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さて、去る 一昨年の8月7日(火)の「ブルー・ベリーの実(父親の食事)」のブログの上段に、
「(前略)去る6月26日(日)の『父親の米寿祝い』のブログの下段やや上に、
『(前略)去る 一昨年の10月11日(土)の【海外のこと】のブログ の中段やや上に、学部生の頃(昭和62年の夏・菜食を始める前のことです)、エコノミー(英語:economy)(経済的)に、パキスタン航空を用いて、英国に 行ったとの 旨を記させて頂きました。その際、英国のニュー・カッスル (英語:Newcastle)から ノルウェー王国(ノルウェー語: Kongeriket Norge/Noreg)のベルゲン(ノルウェー語: Bergen) 迄、船を用いました。このときは、上記以上の所要時間でした。前述の 去る6月14日(火)の【ボン( 独)(ベートヴェンの生家)】のブログの下段に、このベルゲンのユース・ホステルのことを言及致しました。機会がありまして、 宜敷ければ、この旅のことにつきまして 記させて頂きます。(後略)』と記させて頂きました。このノルウェー王国のベルゲンを散策していましたら、二人の女性が、野生で 生っている 何かの ベリーのような小さな実を食べていました。北欧ならではの ベリーといえば、リンゴン・ベリー や クラウド・ベリーなどですので、これらのベリーを食べていたものと思われます。(後略)」と記させて頂きました。
野生で 生っている 何かの ベリーのような小さな実
ときに、まず 上記のように Bergen 迄の旅の過程を記させて頂きます。すなわち、英国の湖水地方(日本でしたら、富士五湖のような所ですね)である Amblesideのユース・ホステルに 泊まりました。そして、昭和62年8月1日(土)の午前6時に起きました。よく寝ました。因 みに、午前4時半に目覚めたときには まだ 外は 暗かったです。それから、朝風呂に入りました。気持ちよかったです。なお、この日は Bergenへの移動日です。序で乍ら、日課ですが、前日 洗った 洗濯物が乾いていました。誠に有り難いことに、朝食も 美味 しかったです。
英国の湖水地方(白鳥が よく 慣れています。因 みに、餌を与えています)
英国の湖水地方
英国の代表的なロマン派詩人であり 湖水地方を こよなく愛した ウィリアム・ワーズワース(英語:William Wordsworth)が、思い出されました。
Amblesideにて
なお、この Amblesideに因 ませて頂きます。すなわち、去る 4年前の9月27日(火)の「母親の入院・続報4」のブログの上段に、
「(前略)去る 一昨年の12月2日(火)の『腕時計』のブログの上段やや下に、
『(前略)去る10月11日(土)の【海外のこと】のブログ の中段やや上に、学部生の頃(昭和62年の夏・菜食を始める前のことです)、エコノミー(英語:economy)(経済的)に、パキスタン航空を用いて、英国に 行った との旨のことを記させて頂きました。その際、イングランド(英語:England)の北西部に位置する湖水地方(英語:Lake District)の街である アンブルサイド(英語:Ambleside)に行きました。そこで、購入した安価な 櫛を、約28年間、洗い 乍ら、今日でも使っています。素材は軟質の合成樹脂なので、櫛の歯が欠けないようなのです。(後略)』と記させて頂きました。母親によりますと、ヘアーブラシ(英語:hairbrush) か 櫛が欲しいとのことでありましたので、取り 敢えず 上記の櫛はどうかと 訊きましたら、誠に有り難いことに これでいい とのことでありましたので、置いて来ました。(後略)」と記させて頂きました。また、去る 一昨年の3月6日(火)の「母親の転帰」のブログに記させて頂きましたように、母親が 亡くなりました。それで、また その Amblesideで 入手した 櫛を、当方が 使用しています。序で乍ら、約33年になりますね。
上記のように Amblesideで 入手して、約33年間 使っている 櫛
ところで、船便の為の準備も 万端でありました。因 みに、Newcastle upon Tyne(しばしば Newcastleと略されます)から Bergen迄の航路 乗船券は、Edinburghの旅行代理店である Thomas Cookで £56.25+1.00(英ポンド)で購入しました。この後、以下に記させて頂きますことが起こるとは 夢にも思いませんでした。
Windermereにて
Windermere駅にて
