このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。
リンクを 貼 らせて頂いております。紫色のブログ・タイトルをクリック(英語:click)(もしくは タップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)
さて、昨日 すなわち 8月1日(月)の「西・1(バルセロナ)」のブログの最後に、
「(前略)機会がありまして、 宜敷ければ、この続きを記させて頂きます。(後略)」と お伝え申し上げまして、誠に有り難いことに、「いいね」を頂きましたので、今回、その続きを記させて頂きます。
ときに、去る 8年前の10月28日(火)の「スイス(海外のこと)」のブログの下段に、
「(前略)最後に、パスポートについてで御座いますが、海外旅行で、生命の次に大切なものは、パスポート、お金、そして、復路の航空券と比較されることが御座います。海外旅行では 多額の現金を持って行きますことは まず無く、当時 主流でした トラベラーズ・チェック(T/C)(一方[片方]のみにサインをして、番号を控えておけば、仮に紛失しても、再発行してくれます。)、カード、そして、電子マネー等で支払うと思います。お金でしたら、たとえ 紛失しても、日本から現地に送金してもらうなどして、帰国する位の金額は救済されるか、と存じます。因みに、日本大使館で 直接 お金を借りることは出来ないとされています。
ところが、パスポートの場合は、仮に、何か国も旅行すると致しましたら、紛失した国から他国には入国出来ず、その国から日本に帰国することになるとされています。他国からの帰りの航空券を持っていましても、その他国に入国することが出来ず、その復路の航空券を使用することが叶いません。例えば、仏のシャルル・ドゴール空港や 伊のレオナルド・ダ・ヴィンチ(フィウミチーノ)空港からの復路の航空券を持っていたとして、仮に、西で パスポートを紛失致しましたとすると、仏や 伊には入国出来ず、西から直接帰国することになると聞かされています。当時、泊まった宿の主人である、西の首都である Madrid在住の日本人によりますと、西の Madridでパスポートを紛失される日本人が多いが、大使館・領事館での再発行に3週間掛かるとのことで御座いました。仮に、当時の 西ですと、万が一の場合には、3週間帰国することが適わなかったということで御座います。
日本にいると、平和ボケすると言う男性大学4回生が見えますが、日本人のパスポート程、世界各国に入国出来るパスポートは少ない(それだけ日本は努力をして各国に援助をして、信用を回復して来たということで御座いましょう)とされていますから、稀少価値があるので御座います。当時、日本人のパスポートは、日本円で換算して、数十万円で取引されていると、海外で聞いたことが御座います。そういう人達にとって、日本人のパスポートは咽喉頭から手が出る程 欲しいものなので御座います。このことを知る、もしくは、わかって行動する日本人は少ないと伺いました。海外では、極力 パスポートを他人に見られない方がいいです。パスポートのコピーを見せるだけで済む用件で御座いましたら、パスポート本体は 人前で 決して見せない方がいいです。海外旅行の準備には、最初必ず日本でパスポートのコピーを致しておりました。貴重なパスポートは、布製の首から下げるタイプの貴重品袋(手作りでも出来ます)や腹巻式の貴重品袋に入れておりました。唯々感謝。(^-^)(後略)」と記させて頂きました。
ところで、昨日 すなわち 8月1日(月)の「西・1」のブログの下段に、
「(前略)勿論 ユーレイル・パスでも 寝台を利用することは出来ますが、その為には 駅の窓口が 開いている時間帯に 行って 予約をする必要がありました。 因 みに、翌年の旅行のときには Barcelona駅の窓口が 開いている時間帯に 行って 予約をしました。ところが、この作業が 一苦労でした。すなわち、現在のように 駅の窓口に端末が引かれていて 予約するという訳では ないのであります。つまり、駅員が 電話で連絡して 予約状況を確認して 行われるのであります。しかも、長い列を待たなければなりませんでした。序で乍ら、列車の切符を購入した後は ホッとしました。
話しを戻しますが、Barcelonaに 一泊するつもりでありましたが、急いで 午後11時5分の Sants駅発の列車に乗り込みました。 因 みに、1分前でありました。なお、客車の中 荷物を持って 移動するのは、一苦労でした。なお、2等車両に 黒髪のユダヤ人の女性が 居ました。そして、漸く 1等車両に 辿り着きました。(後略)」と記させて頂きました。
なお、Barcelonaから Madrid(西の首都)へは 夜行列車を使いました。ところが、後になって 知りましたことには、この区間の夜行列車は 強盗が多発するということであります。それで、上記のように、翌年の旅行のときには この区間は 夜行列車ではなくて、昼間の特急である タルゴ(Talgo 西語:Tren Articulado Ligero Goicoechea-Oriolの略称)にしました。
そして、Madridに到着しました。但し、到着したのが、予定よりも 1時間以上 遅れました。すなわち、午前8時55分に 到着する筈が 午前10時になっていました。つまり、西の時間の流れが ここにも 顕著に現われました。荷物預かりに行きますが、Barcelonaと同じ ロッカーでした。すなわち、ロッカーが 異例なことに 小さくて 荷物が入らないのであります。それで、宿を取ることに決めました。 なお、日本人の経営する ホステルで たいへん助かりました。因 みに、宿泊のランクは ホテル→ホステル→ペンションとなるとのことでした。出入口を しっかり設けているのが ホテルであり、建物の一部分を借りているのが ホステルとのことでした。序で乍ら、上記の「泊まった宿の主人である、西の首都である Madrid在住の日本人」というのは、そのホステルの女主人のことであります。しかも、この女主人によりますと、このホステルにくる 日本人の2/3が パスポートを紛失しているとのことでした。なお、この場に 「長谷川」という 昼間から遊んでいるような 日本人男性も同席していました。そして、この日本人男性が 懐かしい チキン ラーメンを持ってきました。それで、そのチキン ラーメンを調理していました。そして、そのホステルの女主人たちと 食べていました。
