『佐渡御書』に宣給わく
日蓮も又かくせめらるるも先業になきにあらず。
不軽品に云く「其罪畢已」等云云。
不軽菩薩の無量の謗法の者に罵言打擲せられしも、先業の所感なるべし。
何に況や、日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出でたり。
乃至、心は法華経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶恐ろしと思はず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に、愚者のあなづるも道理なり。
乃至、又過去の謗法を案ずるに誰かしる。
乃至、宿業はかりがたし。
鉄は鍛え打てば剣となる。賢聖は罵言して試みるなるべし。
我今度の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし。
先般の御書講義で『佐渡御書』冒頭の文の肝要の部分を拝読いたしましたが、只今拝読の所はその後の方の一節であります。
で先般御書講義の冒頭で申しました。
「大聖人様ほどの立派なお方が、なぜに日本国中から憎まれ、流罪・死罪の大難をお受けになったのか」と。
その事について大聖人様は
「当時日本国中が信じている念仏・真言等は邪法である。毒である」
とこう破折されて「南無妙法蓮華経と唱えよ」という事をお勧めあそばされた。
「ゆえに、念仏・真言等を信ずる者が一斉に瞋恚を起こして、あのような大難を受けたのである」
という事を私は説明いたしましたが、只今の御文におきましては、大聖人様が示同凡夫の辺において仰せになっておられまするね。
「示同凡夫」というのは「凡夫に同ずるを示す」と。
要するに「大聖人様がなぜ難に遭うか」という事を
「自分に過去の謗法があるのだ。よって、その謗法の罪障を消滅するために今この大難を受けておって、この難を受けることによって過去の謗法の罪障を全部今生に消滅して仏果を遂げるのである」
という罪障消滅の原理をお教え下された。
で久遠元初の御本仏に過去の謗法の罪があるわけがないでしょう。
これが、私達凡夫を御救い下さるためにそのような事を仰せ下さるんですよ。
「実は自分には過去の謗法がある。よってその謗法をいつかは消滅しなければ仏にはなれない。
それを今、現世においてこの大難を受けることによって今生に招き寄せて仏果を成ずるのである」
という事を、実は過去にろくな事をしていない私達凡夫の身に約して
「凡夫が、過去のいかなる罪障を、このように、仏法を行ずる事によって難を受けて、その難によって消滅する事ができるのだ」
という原理をここに御示し下された。これを「示同凡夫」というんですね。「凡夫に同ずるを示す」と。これが、大慈悲のゆえであります。
「日蓮も又かくせめらるるも先業になきにあらず。
不軽品に云く『其罪畢已』等云云。
不軽菩薩の無量の謗法の者に罵言打擲せられしも、先業の所感なるべし」
とこう仰せになって
「大聖人様が今、このように国中から悪口罵言せられ、そして、流罪・死罪等の大難を受けて責められるという事も『先業(過去世における業)が自分にあるのだ』と。
不軽品には『其罪畢已』と説かれてる。
(『其罪畢已』というのは『其の罪已え畢って』というものですね)
不軽菩薩が難を受けることによって、過去の自分の罪業を消滅して、作仏する事を得た」
という事が説かれておりまするが、その原理を4文字で「其罪畢已」「其の罪已え畢って」という言葉で表わされております。
「不軽菩薩が無量の謗法の者から悪口を言われ罵られた。そして杖で打たれたという事も、過去世における業を感じて、その報いとして受けたのだ」
「何に況や、日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出でたり。
乃至、心は法華経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶恐ろしと思はず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に、愚者のあなづるも道理なり」
と仰せになって
「不軽菩薩は先業の所感である。
いかにいわんや、自分は、貧しく下賤の者(賤しい者)と生まれて、旃陀羅の家に生まれた」と。
「旃陀羅」というのは社会的に一番低い階層ですね。
今でも「部落民」とか、昔は「穢多」なんて言葉がありましたね。屠殺に従事する人たちを「穢多」なんていう言葉で呼びましたが、とにかく、社会の最低限にいる階層を「旃陀羅」と昔は呼んだわけであります。
これは、インドの4つの階級の最も下をいうわけでありまするが、大聖人様は「安房の国の小湊の漁村にお生まれになった」「漁師の家にお生まれになった」という事をここに仰せになっておられるんですね。
ゆえに「身はこのように賤しい」と。
しかし
「心は法華経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶恐ろしと思はず」と。
「身は賤しいけれども、心は法華経を信ずるがゆえに、梵天・帝釈を恐ろしいとは思わない」
という事は、これは大聖人様が、ここに密かに「まさに、梵天・帝釈をも従える」という久遠元初の御本仏の御境界を顕わしておられるんでしょう。
しかし、愚者にはその事はわからない。世間の者にはその事がわからない。
よって、世間の者はただ外相だけを見る。外面だけを見る。
『なんだ、賤しい家の生まれではないか。千葉の漁村の生まれではないか』とこういう事を思って「色心不相応」といって外面と大聖人様の御内証とのあまりの違い。それが、バランスがとれないゆえに
「人々は、外面を見て自分をあなずるであろう。これも道理である」
という事を仰せになっておられる。
「又過去の謗法を案ずるに誰かしる。
乃至、宿業はかりがたし。
鉄は鍛え打てば剣となる。賢聖は罵言して試みるなるべし。
我今度の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」
というのは
「過去の謗法の事を思うに誰か知ろう。これほどの謗法を過去に自分はやってきたであろう」と。
そして、ずーっといろんな例をお挙げになっておられるわけであります。
「その宿業というものは計りがたい。過去にどんな事をやってきたか、その罪業というものは到底推量することはできないのである」と。
で、鉄は火の中に入れて何度も何度も鎚で打つんですね。
そうやって打つうちに、だんだんと刀身の中に隠れておった疵が出てくるんですね。
「打っては折り返し、打っては折り返し、そのたびに真っ赤に焼いて打っていくうちに、ついに、刀身に隠れている疵は一つもなくなって、立派な剣となるのである」
「賢聖は罵言して試みるなるべし」
「賢人・聖人というのは、罵る事によってますます境界が開けてくるのである」
「自分の今度の流罪・死罪というものは、世間の失は一分もない」
まさしく、折伏を行ぜられての怨嫉による所でありまするから「世間の失一分もなし」と。
「ひとえに、この大難を受けることによって、過去世の謗法の罪業を全部今生に消して、後生には、三悪道を逃れる事は疑いない」
これは「今生に大仏果を遂げる」という事を仰せられた御言葉であります。