そして、午前8時38分のバスで Windermereに、それから、午前9時3分の列車で Carlisleに 午後10時50分に着きました。因 みに、途中 Oultonで 乗り換えました。そうして、Carlisleの (英語)bus stationに行きました。
Carlisle駅から bus stationへ向かう途中
途中の公衆電話で、自宅に連絡しました。£1(英ポンド)で 約1分弱の通話をすることが出来ました。当時 日本から 国際電話をしますと 3分間で 数千円も掛かりましたので、英国から 日本に電話する方が安いと思われました。なお、航空券でも、日本で購入するよりも、海外で買った方が お得でした。序で乍ら、去る 昨年の8月12日(月)の「高天原山の尾根(鰻の蒲焼・388[カレーうどん・父親の食事])」のブログの上段に、
「(前略)ときに、このプラザ合意(昭和60年[1985年]9月22日)の結果 日本においては 急速な円高によって 円高不況が起きると懸念されましたが、日本銀行は 公定歩合を引き下げずに 5%のまま 据え置きました。因みに、1ドル235円前後で推移していた為替レートは、このプラザ合意の翌日から急落します。すなわち、僅か 一年で 1ドル150円前後になりました。(後略)」と記させて頂きました。すなわち、1ドル150円前後になった頃ですが、日本で 購入する 航空料金は 未だに 1ドル235円前後で換算していました。だから、日本で購入する航空券は 高かったのです。
それから、そのCarlisleのbus stationから 午前11時50分のバス(National Express)に乗る予定でした。ところが、雨の降る中 このNational Expressが 遅 れて 約1時間後の午後0時45分頃 来ましたが、何と “full" すなわち 満席とのことであり 車掌から 次に乗れと言われました。因みに、日本でしたら 机を叩いてでも 抗議するところでありましょうね。午後0時45分のバスが来たときに 乗れば よかったのかもしれないと思われました。しかし乍ら、到着時間の分からないときは 避けるべきであると思われました。よく 分からなくて Newcastle upon Tyne行きの赤いバスを見逃しました。午後3時18分の到着予定なので 乗っても よかったのですが、£2.50(英ポンド)の普通便のバスなので、約2時間半 掛かるとのことでありました。その間 周囲の人々は 親切でした。おばさんは 温かいものを勧めてくれるし、中国語の出来る女性によりますと、“justice" すなわち 「私の言うことは正しい。待っていればいい。」とのことでした。しかし乍ら、代わりのバスが来るとは 思えませんでした。
そうして、午後1時45分発のバスを 見ると、午後3時18分 到着予定とのことでした。因みに、バスは、日本では 考えにくいですが 上記のように 遅 れることを考えると 危険であると思われました。それで、 bus stationに来た道を戻って Carlisle駅に行き 午後2時25分発の列車で行くことにしました。
列車からの景色
なお、 bus stationで 待っているときも、列車を待っている 1時間も、列車に乗って 途中 10分以上 遅 れ、Newcastle upon Tyneに 午後3時58分到着予定が 17分 遅 れて 午後4時15分になったときにも、生きた心地がしませんでした。序で乍ら、Newcastle upon Tyne駅前に タクシーが待っていてくれて、当たり前のことですが 有り難いことでした。背に腹は代えられず 一人 で タクシーに乗ることになりました。因みに、乗船するべき 港迄 は 10分 掛かるとのことでしたが、15分 掛かりました。タクシー代 £6.70(英ポンド)の処、£7.90 支払いました。20%のチップを手渡すことは、そのとき 当然であると思われました。そして、午後4時32分頃 到着しました。午後4時半発の予定でありましたが、まだ 船(フェリー)は 出港前であり、誠に有り難いことに、何とか 間に合いました。思わず、“Is there any time”と言ってしまいましたが、“Will you make it in time?”(間に合いますか)と言い直しました。こう訊 いたときに 悲壮感がありました。なお、仮に 乗船できないと 購入した 航路 乗船券を買い直さなければなりませんし、次の船の出港は 2日後でした。序で乍ら、check-inのときも、「間に合いますか。」と訊 きましたら、周囲が笑っていました。このときは、少し 安心していました。ああ 有り難い。何とか 乗ることが出来て と感謝しました。そして、結局、午後4時45分に 出港しました。当方が、最後に check-inしたようでした。因みに、数時間の余裕を考慮して 出発しましたのに、何と 驚くべきことに 遅 れるところでした。
