そこで、只今の御文を拝読いたします。
「此の道に入りぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕わすなり」
「この御本尊を信ずる人々の中にも上根・中根・下根の3つの根がある。」
この「根」というのは機根の事ですね。
すなわち、信心をつかむ能力であります。
その機根において上中下の3つがある。
3つあるけれども、同じく一生のうちに信心をつかむ事ができる。顕わす事ができる。
要するに、一生のうちに大聖人様と一体の絶対信をつかむ事ができる。
「上根の人は聞く所にて覚りを極めて顕わす」
「上根の人は聞いた時に直ちに覚りを顕わす」
この覚りというのは末法においては智恵・才覚に渡して哲学的な覚りを得るという事じゃないんですね。
末法の覚りはすなわち「信じ切る」という事なんです。御本尊様を信じ切る事ができた。大聖人様を信じ切る事ができた。
その事によって自然と言葉ではうまく言えないけれども大聖人様と一体の境界になる事ができる。
これがすなわち上根の人であります。
一例を挙げれば、あの法華講衆の人々はそうでしょう。
ことに、その先達の神四郎殿は日興上人にお遭いして、その御説法を聞き奉るや直ちに「日蓮大聖人こそ末法の御本仏」との大確信に立ったんですね。
これは「説明しろ」と言っても説明なんかできない。
しかし、命でもって「日蓮大聖人こそ末法の御本仏」と命の底から感ずる事ができた。
ですから、弘安元年に入信し、翌年の弘安2年にあの熱原の大法難が起きてもびくともせずに「一心欲見仏、不自惜身命」の姿のまま日蓮大聖人の信心を国家権力の脅しにも屈せず貫き通した。
この事はすなわち絶対信という事を日興上人の御説法を聞いて一瞬のうちにつかむ事ができた。
さらに、上野殿にしてもそうでしょう。
先般の顕正新聞にも出しましたけど、上野殿は16歳の時に身延の大聖人様の御許に詣でて、その時から上野殿の御奉公が始まったわけでありまするが、わずか16歳の時から74歳までの一生の間に一回も退転する事なく信心を貫き通した。
大聖人は仰せになっておられまするが
「此の者は嫡子となりて、人も勧めぬに心中より信じまいらす」と。
これは、こういう事なんですね。
誰に言われなくても、大聖人様にお遭いして、その一瞬のうちに大聖人様を絶対と信じまいらせた。
言うのも恐れ多い事ですが、日興上人は13歳の御時に大聖人様にお遭いして、たちまちのうちに弟子になられた。
日目上人は15歳の時に日興上人にお遭いして、たちまちのうちに弟子になられた。
これらの方々はことに上根上機、過去の大菩薩であり宿縁深厚の方であられる。
平成27年 3月8日 浅井先生指導