こんにちは。

 

今回も前回に引き続き愛の重要性について、説明します。

 

三、神を愛する者は神の掟を守る

主イエスは神への愛と隣人愛を唱えて、キリスト者はそれだけをすれば律法を守る必要は無いと考えている人は多いかと思います。旧約時代の主なる神は怒りの神と言って忌み嫌いながら、新約時代の主イエスを優しい側面だけを強調して愛の神と言って好きだと言う人は聖書の教えと矛盾しています。神は義の故に厳しいお方であられ、律法を遵守しない人は忌み嫌うのです。

 

マタイによる福音書七章二十一節~二十三節 新共同訳

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

主イエスが教えられているように、ただ主イエスの御名を口にして、口先だけで「主イエスを信じる」と言えば、誰でも救われる訳ではないのです。律法を遵守しない者について、主イエスは「知らない」と言って突き放されることが分かります。この聖句からも、主イエスが如何に厳しく、律法違犯を止めない罪人を見限るかがおわかりかと思います。

 

マタイによる福音書十九章十七節 新共同訳

イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。

 

このように、主イエスは永遠の命を得たいのであれば、まずは神の掟たる律法を遵守するのが前提だと教えて居られます。

 

マタイによる福音書二十二章三十四節~四十節 新共同訳

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

主イエスが教えられているように、律法全体は神への絶対愛と隣人愛に基づいており、ただ単に愛を語って、口先だけで神と隣人を愛していると言っているだけでは物足りないことが分かります。

 

例えば、「父母を敬う」、殺してはならない」、姦淫してはならない」、盗んではならない」、「偽証してはならない」、隣人の物を一切欲してはならない」、「寄留者を苦しめてはならない」、寡婦や孤児を苦しめてはならない」、同胞や貧しい人に対して金を貸す時、利子を付けてはならない」、憎む敵が困っている場合、見捨ててはならない」、賄賂を受け取ってはならない」、「白髪の老人の前では起立して尊び、神を畏れよ」、復讐してはならない。恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい」(出エジプト記二十章十二節~十六節・二十二章二十節~二十四節・二十三章四節~五節・八節、レビ記十九章三十二節・十八節参照)と言った律法の掟がありますが、全て神への絶対愛と隣人愛が備わっていれば、遵守することができることが分かります。

 

申命記三十章十一節~十四節 新共同訳

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

 

モーセ五書の最後の書物である申命記では、神の律法と掟と戒めは我々の身近にあり、難しすぎるものでは無いと断言しています。主なる神を愛していれば、無意識にも律法を遵守できるようになることを意味しているのです。

 

もっとも、天地創造以来ずっと神の律法は存在しており、存在しなかった時代が無い。わざわざ書いてへんが、アダムとエバの時代から安息日の掟はあった。第七日の天地創造の記念として安息日を聖なる休日として制定されて以来ずっと存在してるからや。また、創世記から分かるとおり、アブラハムも神の掟を守ってたし、割礼のみを行ったのではない。また、イスラエル十二部族の内の一部族の祖であり、エジプトの宰相になったヨセフは、姦淫を犯すことが神に対する罪であるとして避けた(創世記三十九章九節参照)ことからも彼らは何が罪かを明確に知ってた。何故か。最初から神の律法や秩序があったからや。つまり、モーセ以前から神の律法や秩序があることの証明や。神と神の律法を憎んで廃止して放縦で居たくてたまらん反キリストのパウロ教信者どもは、モーセの時代から律法が出来たと嘘を言うが、まったく無知も甚だしい。モーセ以前の時代から罪はあり、それは神の法や秩序に反することである。それは口頭で代々伝えられ、正しい人間の間では守られ、モーセの時に成文化しただけのことや。神と共に歩んで死を経験せんかったエノクや大洪水の中生き延びるように選ばれたノアも同じで、彼らは神の掟を守り、神の掟を守らへん多数派の人間は全員滅んだ。このように、神の律法、掟、戒めを守らへん者どもが滅ぼされてきたのが歴史的事実や。この永遠の律法が廃止されたと一世紀を生きたファリサイ派の偽使徒パウロとその仲間らが急に言い出し、それ以後、後世の自称キリスト者であるパウロ教信者どもが偉そうにモーセの律法は全部廃止されてるという大嘘を吹聴し続け、世の諸教会全員がその考えになって主流派にさえなったが、完全に間違いであり、忌まわしいことこの上ない。故に、聖書と主イエスの教えに反して律法の有効性の議論が起こること自体がおかしなことで、大勢の悪魔の子らが神と神が制定しはった律法を憎んでるから、しつこく反抗し、神の法と秩序に対して異議を唱え続けるんや。せやから、ファリサイ派のパウロがキリストの使徒と自称し、キリストの名を悪用してファリサイ派らしい悪魔的な偽教義が世界中で広まり、大勢の罪深い人間どもによって承認されようとも、そないなものを神は真理とは認めへんし、神の民も認めへん。なぜなら、律法遵守を救いの最低条件とするキリストの教義が変更になったという事実は無いし、神も真のキリスト者もその認識で居るため、神の民は当たり前のように神の律法を擁護して守るからや。この世の権力者や大衆がこれを認めなくても、この真実が存在せえへんことにはならへん。なんぼ拒否しようが、逃げて見なかったことにしても、聞かんかったことにしても、すべて現実逃避に過ぎず、無駄な抵抗やということを覚えとき。

