延に入山あそばした」という事をつたえ聞いた。
 そこに、(宿しゅくえんなんですね)少年のおさない時に父上ちちうえに連れられてだいしょうにんさまに一度か二度お目通りした。
 この仮初めの縁を忘れずして「だいしょうにんさまのぶの山に御入りになった」という事を聞いて恋慕の心を起こした。だいしょうにんさまにお目通りしたい」これが、れん渇仰かつごうの心。そういう心が自然とわき上がってきたという所にこの人の宿しゅくえんのただならないところがある。
 そして、みずかようの品々をたずさえて、みずから馬をってのぶだいしょうにんさまにお目通り申し上げた。この時が16歳ですよ。
 この時から、うえ殿どのの命かけてしょうがいつらぬいてのだいしょうにんさまへの奉公ほうこうが始まったんです。
 同時に、この時に日興にっこうしょうにんにおいした。日興にっこうしょうにんを直接のしょうとして様々なる信心しんじんきょうどうを受け、しょうがいかけてつらぬいたわけであります。

 ことに、うえ殿どの奉公ほうこうの中で特筆とくひつ大書たいしょすべきは、熱原あつわら法難ほうなんの時における奉公ほうこうですよ。

 うえ殿どのは、駿する一帯いったい(すなわち富士ふじほう一帯いったい)の信者の中心者、じゅうちんですね。
 で、日興にっこうしょうにんが全体に信心しんじんどうをしておられる。それを、ざいたち熱原あつわらの方々とも前々から日頃交わり、そして、信心しんじんはげましておられたそのたちだったわけなんですね。
 そして、悪い事に、この富士ふじほうというのはほうじょうそうほうじょうほん)のちょっかつりょうだった。
 そこで、ほんにおいてはけい(家のつかさ)というたち、これがへいの左衛さえもんでありましてこの者が全部仕切っておった。
 「そのちょっかつりょうの中でもって、とうしょくにあるなんじょう時光ときみつうえ殿どの)が信心しんじんをしている」という事がへいの左衛さえもんかんさわるわけですよ。
 で、様々に、前々からずーっとうえ殿どのに対しておどしがあったんですね。「そのような信心しんじんをしているとろくな目に遭わないぞ」「最後には身が持たないぞ」というような事を手を替え品を替え人を介して若きうえ殿どのあつりょくがあった。おどしがあった。
 その中で、いささかも動ぜずにだいしょうにんさま信心しんじんつらぬこう」という決意をせられたのがうえ殿どのでありまするが、その時、弘安こうあん2年に熱原あつわらの大法難ほうなんが起きました。
 この20人がばくされて鎌倉かまくら押送おうそうされた。
 その時に、うえ殿どのは「とうしょくをぶん投げる」そういう決意で、たいされた20人の人々の家族を回っては激励げきれいされた。
 それから、さらに役人どもは、実はほっこうしゅう壊滅かいめつさせようとしたんですね。「主だった者を全員たいしよう」という事で隅々すみずみまで探索たんさくをした。
 その時に、主だった信者を全部自邸(自分のしき)の中にかくまったんですね。
 そして、後々のちのちには浅間せんげん神社じんじゃ神主かんぬしがおる。これが何と帰依してだいしょうにんさま信心しんじんをした。この者がやはり追われた。それを何とうえ殿どのは自邸にかくまった。これを役人どもはかぎつけたんですね。「けしからん、うえとうでありながらもばく反抗はんこうしておる」という事でかぎつけて問題もんだいになった。
 その時に、だいしょうにんさましょがありまして

「もしも問題もんだいになったらひそかに神主かんぬしのがして、のぶに来るように言いなさい」

とまでだいしょうにんさまはお気を使われておりまするが、そのような中でもって、いつばくからこのうえ殿どのに「鎌倉かまくらへ来い」としょうかんがあって、そして「その場でくびねる」というような事すらも起こりかねないようなじょうせいですから、文字通り命をぶん投げて熱原あつわらの方々をかくまったんですね。
 でこの身命を捨てての法難ほうなんうえ殿どのは力を尽くされた。
 これをだいしょうにんさまは深く深く御感ぎょかんあそばされて、その時に下された『りゅうもんしょ』というしょがあります。その最後の末印まついんあて名書ながきがある。それに

うえ賢人けんじん殿どのへん

と若き21歳のうえ殿どのを「賢人けんじん殿どの」と仰せになった。
 これはだいしょうにん御一代の中でたった一回しかお使いになってないけいしょうですね。
 それを、若きうえ殿どのに下されたという事は、いかにこのうえ殿どのが命かけてだいしょうにんさま奉公ほうこうせられたか。
 そして、さらに追伸として

れは、あつわら熱原ことありがた有難さにもうへんなり」

熱原あつわらの事があまりに有難ありがたければ、このへんを書いたんだ」

という事をだいしょうにんは仰せになっておられる。
 まさに、うえ殿どの賢人けんじんであります。


平成20年 4月27日 浅井先生指導