こんにちは。

 

今回から複数回に渡り、キリスト者に必要なものについて解説していきます。今回は寛容について、解説していきます。

 

一、寛容とは

二、偽りの寛容

三、真の寛容とは

 

一、寛容とは

皆さんは「寛容」について、何か考えたことはありますか。人によっては、「心が広い」、「多様性を受け入れる」や「何でも許す」とか回答は様々だと思います。ここで、「寛容」について、調べてみましょう。

かん‐よう〔クワン‐〕【寛容】
[名・形動](スル)
心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。「寛容の精神をもって当たる」「寛容な態度をとる」「多少の欠点は寛容する」

引用元:寛容(カンヨウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

引用の通り、「寛容」とは心が広く、よく人の話を聞き入れたり、他者の罪や欠点を厳しく責めないことを意味しますが、聖書が教える「寛容」の場合となると、少し違ってくると思います。「寛容」は言葉の捉え方によっては、聖書の教えに反するものもあるため、注意が必要です。

 

また、「寛容」という漢語は、古くから漢籍にも常用される一般語ですが、この語が哲学の領域で西洋語の翻訳語として紐づけられたのは明治に出版された哲学字彙によるもので、英語"Toleration""Tolerance"の語源は、endurance、 fortitude で、もともとは「耐える」、「我慢する」という意味をもつ言葉です。次第に「相手を受け入れる」の意味をも含むようになりましたが、無条件に相手を受け入れるというより、自分の機軸にあったものだけを許す、という意味合いが強かったようです。現在使われている「寛容」(Tolerance) が最初に使用されたのは十五世紀で、近世欧州社会において産み出された概念です。というのも、「十六世紀の宗教改革の結果として、カトリック普遍主義が崩壊すると共に、多くの同時代人が宗教的な寛容を重要な課題または争点として認識するようになった」からとも言われています。更に言えば、「まず宗派間の対立感情が頂点に達する宗教戦争の時代には、寛容は信仰の弱さの表現として否定的に考えられたが、やがて宗教戦争から平和に移行する段階になると、寛容はいわば必要悪として暫時的にではあるが肯定され、信仰の問題というよりも国家理性を優先する立場からカトリックとプロテスタントの平和的共存が実現される」という状況になったからと言われています。これは、積極的に相手を尊重するのではなく、「異端信仰という罪悪または誤謬を排除することのできない場合に、やむをえずそれを容認する行為であり、社会の安寧のため、また慈悲の精神から、多少とも見下した態度で、蒙昧な隣人を許容する行為」をするためであった。宗教戦争を経験した欧州における特殊事情が、「寛容」を強要されたわけであり、仕方無しの「許容」です。このように、「寛容」は当初は無条件に相手を受け入れると言う意味合いではなく、ローマ教皇の権威が衰退して、カトリック中心の世界観の中世暗黒時代が終わり、その時代を生きた人達が寛容を重要な課題や争点とした結果、今のような意味合いになったと言うことです。

 

さて、皆さんは「寛容」について、この世では「多様性」などと言ってそれまで世俗社会で認められてなかった事柄を承認するようになることは多いかと思います。特に欧州諸国ではナチス犯罪の教訓から「戦う民主主義」なるものを採用して、「自由の敵には自由を与えない」、「不寛容な者には不寛容であるべき」と言った考えの下で、偽ユダヤの犯罪を糾弾したり、パレスチナを支持することをナチス犯罪の矮小化などと言い掛かりをつけて、刑事罰を科しています。そもそもの話、ナチスは偽イスラエルの建国に関与しており、シオニストと協力関係にありました。こちらのように米国はソ連の共産主義に対抗する為に、ナチスの残党を積極的に利用して、NATOやCIAを創設しました。また、これには戦後にナチス戦犯の逃亡を支援したカトリックも関与していました。CIAはカトリック、イエズス会が作ったものであると共に、ナチスの残党の巣窟だったのです。戦後のニュルンベルク裁判で表向きはナチスの戦犯が断罪されたものの、裏では米国やカトリックに助けられた一部の戦犯がNATOやCIAの創設に関与して、東西冷戦で反共のために利用されていたのが歴史的事実です。ここで、信仰の兄弟である真氏の記事より引用します。