引用元:現実逃避をやめよ | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

ミカエル氏も仰るように、天地創造の時代から神の律法は存在しており、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフら創世記に記録されている義人達は何が罪であるかを心得ており、罪を犯すことを避けていたことが分かります。もし、モーセの出エジプトの時代まで律法が無かったとすれば、創世記の登場人物は皆罪を犯し続ける悪人で無ければ説得力がないです。

 

出エジプト記三十二章一節~六節 新共同訳

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。

 

出エジプトの時代に律法は成文化されたものの、イスラエル民族は頑なな民族であり、モーセがシナイ山から中々下りて来ないことを不信に思い、アロンに掛け合って、金の子牛像を造って、エジプトから自分達を導き出した主なる神と勘違いして、偶像崇拝しました。成文化された側から神に対して罪を犯して堕落して、神の怒りを買って滅ぼされることになりました。当時のイスラエル民族は主なる神を信頼し切れておらず、神への絶対愛に欠けてか、心が揺らいでしまい、偶像崇拝に走ってしまったのではないかと思われます。

 

マタイによる福音書五章十七節~二十節 新共同訳

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

主イエスははっきりと律法を廃止しないと言っており、寧ろ旧約時代に成文化された律法を補完して完成させるために来臨したと言われております。即ち、主イエスと十二使徒の教えからなる真のキリスト教は律法遵守を前提としていることが分かります。

主イエスの十字架の贖いで律法は廃止されたと言う偽教義を吹聴しているのは、偽使徒パウロの書簡が由来のカトリック、プロテスタントなどのキリスト教ならぬパウロ教であり、彼らは現代のファリサイ派であり、悪魔の子らであるのです。

 

ヤコブの手紙二章八節~十三節 新共同訳

もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

 

主の弟ヤコブは律法全体を遵守しても、律法の中で一つでも破ってしまえば、それだけでも有罪判決を出されると語られています。簡単に言うのであれば、世間では満点を取らなくとも九十九点でもあれば、人々から称賛されます(人によっては満点しか認めない人もいるでしょうが)が、神が人間に課す律法遵守の試験は満点以外認められないのです。それほど、神は厳しいお方でも居られるのです。

 

ヤコブの手紙二章十四節~二十六節 新共同訳

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

主の弟ヤコブは手紙で信仰には行いが伴わなければ意味が無いとしきりに唱えて居られ、偽使徒パウロが吹聴した行いを不要とする信仰義認論に惑わされた人達に対する戒めが込められていると思われます。神への愛と隣人愛が備わっていれば、信仰による行いを体現できるでしょうし、神に義と認められると思います。

 

ヨハネの手紙一 二章一節~六節 新共同訳

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

 

ヨハネの手紙一 三章一節~十節 新共同訳

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

 

ヨハネの手紙一 五章一節~五節 新共同訳

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

 

使徒ヨハネも手紙で書かれているように、神を愛する者は神の掟、即ち律法を守る者です。罪とは律法を無視して違犯することであり、神を知っているとか言いながら、律法を遵守しない罪人には真理は無く、神に属していないと教えております。また、神の掟たる律法を遵守することは神を愛することに繋がり、難しいものでは無いとも教えて居られます。これこそ、上記の申命記の聖句からの引用にも思えます。自戒を込めますが、神への愛と隣人愛があれば、律法を遵守することはできますし、逆にそれらが欠けていれば律法を遵守できずに罪を犯し続けるものです。