なお、西では 学校で 英語を 週 1時間しか教えていない為に、ほとんどの生徒は 英語は出来ないとのことでした。
(上の画像の右上に 昭和61年[1986年]8月31日[日]と 日付が記されています)
(上の画像の左下に 昭和61年[1986年]8月31日[日]と 日付が記されています)
次 に、西 と 仏には に ラテン系民族が生活していますが、その国のファッションの評価は かなり違います。すなわち、この違いは 緯度差 つまり 気温の高さによるのかもしれません。 因 みに、家政婦に このことを話しましたら、誠に有り難いことに、同意してくれました。要するに、西では 地下鉄に乗車したりしますと 一目瞭然なのですが、衣類の色が原色なのであります。すなわち、真っ赤、真っ黄色、真緑 そして 真っ青なのであります。一方、仏のファッションは、彩度を落としていますね。そして、御承知のように、ファッションの都と云われる Parisが、仏の首都であります。
さて、上記の日本人の経営する ホステルを 午後1時に出発して 蚤の市を見物しました。 因 みに、そのホステルで 手荷物は 持たないように 言われた為に、全て 置いていきました。なお、たいへんな混雑でありました為に、手荷物を置いていったことは たいへん助かりました。序で乍ら、日本人も、二人 店を出していました。 因 みに、途中 写真フィルムを 700peseta(当時の西の通貨・当時のレートで 日本円で 約¥700円・いい値段です)で売っていたので、5本 買って 3,500pesetaの処を 3,300pesetaに負けてもらいました。
フランコ将軍の像の近くで
なお、去る 8年前の11月26日(水)の「蕗(昨日のおかず)」のブログの中段に、
「(前略)因みに、御承知のように、リゾット(伊語:Risotto)のような料理法で調理した米料理を、土 や 仏では、ピラフ(土語: pilav・仏語: pilaf)と言いますね。また、米を使った料理には、ドリア(Doria)、チャーハン(中華料理)、ジャンバラヤ(jambalaya)、パエリャ または パエージャ(バレンシア語:paella)、そして、炊き込み御飯(日本料理)等がありますね。
去る11月02日(日)の『時差ぼけについて』のブログ で、ニュー・オーリンズ(英語: New Orleans)(ルイジアナ州)に行ったことを言及させて頂きました。歴史的には、当時、米国は、仏に特使を派遣し、ルイジアナ地方(現在のルイジアナ州よりも 更に広大な土地です)の買収交渉を行いました。仏は英国と絶え間ない戦闘状態にあり、財政的にも行き詰っていたので、この際、米国にルイジアナ地方を売却し、戦費を得、更に米国との友好関係を獲得する方が得策であると考えました。かくして1803年、米国は、破格の1500万米ドル($)で、あの広大なルイジアナ地方を入手することが出来ました。友人達に よくこの話しを致しました。ジャンバラヤ(jambalaya)は、そのルイジアナの代表的な料理とされていて、ニュー・オーリンズで目に致しました。
また、パエリャ または パエージャ(バレンシア語:paella)に関しまして、西のマドリード首都圏では、『ll』は、『ジャ行』に聞こえました。去る11月19日(水)のブログ に書かせて頂きました『バチカン(ローマ)』に行った際に、西も立ち寄ったときのことで御座います。地方によって、発音が違うようです。帰国して調べましたら、地方によって、『ll』も『y』も『ジャ』行で発音されるとのことでした。同様に、マヨルカ島(Mallorca)は、マジョルカ島に聞こえます。因みに、マジョルカ島と関わりの深い文化人(作曲家)といえば、フレデリック・フランソワ・ショパン(ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin)ですね。
学部生のとき、独学で少し 西語を勉強した際、発音記号が無いことに驚きました。西語はスペル(英語;spell)(単語の綴りのこと)を原則的にそのまま読めばいい、すなわち、ローマ字読みすればいいのですが、『ジェイスモの発音』があります。
ときに、ジャンバラヤはパエージャに起源があるともいわれています。唯々感謝。(^-^)(後略)」と記させて頂きました。
話を戻しますが、その後は taberna( 西語)(日本語:食堂、英語:restaurant)にて 上記のパエリャ または パエージャを食べました。 因 みに、見掛けが 食べにくいが、まあまあの味でした。なお、当時、サングリア 2杯で 400pesetaは 高いと思いました。また、オムレツも 400pesetaは 高いと思いました。序で乍ら、去る 8年前の10月24日(金) の「健やかに生活をして頂くために」のブログで お伝え申し上げましたように、医者(研修医)になってから、ポケベル(今は ほとんど用いられていませんね)を持つようになり、夜中でも呼び出されましたので、お酒を止めました。
上記の tabernaの前で
それから、この後 闘牛場に行きました。 因 みに、午後5時に と思っていまして、午後5時10分に 到着しました。なお、下の画像は 闘牛場の前であります。序で乍ら、闘牛場の入場券を入手して 両手に 持っています。
上記の 闘牛場の前で
そして、入場しました。
闘牛場の内部
なお、1,250peseta(上記のように、当時の西の通貨)で 良い席を買いました。但し、下の画像のように、席は石です。それで、周囲の人々を見ますと、座蒲団を借りていました。
闘牛場の席は 石(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]9月1日[月]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月31日[日]の夕方であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
