そして、学というのはだいしょうにんさまこころを正しく知りたてまつる。これが学ですよ。
 日興上人が御遺誡二十六箇条に

りゅういささかもせんづうせざること

とのおおせはまさにこの大確信だいかくしんもとづいておおせになったことでしょう。

 「にんりゅういちいちせんづうすること

 五老僧は全部だいしょうにんさまこころが分からないから曲がってしまった。
 今のときにおいてもそうですね。
 聖教新聞に2,3日前に出ておったんですが、創価学会ではきょうの展覧会を全世界でやって、今度日本にっぽんにその展覧会を持ってきた。
 それを大宣伝しておりまするが『きょう 平和と共生のメッセージ』とこういうタイトルの展覧会をひらいて「きょうがどのように伝わってきたか」ということきょうの原典から何とかそういう物を写真でもって展覧して「きょうこそが」とこうやっているんです。
 でそれでその展覧会をほめさせるインドの何とか博士ということをつけているんですね。こうっておる。
 「池田大作博士は人類の最高の宝であるきょうを現代によみがえらせた偉大なる哲学者てつがくしゃであります」大作が哲学者てつがくしゃになっちゃった(笑)。
 いいですか、ここで彼は本当は「日蓮にちれんだいしょうにん」とわなければいけないんですよ。
 それを世間の者にへつらって「きょう」「しゃぶつ」とうと抵抗がなくて反対する者はいない。ここでへつらっていくんです。
 「日蓮にちれんだいしょうにん」「南無なむみょうほうれんきょう」というと耳に逆らい反対する者がある。
 そこで、世間の受けを良くするために、自分を上げるために、自分がいかにもきょうを説いて現代によみがえらせた哲学者てつがくしゃのような名前をよそおって『きょう 平和と共生のメッセージ』なんてやっている。
 これはだいしょうにんはずかしめるものでしょう。日蓮にちれんだいしょうにんの「に」の字も出てこない。
 これがまさに五老僧が「天台てんだい沙門しゃもん」とったのと同じ精神なんですよ。
 ですから、顕正会においてはつねに「日蓮にちれんだいしょうにん」と名乗らせていただいている。
 「憎まれようと褒められようとも、日蓮にちれんだいしょうにんとして生き、日蓮にちれんだいしょうにんとして死んでいく」これが本当の日蓮にちれんだいしょうにんじゃないんですか。
 そして池田大作は本門ほんもん戒壇かいだんだいほんぞん以外に成仏の叶う大法はない」これをうとみんなまた抵抗を感ずるということでもって、御観念文から「本門ほんもん戒壇かいだんだいほんぞん」の9文字を削ってしまった。何ということか。
 そして、だい遺命ゆいめい国立こくりつ戒壇かいだんを捨ててしまった。
 こういうことになったならば、これはもうだいしょうにんさまこころに背く。こころに背いて唱えた題目は功徳がないんです。
 ですから、学ということだいしょうにんこころを正しく知りたてまつる。
 一言ひとことえばだいしょうにんさまの御弘通の所詮は三大秘法」「だいしょうにんさま遺命ゆいめい国立こくりつ戒壇かいだんですよ。
 このことがしっかりと分かってくれば学ということちがわないわけであります。
 でわれもいたし、ひとをもきょうそうらへ」というのは「自分もお題目を唱え、人にもこれを勧めなさい」ということです。
 自分だけで唱えて人にも勧めない。折伏しゃくぶくの精神がない。広宣こうせん流布るふの大願がない。
 いつの間にか謗法ほうぼう充満じゅうまんの国土において謗法ほうぼうのリズムに自分の命が同化してしまうんですね。
 ですから、つね折伏しゃくぶくの精神、広宣こうせん流布るふの大願に生きていく。
 そして、自分も唱え、人にも勧めるということなのであります。
 そして、この行学ぎょうがくどう信心しんじんより起こるのである。行学ぎょうがく信心しんじんによって起こる。
 『だいしょうにんさま有難ありがたい』『ほんぞんさま有難ありがたい』とおもえばこそ「もっと知りたい」という気持ちが起きてくる。
 この信心しんじんから起きてくる教学、これがだいしょうにんさま仏法ぶっぽうの教学なんですね。


平成24年 3月11日 浅井先生指導