 

四、兄弟愛の重要性

主イエスは神への絶対愛と隣人愛だけで無く、信仰の兄弟姉妹で互いに愛し合う兄弟愛の重要性を教えて居られます。

 

ヨハネによる福音書十三章三十四節~三十五節 新共同訳

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 

主イエスは御自分の弟子であるキリスト者たる者は神が善悪を問わず全ての人間を愛するように、信仰の兄弟姉妹同士で互いに愛し合うことを新しい掟として定められました。勿論、一人だけでの信仰は出来ますが、いつしか自分が絶対的に正しいと高慢になってしまい、独りよがりの信仰に陥ってしまう危険性が高いのです。ですから、同じ信仰の兄弟姉妹同士で切磋琢磨することを求められているのです。

 

ヨハネによる福音書十五章九節~十七節 新共同訳

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 

主イエスは友のために自らの命を捨てることこそが、最も大きな愛であり、それを行いで示した者は御自分の友とお認めになるのです。弟子であり僕に当たるキリスト者とは全く異なる扱いですね。我々も信仰による行いを体現し続けて、愛を体現していき、主イエスに友と認められるように努めるべきです。

 

ペトロの手紙二 一章三節~十一節 新共同訳

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

 

使徒ペトロは力を尽くして、信仰には徳、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には信心、信心には兄弟愛、兄弟愛には愛を加えることで、怠惰から脱却できて、主イエスのことを深く知ることができると教えています。即ち、信仰には最後には愛が必要だと言うことが分かり、信仰においては愛こそが全てだと分かります。逆に、愛に欠けている人は霊的な意味で目の見えない盲人であり、本当の意味で悔い改めることができないことが分かります。

 

ペトロの手紙二 一章二十二節~二十五節 新共同訳

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。

「人は皆、草のようで、

その華やかさはすべて、草の花のようだ。

草は枯れ、

花は散る。

しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 

使徒ペトロは主イエスが定められた新しい掟の兄弟愛について教えられて、聖書の真理を受け入れて清められて、永遠不滅である主の御言葉によって、新生することによって、ようやく純粋で偽りの無い兄弟愛を実践することが出来るとも教えられています。

 

ヨハネの手紙一 二章七節~十一節、十五節~十七節 新共同訳

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。(中略)世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

 

ヨハネの手紙一 四章七節~二十一節 新共同訳

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 

使徒ヨハネは手紙で兄弟を憎む者は闇の中におり、偽り者であると教えております。目に見える兄弟を愛していないのに、目に見えない神を愛することが出来ないのは自明の理です。ミカエル氏の教会では「律法の食物規定について | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」にある通りの食物規定問題で一人の教会員が脱退して、ミカエル氏は間違っていると工作活動を行い、多くの求道者を堕落させました。拙者は未所属でありながらも、元教会員とも交流してきましたが、彼らはミカエル氏の集いの場と教会に出戻りしようと努力されており、色々と親身になってくれていました。しかし、食物規定問題の発生による工作活動で道を逸れて、アメブロとツイッターの口座を削除して、姿を消してしまったのは非常に残念な限りです。正にアブサロムの反乱とイスカリオテのユダの裏切り事件そのものです。

 

ここで、信仰の兄弟である真氏の記事より引用します。

旧約聖書 サムエル記下 十五章三~六節 (拙訳)

すると、彼に言った。『見よ、あんたの訴えは立派で正しい。だが、あの王の所には、あんたに同意する者は居ない。』更に、アブサロムは言った。『誰か、我を地の裁き手に指名してくれたら良いのだが。そうであれば、論争が生じたすべての者と訴えが我が許に来て、それを正しいと証明してやれるのに。』そして、次のようになった。男が彼(アブサロム)にひれ伏すために近づいた時、彼(アブサロム)はその手を伸ばして彼を掴み、彼に口付けをした。アブサロムは、王の許へ裁判のために訪れるイスラエルのすべての者に対して、このように振る舞った。こうして、アブサロムはイスラエルの人々の心を盗み取った。

 

