さて、大聖人様の立宗はにわかになされたものではないですね。
それ以前に、御年12歳より32歳に至るまでの実に20年に渡る真剣なる御修学と透徹の大智をもっての御思索があられたのであります。
大聖人様は12歳にして仏法を学ぶ志を立てられた。
そして、近くの天台宗の大寺院清澄寺に登られた。
その頃の御心境を後年の『四条金吾殿御返事』にはこう仰せですね。
「日蓮は若きより今生の祈りなし、但仏にならんと思う計りなり」と。
今生の祈りというのは、現世における地位とか名誉とか財産などを求める祈りですが「このような祈りはした事がない」と仰せられる。
そして「ただ仏にならんと思うばかりなり」と仰せになっておられる。
成仏の大果報は永遠に崩れない。この最高無上の幸福たる成仏こそ人生の目的であります。
まさに、大聖人様はまず御自身が仏になり、次いで「一切衆生も仏に成さん」との大願を御幼少の時から御胸に抱いておられたのであります。
清澄寺で仏法を学ぶうちに、御幼少の大聖人様の御胸には2つの大きな疑問が湧き上がってきたのであります。
その一つは、清澄寺の周辺で見聞きする念仏の僧侶達の悪臨終ですね。
念仏宗では「西方極楽浄土」と言っておりまするが、彼らが死する時の姿というのはあるいは狂乱し、あるいは大苦悶し、そしてその遺体は黒色の悪相を現じている。これは一体いかなる事か。これが第一の疑問であられた。
もう一つの疑問は御誕生の前年に起きた承久の乱ですね。
すなわち、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の北条義時の専横を憤って、これを討伐せんとして比叡山(これは当時における天台宗の大寺院ですが、後に真言の邪法が入ってしまったんですね)、園城寺(この寺院は真言の本城であります)、この2つの大きな大寺院において幾度もも真言宗の大祈祷を繰り返し、その上で兵を挙げたんです。
だが、何の祈りもせぬ北条義時に天皇方は負けてしまった。
その負け方も1年、2年と戦ったのではなく、わずか数日でもって惨敗をしてしまったんです。
そして、後鳥羽上皇以下三人の上皇がことごとく島流しになって、皇室はまさにこの時亡びんとしたんですね。
「もし真言宗が正しければこのような悲惨があるわけがない」これが、大聖人様の御胸に抱かれた第二の疑問でありました。
いいですか、臨終についての疑問は人生の根本問題、そして、承久の乱についての疑問は国家興亡の根本問題です。
まさに、大聖人様は御幼少の時から人生と国家の根本問題を深く見つめておられたのであります。
これを見極めるには大智者とならねばならない。
ここに、御幼少の大聖人様は「日本第一の智者となし給へ」とこの祈願を強くなさっておられたのであります。
令和5年 4月28日 立宗771年御報恩勤行会 浅井先生指導