そして、その後において釈迦仏の予言のごとく、大聖人の御身には身命に及ぶ大難が波のごとく襲い来ったのであります。
その第一は『立正安国論』奏進の翌月、念仏の坊主どもに率いられた暴徒数千人が深夜に大聖人様を殺害せんとして松葉が谷の草庵を襲撃した。
数千人に取り囲まれたんです。殺害されて当然ですね。
ところが、大聖人様は不思議にもこの大難を逃れ給うた。
この襲撃の背後には幕府の実力者で念仏ゴリゴリの北条重時が大聖人様を暗殺しようとしてこの策謀を巡らせたのです。
第二の法難はその9か月後、今度は「生き延びたのがけしからん」とて幕府が正式に伊豆へ流罪した。この流刑は1年9ヶ月に及びました。
第三の法難はその翌年に起きた小松原の剣難。まさに波のごとしでしょう。
これは、大聖人の故郷の安房の国東条の郷の地頭であり、念仏の狂信者の東条景信が前々から大聖人様を憎み切っていたんですね。
立宗の時の御説法でもって「念仏無間」という事を聞いて以来『いつか必ず殺害せん』との思いを抱き通しておった。
この東条景信が数百人の軍勢を率いて大聖人御一行を小松原で待ち伏せし、殺害せんとした。
これはまことに用意周到なる凶行であります。
その法難のすさまじさを『南条兵衛七郎殿御書』にはこう仰せですね。
「射る矢は降る雨のごとし、打つ太刀は稲妻のごとし。
弟子一人は当座に討ち取られ、二人は大事の徒にて候。
自身も切られ、討たれ、結句にて候いし程に、いかが候いけん。討ちもらされて今まで生きて侍り」
何とも恐れ多い凄まじい攻撃がこの時にあったんです。
まず、御一行目がけて兵士達が矢を雨が降り注ぐごとくに射た。
そして、兵士達が一斉に御一行に襲い掛かったんですね。
その中、東条景信が馬を踊らせて大聖人様に斬りかかった。
この時恐れ多くも大聖人様は東条景信の凶刃によって頭に四寸(12cm)にも渡る大きな傷を負われ、左の手も打ち折られた。
まさに、御命も危うしと見えたほどの大法難であられた。何とも恐れ多い限りであります。
そして、第四の法難が最大の法難たる竜の口刑場における死刑であり、その後において引き続き行われた佐渡への流罪であります。
竜の口の頸の座は国家権力による死刑であるから絶体絶命であり、逃れる事はできないんです。
文永8年9月12日の丑寅の刻(午前3時頃ですね)、大聖人様は泰然として頸の座に座し給うた。
そして太刀取りの依智の三郎が御頸まさに刎ねんとしたその刹那、思議を絶する事が起きたのです。
突如暗闇の中から月のごとく光りたる物が出現したんです。
その光がいかに強烈であったか、太刀取り依智の三郎は眼眩んでその場に倒れ伏して、大刀がいくつにも折れて足下に落下したんですね。
この事を四条金吾殿は側ではっきりと見ておられるんです。
警護の兵士達はこれを見て恐怖のあまり一斉に一町(100m)ほど逃げ出してしまった。
馬上の武士達もあるいは馬から降りて畏り、あるいは、馬の上でうずくまってしまった。
もう頸を切るどころではない。砂浜に座し給うは大聖人ただ御一人。
大聖人様は厳然と叫び給うた。
「いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近く打ち寄れや、打ち寄れや」
だが、一人として近寄る者とてない。大聖人様は再び大高声で叫ばれた。
「夜明けば、いかに、いかに、頸切るべきは急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」
響き渡るは凛凛たる大聖人様の御声のみ。
まさに、国家権力がただ御一人の大聖人様の御頸を切らんとして切れず、その絶大威徳の前にひれ伏してしまったのであります。
このような思議を絶する荘厳・崇高・威厳に満ちた光景が人類史上この地球上のどこにあったか。
この大現証こそ、まさに日蓮大聖人様が立宗以来の不惜身命の御修行ここに成就して、ついに宇宙法界を我が身と開く久遠元初の自受用身と顕われ給うた御尊容であります。
そして引き続き、大聖人様を佐渡流罪となった。
佐渡で大聖人様の住まいとして宛てられた所は、わずか一間四面の廃屋で、死人を捨てる塚原という所に建てられた三昧堂と言われる堂ですね。ここに住まう事になった。
屋根も壁も隙間だらけ、寒風は吹き抜けて、床には雪が降り積もる。
これは、人間の住む所ではないですよ。まことに凄まじいあばら家であります。
その中で大聖人様は蓑を着て、凍える御手に筆を取り、上下二巻に渡る膨大なる『開目抄』を著わし給うたのであります。
令和5年 4月28日 立宗771年御報恩勤行会 浅井先生指導