上記の聖句は、イスラエル二代目の王ダビデの息子アブサロムが父に反逆して、揉め事の裁定を求めてダビデの許にやって来たイスラエルの人々を誰彼構わず呼び止めて誘惑し、自分の方にその心を向けさせた時のものです。前回の記事で考察した、箴言七章一~五節・七~十三節・十八~二十七節の(偽使徒パウロとその教えから生まれたローマ・カトリック、プロテスタント等の偽キリスト教とそれに属する者等。つまり背教者)と、アブサロムの言動がよく似ちょることにお気付きになったかもしれません。どちらも甘言を語り、相手を掴んで口付けし、見境なく餌食にしよる所がそっくりです。実際、「掴む」の原語חָזַקと「口付け」の原語נָשַׁקが共通しちょります。の甘言は、「来なさい。さあ、愛に酔いしれましょう。愛と共に、夜が明けるまで楽しみましょう。」(箴言七章十八節 拙訳)と、偽りの愛をもって誘惑するものでしたが、アブサロムは「見よ、あんたの訴えは立派で正しい。」と、相手を否定せずに肯定して寄り添う形で誘惑しました。これも偽りの愛と言えます。「ダビデは、イスラエルのすべての上に君臨した。そして、ダビデは自分の民のすべてに裁きと正義を行った。」(サムエル記下 八章十五節 拙訳)、「彼(主)の裁きのすべては、我が前にあるからだ。そして、我は我が内から、彼の掟を棄てない。」(詩編十八章二十三節 拙訳)とあるとおり、神を畏れる人ダビデはイスラエルの王として、神の律法、掟、戒めに従って民の訴えを公正に裁きよりましたが、それに対してアブサロムは「だが、あの王の所には、あんたに同意する者は居ない。」、「誰か、我を地の裁き手に指名してくれたら良いのだが。そうであれば、論争が生じたすべての者と訴えが我が許に来て、それを正しいと証明してやれるのに。」と、そのダビデを否定する言葉を語りました。このアブサロムの発言は、「神の律法、掟、戒めに従う父ダビデは正しくない。我こそが正しく、地の裁き手に相応しい。あんたの訴えは律法に照らすと間違いかも知れないが。我ならあんたを正しいとすることができる」と言いよるも同然であり、これはダビデだけでなく、神に対しても歯向かっちょるも同然の反キリスト発言、高慢の極みと言えます。このアブサロムという男は、「イスラエル全体の中で、アブサロムのように大いに称賛された美しい男は居なかった。その足の裏から頭の頂まで、彼に欠点は無かった。」(サムエル記下 十四章二十五節 拙訳)と評される程の美丈夫でした。上記聖句内の「称賛」の原語הָלַלには、「輝く、自らを誇る、莫迦にする、狂った」という意味が他にあり、その類い稀な美しさと共に、高慢で他者を見下す悪い心もまたあったことが窺えます。アブサロムは、異母兄弟のアムノンを自身の妹タマルを力ずくで辱しめられたことの恨みから殺害し、母方の祖父タルマイが王として治める土地ゲシュルに逃げてそこで三年間過ごしましたが(サムエル記下 三章三節、十三章参照)、このゲシュル(גְּשׁוּר)には「高慢な見る者」の意味があるため、このことも彼の高慢さを暗に示しちょるように思います。父ダビデは、主なる神にイスラエルを治める王として選ばれた者であり(サムエル記上 十六章一~十三節参照)、民族を問わず武勇に優れた忠臣が数多く彼の許に集まり(サムエル記下 二十三章参照)、神と共にあって行く先々で勝利を収めた偉大な王でした。そんな父を息子として常に見ていながら、反逆して王に成り代わろうとしたアブサロムはやはり高慢ですし、先のサムエル記下 十五章三~四節の発言も含めて、神への畏れも無く、狂っちょったと言えます。もっとも、このアブサロムの反逆は、ダビデがヘト人ウリヤの妻バト・シェバと床を共にして姦通の罪を犯し、彼女を我が物にするためにウリヤを激戦地に送り込むよう指令を出して戦死させた間接殺人の罪に対する神からの報い(サムエル記下 十二章七~十二節参照)でもあります。それにしても、「誰か、我を地の裁き手に指名してくれたら良いのだが。そうであれば、論争が生じたすべての者と訴えが我が許に来て、それを正しいと証明してやれるのに。」とは、非常に尊大な言葉です。「地」とは、天の下の世界、地上のことなので、地上における一切の理非を明らかにし、それを決めることが自分にはできると豪語しよるようなものです。「正しいと証明する」の原語צָדַקには、「罪が無いとして赦す、弁護する、人を義とする、罪を清める」とあり、まるで天地の一切の権能を父なる神から与えられた、天の大祭司であられる主イエス(マタイ二十八章十八節、ヘブライ四章十四~五章十節参照)にでもなったかのようです。こうしたアブサロムの特徴と言動から、バビロンとサタンの王である堕天使ルシフェルが思い起こされます。ルシフェルもまた非常に美しく、知恵に満ちた光り輝く天使でしたが、その美しさと知恵故に高慢になり、自らが神になろうとして、他の不忠実な天使たちと共に神に反逆しました。そして、神に忠実な天使たちと戦って敗北した結果、天から地に堕とされて堕天使(悪魔)となりました(イザヤ書十四章十二~二十節、エゼキエル書二十八章一~十九節、黙示録十二章七~九節参照)。こうしたことを踏まえた上で、ダビデとアブサロムの両者を見てみると、