次にナチス・ドイツについて見ていきます。当時のドイツを支配していたアドルフ・ヒトラーが自身の生い立ちや世界観、政策等を記した書「我が闘争」は有名ですが、この本の執筆にはローマ・カトリック司祭ベルンハルト・ステンフル (英語版ウィキペディア) が関わっていました。つまり、独裁者ヒトラーの政治的世界観や政策等にローマ・カトリックが関与していたということであり、また、ステンフルは反ユダヤ主義の新聞を発刊していた新聞社ミースバッハー・アンツァイガーの編集長でもありました。一方、米国ではチャールズ・カフリンというカトリック司祭がラジオを用いて反共産主義、反ユダヤ主義を米国で唱え、千九百三十年代の米国の人口一億二千万人の内、推定三千万人がカフリンの毎週の放送を聴いた程の人気を集めていました。このヴェントゥーリ、ステンフル、カフリン等の行いから、「ユダヤ人迫害」にローマ・カトリックが関わっていたのは確かです。そして、ヒトラーの前に首相を務めていたカトリック教徒のフランツ・パーペンは、ドイツのローマ・カトリック司祭且つ中央党 (カトリック教徒の政党) の党首ルートヴィヒ・カースらと共に、ラテラノ条約をムッソリーニと結んだローマ教皇ピウス十一世と政教条約 (ライヒスコンコルダート) を締結し、当時のドイツの大統領でヒトラーを嫌っていたと言われるヒンデンブルク大統領に、ヒトラーを首相に指名してもまったく問題無いと説得し、ヒトラー内閣成立に大きく貢献しました (パーペンはその後、副首相を務めた) 。このように、パーペンがヒトラーに大いに協力していたのは間違いありませんが、戦後のニュルンベルク裁判においてナチス政党を政権につけた者、またオーストリア併合に関与した者として第一起訴事項「共同謀議」と第二起訴事項「平和に対する罪」で起訴された際、不可解なことに無罪とされています。その後、彼はローマ教皇ヨハネ二十三世によって教皇侍従に任命されたり、マルタ騎士団の一員にもなっていることから、パーペンがローマ・カトリックの手先であったことは間違いなく、だからこそ無罪にされたのではないかと考えます (この事からもバチカンの力の大きさが分かる) 。また、政教条約の交渉で中心的な役割を果たしたカースも、中央党党首としてナチスの全権委任法に賛同したことでヒトラーの独裁体制を確立させました。こうした事から、ヒトラーもムッソリーニと同様にローマ・カトリックと癒着していたのは確かだと考えます。「ヒトラーは政教条約締結後もカトリックやイエズス会を激しく弾圧したじゃないか」と考える人も居ると思いますが、それは「確かにバチカンはナチスに協力していた面もあるが、あの時は独裁者ヒトラーに従うより他に無かった。多くの聖職者を弾圧されて失ったバチカンは無力な被害者でもある」と世間に思わせるためであったと某は考えます。なぜなら、ローマ・カトリック、特にイエズス会の者たちはローマ教皇のためなら命をも献げる狂信者の集まりだからです。

