「中根の人は若しくは一日、若しくは一月、若しくは一年に顕わすなり」
「一般は中根ですよ。入信してもすぐには分からない。
一日、もしくは一月、もしくは一年、いや、三年、五年、十年とその間にある時は信ずる、ある時はおかしくなってくるというような事を繰り返し繰り返し顕わす」
そこに、信心というのは一人ではできないんですよ。組織という事がいかに有難いか。大聖人様は仰せでしょう。
「日蓮が弟子・檀那等は自他彼此の心なく水魚の思いを為して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え給うべし」
と仰せになっておられる。
異体同心の組織の中で励まし励まされ、そしてお互いに上と下で信心の歓喜の語り合いの中にだんだんだんだん絶対信というのが起きてくるんですね。
先日も体験発表でこういう報告を聞きましたけれども、ある婦人が信心をおろそかにしてほとんど信心を念頭に置かなかった。
そのうちに重い癌になって病床に臥して初めて大きな衝撃を受けて、その時に先輩が訪ねてきてくれて「命は限りある事なり、少しも惜しむ心なかれ」とのこの大聖人様の御書を繰り返し教えて「微動もせずに成仏を願う信心に立て」と懇々と教えてくれた。
「その時に初めて絶対信という事が分かった」という事を言って、おかげさまで癌も良くなったという体験発表をやったという事を私は部長から聞きましたけれども、そういう事で、お互いに凡夫というのは入信しても成仏を願う鉄石の信心に立つという事はなかなか年月が経たなければできない。
まことに、この異体同心の組織の中で修行させて頂く事は有難いという事なのであります。
「下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終の時に至りて諸の見えつる夢も覚めてうつつになりぬるが如く、只今まで見つる所の生死・妄想の邪思い・ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつつの覚にかへりて法界を見れば、皆寂光の極楽にて日来賤しと思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり」
「下根の者というのは二年・三年・五年・十年経ってもまだ分からない。
これは、臨終の時まで行っちゃうんですね。
『よくつかめなかったけど退転はしなかった』という人が臨終の時になるとその真剣な信心に立っていくんですね。
臨終でもって今までの色々な妄想とか金に対する執着とかそういう事が全部なくなっていって『頼るものはもう御本尊様以外にはない。大聖人様以外にはない。成仏させて頂ければいい』との絶対信に臨終の時までは立つ事ができる」
という事を仰せになっておられるわけであります。
平成27年 3月8日 浅井先生指導