しゃ仏法ぶっぽうではこうはいかんでしょう。しゃ仏法ぶっぽういっしょうじょうぶつはないですよ。
 気の遠くなるようなりゃっこうしゅぎょうをしなければいけない。
 ですから『開目かいもくしょう』にあるでしょう。

 「しんろくじゅっこうさつぎょう退たいせじ。乞眼こつげんもんめをへざるゆへ。おん大通だいつうものさんじんる。あくしきうゆへなり」

おおせになっておられる。これがりゃっこうしゅぎょうことおおせになったんですが「しん」というのはしゃほつの名前であります。
 しゃほつにおいてやはりこれもしゃぶつ仏法ぶっぽうりゃっこうしゅぎょうをやってきたんですね。ろくじゅっこうさつの行のうちの布施ふせぎょうをやってきたんです。
 布施ふせぎょうというのは、自分の何かを取り込もうというこの欲望よくぼうに打ち勝って、人が必要ひつようとするものを分けあたえるというこういう一つのしゅぎょう布施ふせぎょうであります。
 「末法まっぽうにはこんなことをやってはいけない」ということを『しんほんしょう』におおせになっておられますが、しゃほつしゃ仏法ぶっぽうちゅうにおいてこの布施ふせぎょうろくじゅっこうの間やっておった。
 長いでしょう。いっしょうしょうなんてもんじゃないですよ。
 生まれては死に、死んでは生まれ変わりを何度もかえしてずーっと連続れんぞくしてろくじゅっこうさつぎょうをやってきた。
 そして、間もなく仏になるであろうということじょうぶつが近づいた。これを見たのが第六天だいろくてんおうなんです。
 「あれを退転たいてんさせよう」ということで、ある時もんの姿に第六天だいろくてんおうが身を変じて、そして、しゃほつたぶらかしたんです。
 そのもんしゃほつに対して「お前は布施ふせぎょうをやっているというわけであるけれども、私はそのきれいな目がほしい(しゃほつは一番目がきれいだったというんですね)」とったらばしゃほつは「自分は布施ふせぎょうをやっている。今もんが目をうておる(これを乞眼こつげんというんです)」ということでそのもん要請ようせいれて、自分のをくりいてやったんですって。
 それで感謝かんしゃしてくれればしゃほつはさらによろこんだんでしょうけれども、何とそのもんが「何だ、この眼は臭いじゃないか」といってだいただきつけて、あしでもってにじったっていうんです。
 それを見てしゃほつが「今までろくじゅっこう本当ほんとうにこつこつとまんづよさつの行を続けてきたけれども、もうこんなれんちゅうを相手に仏法ぶっぽうを行ずることはない。もう嫌だ嫌だ」といって退転たいてんしちゃったんですよ。それで悪道あくどうした。
 「おん大通だいつうものさんじんる」というのは、おんにおいてそのほんしゃくそんどうを受けた者がその後に退転たいてんをして、ひゃく塵点じんでんという長い間経歴きょうりゃくをした。
 また、大通だいつうしょうぶつったものは、三千さんぜん塵点じんでんごうの昔にやはり退転たいてんをして、三千さんぜん塵点じんでんの長きりゃっこうしゅぎょうをずーっと繰り返してかいしずんで、今から三千年前にしゃくそんって、初めて得脱とくだつをした。
 でこのように、しゃほつといい、おん大通だいつうの者、それからひゃく塵点じんでん三千さんぜん塵点じんでんの長い間のりゃっこうしゅぎょうの苦しみをたということを『開目かいもくしょう』にお引きになっておられますけれども、今私達は、何の心労しんろうもなくぎょうこうもないんです。何らそれほどのえらことをやったこともない。そして、何の心労しんろうもない。
 そのようなしゃほつのようなろくじゅっこうさつぎょうもやったことがない。