彼らは、先述したように反ユダヤ主義運動を推進する一方で、ナチスの偽ユダヤ人に対する迫害に強く反対したり、偽ユダヤ人を保護してナチスから守ってもいます。一方、そのナチスはこちら (幻想の近現代 note) にあるとおり、ドイツ・シオニスト連盟やユダヤ機関からの指令を受けたアングロ・パレスチナ銀行とハーヴァラ協定を結んで、約六万人の偽ユダヤ人の庶民をパレスチナに送っています。そして、ホロコーストの犠牲者たちを追悼するために建てられた偽イスラエルの国立記念館ヤド・ヴァシェムは、二千五百人もの偽ユダヤ人の子供を助けたというカトリック教徒イレーナ・センドラーや、ピエール・シャイエ等の十四人のイエズス会士に「諸国民の中の正義の人」の称号を与えています。これらの事から、ナチス・ドイツがバチカンや偽ユダヤ人の権力者と裏では繋がっていて、偽ユダヤ人の庶民を迫害 (世間で言われているホロコーストの被害者数はかなり誇張されている) することで彼らへの同情を集めさせ、アルバート・パイクの計画どおりに偽イスラエルを多くの支持と共に建国するために用いられたと言えると思います。

引用元:迫り来る闇に呑まれてはならない | 主イエスこそ真の道である。

真氏の解説の通り、ナチスは戦前からカトリックと関係が深く、偽ユダヤのシオニストとも繋がりを持っており、偽ユダヤ人のパレスチナ移住を支援して、彼らのパレスチナ侵略を手助けしたのはナチスであるのが明らかです。表向きではナチスの迫害から逃れるためにパレスチナに移住したとされる偽ユダヤ人は、実際はナチスがドイツ・シオニスト連盟やユダヤ機関からの指令を受けたアングロ・パレスチナ銀行とハーヴァラ協定を結ぶことでパレスチナに送り込まれただけだったのです。偽イスラエルの建国は第一次世界大戦での戦費調達のために英国がバルフォア宣言を認めたのが発端ですが、パレスチナの入植を促したのはナチスであることが分かります。にも関わらず、欧州諸国はナチスを忌み嫌う一方で、肝心なナチスとシオニストの関係について全く触れようともしないです。偽ユダヤにとって、自分達が世界的な悪の権化としているナチスと繋がっていることが発覚したら都合が悪いからです。そのため、ナチスと偽ユダヤの関係やホロコースト六百万人虐殺の検証など、こうしたナチス関連の歴史の検証を欧州諸国は法律で禁止しているのです。明らかな学問の自由の侵害だと思います。ナチスと偽ユダヤの関係について、詳しくは拙者の過去記事「偽ユダヤの起源とハザールの関係 | 真実のキリスト道を歩む」を参照して下さい。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。

 

上図のとおり、日本政府はナチス主義を否定せえへんかった。その証拠に、日本で自民党や他の政党もよってたかってナチスに倣った緊急事態条項付きで改憲やと騒いでるが、そもそも国会議員やその他の公務員らが積極的に改憲と言う自体が憲法九十九条違反の不法行為であるし、麻生太郎氏がかつて言うたとおりナチスに倣う許されざる暴言であり、表面的に撤回すれば済む話やなく、そないな思想を持ってることが問題なのであり、自民党改憲草案や参政党の改憲も似たようなもので現憲法に反する内容で憲法前文により排除されるもので無効やし、彼らのような信条を持つ人間は公務員に不適格であり、懲戒処分を受けて然るべきです。大艱難期になれば、FEMAがキリスト者を迫害する部隊になる可能性は高い。米国のみならず、似たような組織が諸外国でも作られ、同じような迫害をしてくる可能性もある。