 

・ダビデの軍は、神の陣営のような大いなるものであった。(歴代誌上 十二章二十三節参照)

 

・ダビデは、その品性と知恵から神の御使い(天使)のようだと評され。また、主イエスの予型でもあった。(サムエル記上 二十九章九節、サムエル記下 十四章十七節、二十節、十九章二十八節参照。予型であった点について詳しく知りたい方は、ミカエル氏の記事「サウルとダビデの違いとダビデと主イエスの関係」をお読みください)

 

・アブサロムは、先述したとおり、ルシフェルと同じく美しさの極み且つ非常に高慢であり、イスラエル諸部族を取り込んで共にダビデに対して反逆したことで王国に分裂と混乱を招いた。

 

・エフライムの森で行われたダビデの家臣との戦いで、アブサロムとその手勢は大敗北を喫した(サムエル記下 十八章一~十八節参照)。そして、アブサロムが乗るラバが木の枝の下をくぐったがために頭が引っ掛かった時、単に「彼は、木に宙吊りになった」と書かれずに「彼は、地と各天の間に置かれた」(サムエル記下 十八章九節 拙訳)と、かなり変わった書き方をわざわざされちょる等、類似する点が多々あるため、アブサロムと父ダビデへの反逆は、ルシフェルと造り主(父)である神への反逆を暗示しちょるように思います。

 

