そして、18歳の時に日本に渡来している一切の経典、論釈(論とはインドの大師が書いたものであり、釈というのは中国の大師が書いたものですね)、これを全て見解くべく、また十宗・八宗とも言われる当時の諸宗の邪正をことごとく見究めるべく比叡山・園城寺・高野山・東寺などの諸寺を巡られたのであります。
かくて、12歳より32歳までの血の滲むような御研鑽実に20年。ついに大聖人様は釈尊一代聖教の奥底を究め尽くされ、諸宗の誤りをも全て見通されたのであります。
それまで疑問とされていた臨終の事もすでに明らかである。
ゆえに『妙法尼御前御返事』にはこう仰せですね。
「日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが念願すらく、人の命は無常なり。
乃至、されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の諸釈あらあら勘へ集めて之を明鏡として一切の諸人死する時並びに臨終の後とに引き向けて見候へば少しもくもりなし」
「臨終の善悪という事は仏法の原因によるという事が少しも曇りなく分かった」と仰せです。
また、承久の乱もその因果は明瞭である。
『神国王御書』にはこう仰せです。
「日蓮此の事を疑いしゆえに、幼少の頃より随分に顕密二経並びに諸宗の一切の経を或は人に習い、或は我と開顕し勘へ見て候へば、ゆえに候いけるぞ。
我が面を見る事は明鏡に依るべし、国家の盛衰を図る事は仏鏡には過ぐべからず」
「自分の顔を見るには明らかなる鏡を見ればよろしい。
国土の盛衰、国家の興亡盛衰を見るには仏法の鏡に照らさなければならないのである」とこう仰せであります。
まさに、臨終の善悪も、国家の興亡盛衰も、全ては仏法の邪正によると見究め給うたのであります。
令和5年 4月28日 立宗771年御報恩勤行会 浅井先生指導