引用元:神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか | 真の聖書福音と預言

ミカエル氏の解説の通り、日本や米国に限らず、ナチス犯罪の当事国のドイツとオーストリア、その他被害を受けた欧州諸国すらナチス主義の賛美と撲滅に関する連合国の決議に反対票を投じました。表向きではナチス犯罪を糾弾して、法律で禁止していながら、全くの厚顔無恥としか言いようがありません。特に当事国のドイツはナチス犯罪の反省をする気はあるのかと疑うくらいです。尤もこちらのように、ドイツは徴兵制を復活させました。二千十一年に一旦は廃止されたものの、二千二十四年から徴兵制の復活が議論されていました。ドイツが徴兵制を復活したことで、十七歳以上四十五歳以下の男性は政府の許可なしに三ヶ月以上国外に出ることを禁止されました。明らかにナチス時代に回帰しようとしているのが分かります。日本も他人事に思うべきではありません。昨今ではナチスを賛美する高市政権の主導で憲法改悪が推進されて、ナチス式の独裁政権が成立しようとしています。そうなれば、自衛隊は軍隊となり、大東亜戦争以来の徴兵制が復活して、日本の若者は強制的に徴兵させられることになります。また、改憲後の日本の場合、自民草案で規定された緊急事態条項に基づいて、政府の無制限の独裁が可能となり、恣意的な逮捕と拷問、預金封鎖、財産没収、個人番号券所持とワクチン接種の義務化など自由と人権を無視した恐怖政治が行われ、また連合国の敵国条項に基づき、支那とロシアなど反日の周辺諸国の対日参戦を招きます。米国は世界最大の反日国家であり、支那とロシアとはグルであり、改憲されたら支那に台湾有事を起こさせて、在日米軍を台湾に出動させて日本列島はガラ空きとなります。そうして北からロシア軍が、南から人民解放軍が侵攻するとされます。米国に続いて世界二・三位の軍事力を持つ支那とロシアに対して、もはや自衛隊に勝ち目はありません。ただでさえ、高市の「存立危機事態」発言で日支関係が悪化して、レアアースだけでなく、シンナーまでも軍民両用であることを理由に禁輸されており、ロシアとは岸田政権時代のウクライナ支援と対露経済制裁で日露関係は悪化して、日本を非友好国と指定されるまでになり、ロシアからの原油の輸入は少ないながら出来てはいるものの、こちらのようにロシアへの経済訪問団の訪露は無意味とロシア外務省は切り捨てており、日本に対して対露経済制裁の解除を要求しており、今のままでは日露関係の根本的な改善は難しくなっているように感じます。連休中の鈴木宗男参院議員の訪露では、モスクワでのルデンコ外務次官との会談後、「七月のマニラでの国際会議に際して日露の外相会談を手配してもよいと言われた」と記者団に述べていましたが、ロシア外務省は日露間の会談について「積極的に提案したことはなく、日本側からの申し出も受けていない」として、鈴木氏の発言内容を打ち消したのです。ホルムズ海峡が事実上封鎖されている今だと、日本が生き残る道は本来ならイランと個別交渉してホルムズ海峡の通航許可を貰うのが手っ取り早いです。高市は米国のトランプに媚び諂って、米国産石油の輸入を増やしていますが、戦前と違って日本の石油事情は米国依存ではなく、戦後から中東産の石油に特化した設備に変えられており、軽質で軽油やガソリンを抽出できず、値段が高額なだけで、日本の設備にはそのまま使えないから無意味です。米国産石油は中東産と混ぜないと使えないのが現状です。中東産の代替になるのは強いて言うならば、ロシア産の石油です。ロシアの石油は特に樺太で産出されるサハリンブレンドは日本企業が資源開発に関わっており、対露経済制裁中でも米国の制裁対象外として天然ガスと原油の輸入は継続されていました。サハリンブレンドは特に日本の設備に適合していますし、日本への輸送日数は樺太産出より長いものの、ウラル方面の欧露で産出された原油と東シベリア太平洋パイプラインの原油は特に中東産に近いと言われています。ホルムズ海峡経由の石油輸入の依存を減らすにはロシアの石油輸入を増やすしか道はないのです。米国やメキシコの石油すらも日本への輸送には中東よりも膨大な日数がかかりますし、費用対効果が小さいです。一方、ロシア産の石油は日本から最も近い隣国である故に、特に樺太で産出された石油の輸送日数は僅か二日程度ですから、そちらからの輸入を増やした方が遥かに費用対効果が大きいです。また、中東産にしてもアラブ首長国連邦のフジャイラ港やサウジアラビアのヤンブー経由でのホルムズ海峡の代替経路での輸入を図っていますが、先日にフジャイラ港がドローン攻撃を受けたように、戦争に巻き込まれる危険性も零ではないです。ヤンブー経由もイエメンの親イラン勢力のフーシ派に攻撃されやすい故に不安定です。従って、イランとの交渉を避けたいなら、ロシアへの経済制裁を解除して外交関係を正常化させてロシアからの原油輸入を増やし、「存立危機事態」発言を撤回して支那と関係を正常化してレアアースとシンナーなどの禁輸を解除すると言った道しかありません。それだけ、支那とロシアは日本と違って資源は豊富であり、国力も桁違いです。そんな支那とロシアに対して戦争を仕掛けることは、正に戦前に日本が今と違って米国からの石油輸入に依存していたにも関わらず、日米関係を悪化させて、米国に石油を禁輸されて経済が立ちゆかなくなったにも関わらず、桁違いの国力を持つ米国との無謀な戦争に挑むと言う歴史を繰り返しているようなものです。尤も米国は最大の反日国家故に日露戦争後から日本を滅ぼすための戦争準備を始めて、対日戦略を構築しており、石油の禁輸も日本を挑発して戦争に導くための罠でしたが。日米開戦の真実について、詳しくは拙者の過去記事「日米開戦の真実 ~日米対立の火種~ | 真実のキリスト道を歩む」を参照して下さい。