サムエル記下 十五章五節に話を移します。「そして、次のようになった。男が、彼(アブサロム)にひれ伏すために近づいた時、彼(アブサロム)はその手を伸ばして彼を掴み、彼に口付けをした。」の、「ひれ伏す」の原語שָׁחָהには「敬意をもってひれ伏す、卑屈に腰を低くする、腰を低くして嘆願する、服従する、崇拝する」の意味が他にあるため、アブサロムに誘惑されたイスラエルの人々の心は、この時大いに揺らいでダビデから離れよったのだと思います。アブサロムの美しい見た目や甘言に惑わされて、「ダビデではなく、見目麗しくて立派なこのアブサロムこそ、イスラエルの王に相応しいのではないか」、「そうだ、我らを正しいと認めてくれるアブサロムこそ、我らを正しく導いてくれる王だ」となった者が多かったでしょうし、「王の息子でありながら、何故このようなことを…。これはいけない」と、戸惑ったり、否定的な思いを抱きつつも、アブサロムが伴っちょった戦車と馬と五十人の護衛兵(サムエル記下 十五章一節参照)を見て恐ろしくなり、不本意ながらもひれ伏そうとした者も居たのではないかと思います。そうした様々な誘惑に屈した者はアブサロムに掴まれて口付けをされましたが、「掴む」の原語חָזַקには「捕らえる、強奪する、征服する、打ち勝つ」の意味が他にあり、また、「口付け」の原語נָשַׁקには「支配する」の意味もあるため、イスラエルの人々がアブサロムの手の内に捕らえられて、その支配下に置かれたことが分かります。その後の十五章六節に「こうして、アブサロムはイスラエルの人々の心を盗み取った。」とあるとおり、このようにしてアブサロムは父ダビデに向けられちょったイスラエルの人々の心を奪った「盗人」になった訳ですが、この心を奪われたイスラエルの民にも大きな問題があります。これまで繰り返し書いたとおり、ダビデは神が定められたイスラエルの王であるため、その王ではなく、神と神の律法、掟、戒めを軽んじたアブサロムを支持して彼の反逆に加担したということは、同じく神を軽んじて逆らったも同然です。そもそも、ダビデがイスラエルの王になることは、イスラエルの全部族が神の御前でダビデと契約を結んで同意したことです(サムエル記下 五章一~五節参照)。それに、少年であった頃から常に陣頭に立ち、神と共にあって数多くの武功をあげ、ペリシテ人、エドム人、アラム人等の異邦人の手からイスラエルを解放したダビデには多大な恩義があります。それなのに、一度アブサロムに誘惑されると、多くの者がその契約も恩義も忘れてダビデを裏切ったというのは不誠実ですし、心の底ではダビデと神を愛していなかったことの表れだと思います。本当に愛しているのなら、アブサロムに誘惑されても裏切る筈がないからです。イスラエルの人々は、アブサロムが亡くなった後に再びダビデを王とすべく彼の許に集まりましたが、その場でベニヤミン人のシェバが反旗を翻すと、ユダの人々以外はまたもやダビデから離れてシェバの方につきました(サムエル記下 十九章十~十五節、四十一~四十四節、二十章一~二節参照)。これは、ダビデよりも以前の時代に、イスラエルを虐げるミディアン人の手から救い出した士師ギデオンの一族に対して、イスラエルの人々が誠意を示さなかったのと同じですし(士師記 八章三十三~三十五節、九章一~五十七節参照)、この恩知らずで変わり身の早い性質は、さらに前の出エジプトの時から現代の純日本人に至るまでずっと変わっちょらんと言えます…。一方のダビデは、自身が過去に犯した罪の報いとはいえ、実の息子とイスラエルの全部族に裏切られ、家臣と共に都エルサレムから荒れ野へと落ち延びる際には涙を流しよったので、当然強い悲しみや遣り切れない思いが心に満ちちょったでしょうし、ダビデとアブサロムにとってその助言のすべてが神の言葉かのように思われちょった程の顧問アヒトフェルまでもが、ダビデを裏切ってアブサロムに味方したと聞いて強い不安にも襲われた筈ですが、それでも自分のために神の箱を都から移動させるようなことはせず、道中シムイという男に呪いの言葉と共に石を投げつけられても、これは主が呪えと彼に命じられているのだからと忍耐し続け、神への信仰は少しも揺らぐことはありませんでした。そして、神もそんなダビデを見捨てられることなく、彼の家臣たち、イタイ、フシャイ、バルジライ等の本当の友と呼べる者たちの手を通して、ダビデをその窮地から救われました(サムエル記下 十五~十七章、十九章三十二~四十節参照)。このダビデの厚い信仰は素晴らしいですし、見習わないかんなと思います。逆に、ダビデを裏切ったイスラエルの人々の行為は反面教師にせないけません。彼らが裏切った原因は、先述したとおり、神とダビデへの愛が無く、感謝と畏れ敬う気持ちが乏しかったこと。そして、箴言七章のの誘惑に屈してその魂を払った若者と同じく、神の律法、掟、戒めを軽んじちょるがために知性、理解力、知恵、勇気、熟考等が欠けちょったことも原因にあると思います。神を愛するとは、神の掟を守ることであり(ヨハネ一 五章三節参照)、また、神の律法全体は神と隣人への慈愛に掛かっているので(マタイ二十二章三十四~四十節参照)、もしもイスラエルの人々が心から神を敬愛して神の律法、掟、戒めを喜んで守る者であったならば、アブサロムの美しさに惑わされて神とダビデからの恩義を忘れることはなかったでしょうし、「我があんたを正しいと証明してあげよう」と言われても「いえ、結構です。正しいのは人間ではなく神です。我は自分の思いのままになることよりも、神の律法に基づいた正しい裁きをこそ望みます。王のご子息ならば、どうかこのようなことはおやめください」と、アブサロムの甘言や彼の周りの護衛兵や戦車等の圧力にも屈さずに毅然と言ったでしょう。これは、現代を生きる我々にとって関係の無い大昔の出来事ではなく、同じ場面がこれから訪れます。それは、これまで何度も書いたとおり、悪魔と悪魔の最大の代理人であるローマ教皇に従うか、神に従うかを迫られる大艱難時代です。

引用元:従うべき神、歩むべき道はただ一つ 中編 | 主イエスこそ真の道である。 (ameblo.jp)

真氏が仰る通り、聖書を根拠に福音と預言を述べ伝えて居られるミカエル氏ではなく、自分は絶対的に正しいと高慢になり、律法主義に陥ったファリサイ派の女を支持して、反逆に加担したということは、神に背いたも同然です。そもそも、ミカエル氏のブログの読者の多くは、ミカエル氏のおかげで真の聖書福音を知ることが出来た筈です。これこそ、神の憐れみであり、信仰への招きとも言えます。にも関わらず、一度彼女に惑わされると、一部の者がその恩を仇で返す形でミカエル氏を裏切ることは不誠実ですし、心の底ではミカエル氏と神を愛していなかったことの表れにも思えます。本当に愛を全うしているのなら、彼女に誘惑されても裏切る筈がないからです。

