『法華証明抄』に宣給わく
又此の者嫡子となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人あるいはいさめ、或いはをどし候いつるに、ついに捨つる心なくして候へば、すでに仏になるべしと見て候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。
命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。
又鬼神めらめ、此の人をなやますは剣をさかさまにのむか。又大火をいだくか。三世十方の仏の大怨敵となるか。
あなかしこあなかしこ。此の人の病を忽になをして、かへりてまほりとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。
其の義なくして現在には頭破七分の科に行われ、後生には大無間地獄に堕つべきか。
永くとどめよ。永くとどめよ。日蓮が言をいやしみて後悔あるべし。後悔あるべし。
弘安五年二月二十八日 伯耆房に下す
先週に引き続きまして、上野殿に賜わった御書を拝読いたしました。
先週の『上野殿御返事』は、弘安3年の12月、上野殿が22歳の時に下された御書ですね。
只今拝読の『法華証明抄』は、それより2年後の弘安5年2月、上野殿が24歳の時に下された御書であります。
実は、この時上野殿が「生きるか死ぬか」という死線をさ迷う重病に冒されてしまった。
この時、上野殿の屋敷において側についておられた伯耆房(すなわち日興上人)を通して上野殿に賜わった大事な御書であります。
で先般も申しましたが、上野殿というのは宿縁の深い方ですね。私はつくづく思います。
この方は、在家の立場でもって大聖人の御化導を助けまいらせた。
ことに『晩年の大聖人様を助けまいらせるために出現された大変なお方だ』という事を思っております。
でこの上野殿は、実は少年の時に父上と死別された。父上が亡くなられたわけであります。
そして、父の跡を継いで富士の上野の郷の地頭職につかれた。
同時に、地頭職というのは、鎌倉幕府に任命されてる。御家人の立場でもって任命されて地頭職になっているわけであります。
で、16歳の時に「大聖人様が佐渡から御帰りになって身延に入山あそばした」という事を伝え聞いた。
そこに、(宿縁なんですね)少年の幼い時に父上に連れられて大聖人様に一度か二度お目通りした。
この仮初めの縁を忘れずして「大聖人様が身延の山に御入りになった」という事を聞いて恋慕の心を起こした。「大聖人様にお目通りしたい」これが、恋慕渇仰の心。そういう心が自然とわき上がってきたという所にこの人の宿縁のただならないところがある。
そして、自ら御供養の品々を携えて、自ら馬を駆って身延の大聖人様にお目通り申し上げた。この時が16歳ですよ。
この時から、上野殿の命かけて生涯を貫いての大聖人様への御奉公が始まったんです。
同時に、この時に日興上人にお逢いした。日興上人を直接の師匠として様々なる信心の御教導を受け、生涯かけて貫いたわけであります。
ことに、上野殿の御奉公の中で特筆大書すべきは、熱原の法難の時における御奉公ですよ。
上野殿は、駿河一帯(すなわち富士地方一帯)の信者の中心者、重鎮ですね。で、日興上人が全体に信心の指導をしておられる。それを、在家の立場で熱原の方々とも前々から日頃交わり、そして、信心を励ましておられたその立場だったわけなんですね。
そして、悪い事に、この富士地方というのは北条の宗家(北条の本家)の直轄領だった。
そこで、本家においては家司(家の司)という立場、これが平左衛門でありましてこの者が全部仕切っておった。
「その直轄領の中でもって、地頭職にある南条時光(上野殿)が信心をしている」という事が平左衛門の癇に障るわけですよ。
で、様々に、前々からずーっと上野殿に対して脅しがあったんですね。「そのような信心をしているとろくな目に遭わないぞ」「最後には身が持たないぞ」というような事を手を替え品を替え人を介して若き上野殿に圧力があった。脅しがあった。
その中で、いささかも動ぜずに「大聖人様の信心を貫こう」という決意をせられたのが上野殿でありまするが、その時、弘安2年に熱原の大法難が起きました。
この20人が捕縛されて鎌倉に押送された。
その時に、上野殿は「地頭職をぶん投げる」そういう決意で、逮捕された20人の人々の家族を回っては激励された。
それから、さらに役人どもは、実は法華講衆を壊滅させようとしたんですね。「主だった者を全員逮捕しよう」という事で隅々まで探索をした。
その時に、主だった信者を全部自邸(自分の屋敷)の中にかくまったんですね。
そして、後々には浅間神社の神主がおる。これが何と帰依して大聖人様の信心をした。この者がやはり追われた。それを何と上野殿は自邸にかくまった。これを役人どもはかぎつけたんですね。「けしからん、上野は地頭でありながらも幕府に反抗しておる」という事でかぎつけて問題になった。
その時に、大聖人様の御書がありまして
「もしも問題になったら密かに神主は逃して、身延に来るように言いなさい」
とまで大聖人様はお気を使われておりまするが、そのような中でもって、いつ幕府からこの上野殿に「鎌倉へ来い」と召喚があって、そして「その場で頸を刎ねる」というような事すらも起こりかねないような情勢ですから、文字通り命をぶん投げて熱原の方々をかくまったんですね。でこの身命を捨てての法難に上野殿は力を尽くされた。
これを大聖人様は深く深く御感あそばされて、その時に下された『竜門御書』という御書があります。その最後の末印に宛名書きがある。それに
「上野賢人殿御返事」
と若き21歳の上野殿を「賢人殿」と仰せになった。これは大聖人御一代の中でたった一回しかお使いになってない敬称ですね。
それを、若き上野殿に下されたという事は、いかにこの上野殿が命かけて大聖人様に御奉公せられたか。
そして、さらに追伸として
「此れは、あつわらの事のありがたさに申す御返事なり」
「熱原の事があまりに有難ければ、この御返事を書いたんだ」
という事を大聖人は仰せになっておられる。まさに、上野殿は賢人であります。
平成20年 4月27日 浅井先生指導
- 熱原の大法難における上野殿の捨身の御奉公
- 命は限りあるものなり、肚を決めた信心に立て
- 広宣流布・国立戒壇建立に戦える宿縁の有難さ