 

 

それほど、日本は国益に反する外交を行った故に、備蓄の対象外であるナフサ不足が深刻化しています。政府は必死に「ナフサは足りている」と白を切っていますが、実際の現場はナフサが不足しているために混乱しており、政府の発表が如何に嘘であるかが分かります。こちらのように、カルビーは染料(インク)不足を理由に商品の袋を白黒印刷へと変えました。見た目は悍ましいですし、売れ残る危険性が高いですが、企業による政府の無策への抗議の意味もあるかもしれません。ホルムズ海峡を通航できた日本関係の輸送船舶は現時点では出光興産、ENEOSの所有する船だけですが、企業が独自にイランと交渉した結果、できたものだと思います。何より、出光興産に関してはこちらの千九百五十三年の日章丸事件の恩義があったからこそ、イランが特別に通航を認めたからです。しかし、高市は恰も自分の手柄とばかりにイランと電話会談をし始める始末で、実りのある会談にはならず、日本の輸送船舶は四十隻近くもホルムズ海峡に残されているのが現状です。いい加減に政府が何とかしてくれると言う期待を抱くのはやめませんか。「そのうち何とかなるだろう」と言う気持ちでいてはいつまで経っても、石油危機は解決しないです。最近では反戦運動が頻発していますが、規模は政府にとって脅威と言えるくらいではありませんし、欧米並みの破壊活動もなく、ただペンライトを振り回して、「高市辞めろ」や「戦争反対」などと叫ぶだけで何の芸もありません。せめて、一万人以上の人員を動員して、安保闘争並みの激しさで国会を包囲するくらいの勢いにならなければ、事態は好転しません。手遅れになる前に政府の悪法と改憲に全力で反対するべきです。
 

 

二、偽りの寛容

偽りの寛容について、解説します。ローマ教皇は多様性の名の下で移民政策の推進や同性愛の容認などを世界各国に呼びかけていますが、これを寛容と考えるようでは大間違いです。例えば、同性愛は神の創造の秩序に反する故に律法で禁止されています(レビ記十八章二十二節参照)。神の律法は古代イスラエル民族の法律だから、主イエスの十字架の贖いで廃止されたから時代遅れと思う人が大多数ですが、これも大間違いです。ここで、聖句を提示します。

 