拙者も正直なところ、食物規定問題が取り沙汰されたときはミカエル氏は間違っているのかなと動揺しました。以前から交流していた兄弟姉妹もファリサイ派の女が吹聴した嘘に惑わされている中で、拙者はミカエル氏は人間であるからには何かしら間違ったところはあるかもしれないと思いながらも、絶対的に間違っているはずが無いと認識していました。そのため、取捨選択すれば良いとの認識でミカエル氏のブログ記事を読み続けました。その後に信仰の姉妹のまる氏が「ラハブさんへ 「問い」への「回答」になっていない件 〜原典原語有無問題と食物規定廃止論争〜 | 主イエス・キリスト再臨 悔い改めの時 (ameblo.jp)」で、工作活動している女が説いている食物規定が廃止されていない根拠はどの原典にあるか問い詰めましたが、女はどの原典に記録されているのか質問にすら答えずに、論点をずらして終いには遮断して逃げる始末です。正にこちらにある不都合な質問に対しては答弁拒否して、質問者を無理矢理に退席させる小池百合子都知事と同じ品性に思えます。彼女はエジプトの最高学府のカイロ大学を首席で卒業した学歴詐称に限らず、こちらの反日大企業の電通との癒着で都民の税金数十億円の無駄遣いで作ったプロジェクションマッピング、こちらの築地市場を守ると言いながら結局は豊洲に移転して自営業者の期待を裏切り、七つのゼロ公約もきちんと果たさなかったのです。この八年間の小池都政は正に悪夢としか言いようがなかったと言えます。最近では都知事選が話題に上がり、野党第一党の立憲民主党を離党して都知事選に出馬した蓮舫が人気ですが、彼女は台湾国籍の父と日本国籍の母の間で生まれた混血児であり、日本の東京で育ったものの、台湾国籍が残ったままであり、二重国籍が問題視されているのです。日本の法律では二重国籍は禁止されており、本来ならば参政権は無いはずです。他にも元安芸高田市長の石丸伸二や元航空幕僚長の田母神俊雄、その他日本第一党の桜井誠、反ワクチンで有名な内海聡医師など多種多様な候補者が出馬して、史上最多の五十六人を記録しました。しかし、報道機関は小池、蓮舫、石丸、田母神の四人しか取り沙汰していないことからも、彼ら以外は殆どが泡沫候補であるのは確かです。尤も都知事選はまともな候補者は居らず、真実を語っているように見えても本当はあちら側にいる人が多いのです。石丸はこちらのように都立高校の生徒会長に百万円のばらまきを行うと公言しておりますが、これでは金に腐敗した政治家と同じ轍を今から学生に踏ませようとしているだけで、拝金主義の人間を産出するだけの愚策でしかありません。おまけにこちらのように、安芸高田市長時代に市議に対する恫喝問題に関する訴訟で二連敗しており、政治家以前に人間として可笑しい異常者であることが明らかです。田母神は都民の税金を軽減して、ワクチンも反対すると公約に掲げていますが、彼は明治憲法を理想とする改憲推進派であり、天皇教にも繋がる教育勅語の復活で日本を戦前のようなカルト国家にしようと目論んでいるのです。都知事選は日本の首都(偽物ですが)の首長選挙であるだけ、国政に大きな影響力をもたらします。改憲を阻止する上でも選挙に行かない訳にはいかないですし、与野党グルとはいえ政党の好き嫌いが出来ないのは事実です。東京在住の皆さん、改憲を阻止することを最優先に行動するためにも、消去法で護憲を標榜とする野党の立憲民主党と共産党と社会民主党が支援する蓮舫に投票せざるを得ないと思います。勿論、蓮舫は上述したように売国奴であることには変わりないのですが、毒を以て毒を制する理論で投票すると意識する他ないです。もし、小池が再選したら、その後の選挙では自民党が逆転することになって、改憲を阻止することは難しくなります。今回の都知事選で自民党の裏金議員の筆頭格で統一教会と関係が深い萩生田光一が小池応援の中心的な役割を担っているのです。小池の再選で萩生田を始めとする裏金議員が跋扈することが出来るようになりますし、日本は終わったも同然だと言えるでしょう。こちらにあるように、英国で十四年ぶりに政権交代が実現しましたが、勿論世直しはできないです。与野党グルで新世界秩序に足並みを揃えているのは世界共通だからです。日本も有権者がその気になれば、政権交代は可能ですが、前回記事で述べたように異なる形で日本に災いが降りかかることや人口の大半を接種者が占めているからには人口削減は少なくとも避けられないのは確かです。これ以上日本が悪い方向に向かわないよう歯止めをかけられる努力をするのが、我々に出来る精一杯のことだと思います。自戒を込めますが、世直しに絶対的に拘ることは使徒ヨハネが教えられているように、世を愛することになり、結果的には神の敵となるのです。世にある物を愛することは、偶像崇拝に陥る危険もあるため拙者も十分に気をつけなくては成らないです。

