いいですか、このように我等何の甲斐もない凡夫が一生のうちのわずか数十年の信心でもって仏にならせて頂ける。何と有難い事か。
これは、御本尊様の仏力・法力によるんです。
御本尊に絶大の仏力・法力がまします。
私達は信力・行力を起こしていく。
御本尊様への恋慕渇仰の信心に立つ。そして、南無妙法蓮華経と唱え奉り、人にもそれを勧める。
その信力・行力の中に自然と御本尊様の功徳を頂くんです。
ですから、いかなる人もこの御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その凡夫の濁った心の中に仏様が宿って下さる。日蓮大聖人様がお宿り下さるんですね。
そうすると、心法が変わってくるんですよ。
今までの貪・瞋・癡の三毒にまみれた、欲と怒りと愚癡にまみれた命が自然と心法が変わってくる。
今までキレやすくてすぐカーッとなって何でもかんでもぶち壊してしまう。
それが、自然と相手に対して思いやりが出てくる。
このように、自分でも『不思議だな』と思うくらい心法が変わってくるんです。
この自分の心に宿った仏様、そのままでは弱いんです。
このように、自分の心に仏様が宿った時を内証成仏というんですよ。内証に成仏する。心の中に仏様が宿ったから内証成仏という。
しかし、内証成仏であるから我も自覚がない。人も知らない。
そして、日頃は愚痴に悩まされ、あるいは臆病の心に悩まされるかもしれないけれども、愚痴のままでもいい、しっかりと南無妙法蓮華経と唱え奉るのだ。
臆病のままでもいい、そのまま一歩前進して『自分でも大聖人様のお手伝いができるではないか』との思いのまま大聖人様の御味方をして、自分の力に応じてこの事を人にも勧めていこう。
まず親に信心を勧めていこう、兄弟に信心を勧めていこう、力に応じて信心を勧めていく。
こういう事を繰り返していくうちに内証成仏が堅固となってくる。自分の心に宿って下さった仏様が大きく成長してくる。
そして、ついには臨終の時に成仏の相を顕わす。これを外用の成仏というんですね。
仏様が宿った時は内証の成仏であり、臨終の時に成仏の相を顕わすのは外用の成仏である。
ゆえに、この御書と同じ年の正嘉2年に著わされた『一念三千法門』という御書があるんですが、この中にこういう事を仰せになっておられるのです。
「現世に内証成仏するを即身成仏と申す。
死すれば光を放つ、是れ外用の成仏なり」
「現世には仏様が宿って下さる。これは内証成仏、即身成仏という。
『死すれば光を放つ』というのはよき臨終をする事ですね。きれいな臨終の姿になる。
これはすなわち外用の成仏であり誰にも分かる事である」
でさらに仰せられる。
「法華経の行者は如説修行せば必ず一生のうちに一人も残らず成仏すべし」
いいですか「必ず一人も残らず」とは「どんな者であっても信心さえ退転しなければ例外なく必ず一生のうちに成仏させて頂ける」という事なんです。
大聖人様に背いたり、戒壇の大御本尊様の悪口を言ったり、そういう事をしない以上は上中下の三根はあれども必ず一生のうちに一人残らず成仏させて頂けるという事であります。
平成27年 3月8日 浅井先生指導