釈迦仏法ではこうはいかんでしょう。釈迦仏法に一生成仏はないですよ。
気の遠くなるような歴劫修行をしなければいけない。
ですから『開目抄』にあるでしょう。
「身子が六十劫の菩薩の行を退せじ。乞眼の婆羅門の責めを堪へざるゆへ。久遠・大通の者の三・五の塵を経る。悪知識に値うゆへなり」
と仰せになっておられる。これが歴劫修行の事を仰せになったんですが「身子」というのは舎利弗の名前であります。
舎利弗が過去世においてやはりこれも釈迦仏の仏法の歴劫修行をやってきたんですね。六十劫の菩薩の行のうちの布施行をやってきたんです。
布施行というのは、自分の何かを取り込もうというこの欲望に打ち勝って、人が必要とするものを分け与えるというこういう一つの修行が布施行であります。
「末法にはこんな事をやってはいけない」という事を『四信五品抄』に仰せになっておられますが、舎利弗は釈迦仏法中においてこの布施行を六十劫の間やっておった。
長いでしょう。一生・二生なんてもんじゃないですよ。
生まれては死に、死んでは生まれ変わりを何度も繰り返してずーっと連続して六十劫の菩薩の行をやってきた。
そして、間もなく仏になるであろうという事で成仏が近づいた。これを見たのが第六天の魔王なんです。
「あれを退転させよう」という事で、ある時婆羅門の姿に第六天の魔王が身を変じて、そして、舎利弗を誑かしたんです。
その婆羅門が舎利弗に対して「お前は布施行をやっているというわけであるけれども、私はそのきれいな目がほしい(舎利弗は一番目がきれいだったというんですね)」と言ったらば舎利弗は「自分は布施行をやっている。今婆羅門が目を乞うておる(これを乞眼というんです)」という事でその婆羅門の要請を容れて、自分の眼をくり抜いてやったんですって。
それで感謝してくれれば舎利弗はさらに喜んだんでしょうけれども、何とその婆羅門が「何だ、この眼は臭いじゃないか」といって大地に叩きつけて、足でもってにじったっていうんです。
それを見て舎利弗が「今まで六十劫本当にこつこつと我慢強く菩薩の行を続けてきたけれども、もうこんな連中を相手に仏法を行ずる事はない。もう嫌だ嫌だ」といって退転しちゃったんですよ。それで悪道に堕した。
「久遠・大通の者の三・五の塵を経る」というのは、久遠においてその本果の釈尊の化導を受けた者がその後に退転をして、五百塵点という長い間経歴をした。
また、大通智勝仏に遭った者は、三千塵点劫の昔にやはり退転をして、三千塵点の長き歴劫修行をずーっと繰り返して苦海に沈んで、今から三千年前に釈尊に遭って、初めて得脱をした。
でこのように、舎利弗といい、久遠・大通の者、それから五百塵点・三千塵点の長い間の歴劫修行の苦しみを経たという事を『開目抄』にお引きになっておられますけれども、今私達は、何の心労もなく行劫もないんです。何らそれほどの偉い事をやった事もない。そして、何の心労もない。
そのような舎利弗のような六十劫の菩薩の行もやった事がない。