そして、乗船しますと 相当 揺れました。序で乍ら、北海は 外海なので、波が荒いのですね。なお、立っていると 船酔いで 気持ちが悪くなりました。それで、ラウンジで 横になっているしか 為す術がありませんでした。そこで、まだ 日没前でしたが、暫く 寝てしまいました。
それから、目覚めて そのラウンジに居ますと、日本人の親子5人に出くわしました。高校2年生の男の子が居て 理系で進むとのことでした。日本の本の値段は 日本国内での3倍、原書は 2/3とのことでした。それで、日本から 日本の本を贈ることを約束しました。そこで、後日、英国に送付しました。
また、小学校6年生の女の子 そして 中学校4年生の男の子が居ました。序で乍ら、中学校4年生の男の子は、この後、2年間の高校 すなわち (羅 語)collegiumがあり 高校2年生の夏に終了するとのことでした。そして、(英語)universityがあるとのことでした。結局、日本に帰ると、一浪する とのことでした。この兄弟姉妹の父親は、Newcastle upon Tyneで 日産に勤めているとのことでした。日本人学校は なくて、現地の子と一緒とのことでした。2年間 居るとのことでした。
そうして、午後10時頃、寝ました。寒くて 目覚めますと、午前0時30分でした。毛布が置いてあったので 掛けて寝ますが、まだ 寒くて 午前4時30分頃 起きました。そこで、寝袋を使いました。かなり 船酔いしそうでありました。そして、翌朝 すなわち 午前9時頃、起きました。それから、ガイドブックを見ました。なお、バック・パックの鍵が なくなって 一時的に 実際には、この自分のバック・パックの左のサイド・バックに 予備の鍵がありましたので、落ち着きました。それで、中から取り出しました。 午後0時頃 外に出ると、陸地が見えてきました。因みに、Bergen は、北海よりも ずっと 内地にあることが 再認識されました。更 に、1時間以上 掛 かりました。
北海から 内海に入り 波が穏やかになりました
北海から 内海に入り 波が穏やかになりました
このとき 日本人の建築家の人に 指摘されたのですが、英国とは 1時間の時差があるとのことでした。すなわち、実際には、午後1時20分でありました。なお、この建築家の人によりますと、レンタカーは スイスでは 高価だったとのことでした。それで、このフェリーで 自動車を積載する料金が 1/2以下なので、自家用車で来たとのことでした。つまり、Bergen でも、スイスと同様に レンタカーが 高価であると思ったので、自前の車を利用したということでありますね。序で乍ら、英国では 車は 左側通行でありましたが、Bergen では、右側通行でありました。
上記のように 先方から 声を掛けてきた 建築家の人と共に
船を降りて 上記の兄弟姉妹と共に
Bergen の埠頭(船を降りたところ)
Bergen の港
Bergen の埠頭
Bergen には、午後2時頃 着きました。因みに、上記のように 1時間の時差がありますので、約22時間半の 船の長旅でした。なお、Bergen のフロイエン山(ノルウェー語:Fløyfjellet)が 見えました。
フロイエン山から 見下ろした Bergen の街
フロイエン山から 見下ろした Bergen の街
序で乍ら、ノルウェーの作曲家と云いますと、グリーグ(ノルウェー語: Edvard Hagerup Grieg )が挙げられますね。国民楽派の作曲家であります。「ペールギュント」の第一組曲 「朝」は、よく知られていますが、代表曲である「ピアノ協奏曲 イ短調」がありますね。グリーグは、この「ピアノ協奏曲 イ短調」につきまして、40年間に 300回以上の改訂を行ったとされています。なお、グリーグの作品には、抒情小品集 第5集 小人の行進(妖精トロルの行進)もあります。因みに、ノルウェーのお土産は 妖精(森の精)トロル人形とされています。
Bergen駅にて
Bergen の街から見た、西 すなわち 北海方面に 日没する様子
Bergen の公園から見た、西 すなわち 北海方面に 日没する様子
Bergen の街から見た、西 すなわち 北海方面に 日没する様子
Bergen の公園から見た、西 すなわち 北海方面に 日没する様子
機会がありまして、 宜敷ければ、この続きを記させて頂きます。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)