そうでしょ。内容ないようのない者ほど身をかざりたがるじゃないですか。
 ですから昔から武士ぶしが「ぶん藤原ふじわらの血を引くんだ」とか「かん天皇てんのうの血を引く」とか、あるいは「せい天皇てんのうの血を引く」とかこういうことしょうたちはみんなきそって言ったんですね。
 僧侶そうりょもみんなそうでしょ。「ぶんは誰誰の」とこういうことを言って身をかざる。
 ところが、だいしょうにんさまはあえて

びんせんものまれ、せん陀羅だらいえよりでたり」

とこういうことおおせになるのは

「身のいやしきことをまずあらわして、ないしょうそんをここにあらわされるためなんだ」

ということなんです。
 これを、どうぼんの辺でもっておおせになられたわけでありまするが、私達はぼんとして、だいしょうにん弟子でしとしていかにこれをはいするべきか。
 私はいつもおもっておりまするが、けんでも内容ないようのない者ほど「血筋ちすじがどうの」「学歴がくれきがどうの」「じんみゃくがどうの」「肩書かたがきがどうの」とかそういうものをまわす者はろくなもんじゃないです。
 内容ないようがからっぽだから表の肩書かたがきでもってかざろうとするんですね。
 だから、安倍あべ晋三しんぞうという前のそう大臣だいじんが「ぶん岸信介きしのぶすけの孫である」とか年中まんしておりました。『ああこれは大したことはないな』とおもっておった。
 今の麻生あそうさんもそうですよ「おじいさんはよししげるそう大臣だいじんだ」なんてことを年中まわしておりまするが、これも内容ないようがないんですね。
 それから、今のキャノンのコンサルタントの社長なんかも有名人ゆうめいじんとなると「しょうかいしてくれ、しょうかいしてくれ」と有名人ゆうめいじんしょうかいしてもらうことを第一のつとめとして「ぶんは誰誰を知ってる、彼彼を知ってる」なんてことを年中ふいちょうしておった。内容ないようのない者はそうするんです。

 私達は、身をかざる必要はないんです。
 私達のただ一つのもっとも重い肩書かたがきは「日蓮にちれんだいしょうにん弟子でし」ということなんですよ。
 たとえ身はまずしくとも地位ちいはなかろうとも「日蓮にちれんだいしょうにん弟子でし」というこの肩書かたがきぐらい重くおおきいものはないんですね。
 「おん元初がんじょ本仏ほんぶつ一閻いちえんだいしょうにんであられる日蓮にちれんだいしょうにん弟子でし
 このことによって、私達はこんじょうにおいていっしょうじょうぶつげさせていただける。
 しかもこの肩書かたがきというのはしょうまでも通じていく。

 だいしょうにんさま

日蓮にちれん弟子でし名乗なのるならば、えん法王ほうおうりゃくにはあつかわない」

ということを『うえしょう』におおせになっておられまするが、私達は、胸の奥に日蓮にちれんだいしょうにん弟子でしとこの一つのふてぶてしいまでの確信かくしんたなければいかん。ほこりをたなければいかん。
 そして、今のこのもんの最後に

宿しゅくごうはかがたし」

おおせになっておられまするが、私達こそそうですね。ぼん過去かこにどのような謗法ほうぼうをしたか。
 こんじょうでもそうでしょう。しゃくぶくしてくれる者をののしったり、悪口わるくちを言ったり、うらんだり、あるいは、過去かこの700年前に日蓮にちれんだいしょうにんののしっていしをぶつけたかもしれない。
 そのような、りょう罪業ざいごうのあるのが私たちであります。
 その罪業ざいごうというのは、こんじょうにおいて諸々もろもろなやみ・くるしみとなって現われるわけでありまするが

「今、だいしょうにんさま御味おみかたをしてもしなんけるならば、そのなんによって過去かこ謗法ほうぼうざいしょうえるんだ」

ということだいしょうにんさまおおせになっておられる。
 いいですか「どのような罪業ざいごうがあろうとも信心しんじんしょうてっして、広宣こうせん流布るふのおつだいをするならばいかなる罪業ざいごうも消えて、それがどくになるのである」ということであります。


平成21年 2月15日 浅井先生指導