上記のように、闘牛場に 入場して 待っていました。ところが、観客を入場させてから 中止とは 日本では 考えられませんが、中止とのことでした。 因 みに、理由は、午前中に 雨が降ったから とのことでした。すなわち、事前に わかるではないかと思われました。なお、カメラを構えて 用意を整えて 待っていたのに、当時は 馬鹿にされた と思われました。序で乍ら、下の画像のように、座蒲団が 闘牛場に 飛び交いました。 因 みに、当方も、投げました。なお、仕方なく、長い列に並んで 払い戻しを行ないました。但し、日本人と待ち合わせをして 付き合いで 入場したのですが、闘牛は 牛を殺生することなので、見ることが出来なくて よかったと思われました。
座蒲団が 飛び交った 闘牛場(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]9月1日[月]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月31日[日]の夕方であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
ところで、宿に戻りました。それから、上記の「長谷川」という 日本人の経営する ホステルに滞在している 日本人男性の案内で、左胸に シールを貼 っているので ツアーに 参加していると思われる 国学院大学(確か、西語学科)の 女子 二人 と 共に 連れられて、tabernaに 行きました。 因 みに、立ち食いが たいへん 面白かったです。すなわち、地中海エリアで獲れると思われる 海老、烏賊、片口鰯 そして ムール貝を素材に用いた料理が出ていました。つまり、烏賊のリング揚げは 日本でも見られて、今は亡き 母親も 作っていました。また、缶詰でも ありますが、片口鰯の オイル漬けであります。ならびに、ムール貝は 日本では カラス貝のことですが、西でも 見られました。なお、日本では カラス貝は あまり 食用とされていなかったとのことなのですが、西で 食べられているので、日本でも 食べられるようになったと聞かされました。要するに、食べ方の逆輸入のようですね。
立ち食いの店(右の女子が 姉御肌であり、左の女子が 妹役のようでありました。 因 みに、上記のように、左胸に ツアー参加と思われる シールが 貼 られています)(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]9月1日[月]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月31日[日]の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
ならびに、途中で 目の前で ひったくりの ハプニングがありました。すなわち、ツアーで参加していると思われる 日本人の お金持ちそうな マダムが、ひったくられていました。 因 みに、西では 強引に ひったくる すなわち 強盗であります。一方、伊では、技を使うのですね。すなわち、ナイフ(英語:knife)を用いて 鞄を切って 盗みます。なお、このことを 家政婦にも伝えました。
および、途中 入った bar(西語)が、なかなか 面白かったです。すなわち、スイスの女性 と プエルトリコの女性が話していて 陽気でありました。歌も なかなか 乗り易い歌でありました。
bar(西語)(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]9月1日[月]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月31日[日]の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
また、次の店では、鋸のような楽器を使った 演奏が たいへん素晴らしかったです。 因 みに、近年では、日本でも 見掛けるようになった 演奏であります。
右が 上記の「長谷川」という 日本人男性であります。 因 みに、真ん中は 上記の 姉御肌で 国学院大学の女子であります(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]9月1日[月]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月31日[日]の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
左は 上記の 妹役の国学院大学の女子(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]9月1日[月]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月31日[日]の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
鋸のような楽器を使った 演奏(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]9月1日[月]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月31日[日]の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
なお、上記の演奏が終了したのが、午前3時40分でありました。 因 みに、上記の 女子たちを タクシーで送り、「長谷川」という 日本人男性と 共に 宿(上記の、日本人の経営する ホステル)に帰って 休みました。
次に、機会がありまして、 宜敷ければ、この続きを記させて頂きます。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)