さて、話が逸れましたが、食物規定問題に関して女を糾弾したまる氏の記事を読んで、もしかしたらその女が間違っているのではと違和感を感じました。そのため、教会員に真相を確かめたところ、案の定、食物規定問題は闇側の女が広めた大嘘、はったりでしか無いと知り、ミカエル氏が出した食物規定に関する記事を読んで、改めて食物規定は緩和されていると納得できました。その後に闇側の女に惑わされた他の兄弟に例のミカエル氏の記事を提示すると、目から鱗が落ちたかのような形で、自分が間違っていたと気づき、ミカエル氏に背きの罪を謝罪しました。しかも、彼は闇側の女と彼女に追従した元教会員にすら交流を拒絶されて、途方に暮れているところでした。今思うに、拙者がミカエル氏に背かなくて済んだのは、まる氏の出した記事と教会員の食物規定に関する説明、ミカエル氏の記事のおかげだと思います。闇側の女に惑わされてアメブロの口座を削除して消息を絶っている元教会員の方、もしもこの記事を読まれているのでしたら、速やかに表に出てミカエル氏に背きの罪を謝罪することを推奨します。拙者はあなた方がこのまま闇に居続けることを望んでいません。あなた方が戻ってこられるのをいつでも待っています。

 

ヨハネの手紙一 三章十一節~十八節 新共同訳

なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

 

兄弟を憎む者は自らの行いが悪く、憎んでいる兄弟の行いが正しかったからこそ、兄弟を憎むことができるのです。カインは元々自分が絶対的に正しく思い、高慢に陥っていると神がその心を見抜かれてか、罪が戸口で待ち伏せていると予告されました。実際カインは自分の捧げ物ではなく、アベルの捧げ物を選ばれたことで嫉妬心が強まり、アベルを殺害しました。そのため、神の呪いで作物を育てられなくなり、地上を彷徨う者となりました。カインの教訓からも、兄弟を憎む者は人殺しであり、神への愛に欠けていることが分かります。主イエスが自己犠牲の精神で、我々人類のために罪を背負って、十字架の贖いで命を捨てて下さったように、我々もキリスト者を志すのであれば、隣人愛と兄弟愛を全うすることで、兄弟のために命を捨てる覚悟を持てるようになるべきです。

 

五、結び

皆さん、長くなりましたが、信仰においては愛は切り離すことができない物だと知る事が出来たのかと思います。今回は前後編に分けて、ビートルズの有名な歌曲の「All You Need Is Love(邦題:愛こそはすべて)」を元に、キリスト道における主イエスが説かれた愛の重要性について解説していきました。聖書には記事に挙げた聖句以外にも、数え切れないくらいに愛の単語が書かれており、恰も頻出単語かのように感じます。恐らくは聖書の学びにおいての最頻出単語の一つには「愛」というものがあるのかと思います。

皆さん、全人類の救いの恩恵期間が終了する大艱難の幕開けまで本当に残された時間は少ないです。これから先は主イエスが預言された通りに世界各地で戦争や災害などが多発していき、聖書を学ぶことは日増しに難しくなりつつあります。手遅れになる前に聖書の学びに一生懸命励んで、真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログ記事を最初から最新記事まで読み進めることを推奨します。

 

 

 

 

 

 

拙者はミカエルさんの管理する「神のイスラエル教会」参加に向けて活動中の未熟者ですが、この記事を読まれている読者の皆さんも宜しければ共にキリスト道を歩んでいこうではありませんか。

 

最後までご覧頂き有難うございました。