新約聖書 マタイによる福音書 五章十七節~二十節 拙訳

我が律法や預言者を廃止するために来たと思うな。我はそれらを廃止するために来たのではなく、成就するために来たのである。まことに、汝らに告げる。全てが成就して、天と地が滅びるまでは、律法の一点一画も決して消え去ることはない。それ故、これらの最も小さい戒めの一つでも破り、人々にそう教える者は、天の御国において最も小さい者と呼ばれる。しかし、それらを守り、教える者は、天の御国において大きな者と呼ばれる。汝らに言っておく。もし、汝らの義が、律法学者やファリサイ派達の義に勝るものでなければ、決して天の御国に入ることはできない。

 

主イエスははっきりと律法を廃止しないと明言しており、律法廃止論そのものが嘘である事が分かります。にも関わらず、カトリックやプロテスタントなど地上の諸教会は偽使徒パウロの書簡に書かれた教えを重視して、律法を無視して違犯し続けています。そのため、同性愛や性転換は悪ではないとか、LGBTQなど性的異常者の権利を認めるべきだと言う考えを示す教会も増えつつあります。こちらのように、幸福の科学の大川隆法が霊言でイエス・キリストに対して同性婚問題の意見を窺うまでになっています。しかし、霊言は霊媒であり、神の律法で禁止されている行いです(レビ記十九章三十一節参照)。霊媒で主イエス・キリストと話したと思い込んでいるようですが、実際は悪霊と交信しているのです。以下、リンク先のNote記事に書かれた書籍からの引用です。

「人にはそれぞれ考え方の違いや、趣味・趣向の違いは否定できないものがある。同性愛自体を完全に禁じられるかというと、難しい面はある」

「同性愛をキリスト教の中で吸収するとしたら、隣人愛の考えの中に、男女の区別はないというところに求めるべきでしょうね」

「同性婚が国家の衰退に直結するものであるなら、日本が次のリーダーになることもありえる」

「人種のるつぼであったことが、アメリカの活力になったように、ゲイもストレートも同じ扱いをした方が国力が増すと考えている指導者が、それを実験しようとしている」

「この辺は、すべて文明の壮大な実験であるので、宗教指導者や政治指導者たちが、その責任を負っていかねばならない」

引用元:『イエス・キリ­ストに聞く「同性婚問題」―性と愛を巡って―』読みました。|AI・スピリチュアル・ライター⭐️風間 光翔🌈Kazama Kosho✨フォロバ100

律法を廃止しないと公言しているイエス・キリストらしくない物言いです。隣人愛と同性愛は本質は異なるのに、同性愛を容認することを隣人愛として肯定することは間違いです。性的少数者の権利を保障して国力が増すと思ったら、国や民族の伝統を重視する層に対する迫害が始まり、伝統文化が破壊されて、自己同一性を失う契機にもなっており、逆に衰退に向かう元凶になりつつあります。米国はカトリックの迫害から逃れた清教徒が上陸して建国した国の筈が、その伝統すらも捨てて、同性婚を全米で合法化して、同性婚反対の保守派に対する刑事罰が科されるようになりました。世界各国では二十世紀末まで同性愛は忌み嫌われていたのに、二十一世紀になって急速に同性愛の容認が推進されたのは、正しく新世界秩序に舵を切っているからに他なりません。支配層は同性愛者が多く、欧米諸国を中心に同性婚を法制化したのはある種の実験かもしれません。将来的には全世界で同性愛を推進することで、ローマ教皇が定めた秩序として同性愛の容認を法制化して、少数の真のキリスト者を始め、多くの反対派を弾圧していくでしょう。これが永遠の地獄行きを定める獣の刻印に繋がるのです。

 

 

この世の法律では認められても、神の律法に反していれば、人間は神の目からすると罪人なのです。悔い改めなければ、皆一様に滅びるのです(ルカ十三章三節参照)。なぜなら、この世の主権者は神だからです。神が主権者である以上、人間がいくら神の律法に反する法律を作ろうとも無駄なことです。だから、神の律法に反するものを容認することは決して許されないことです。これは寛容でも何でもありません。ただ、律法違犯を容認しているだけにしかならないです。

 

 

また、他者の行いが律法違犯であることを承知していながら、その者の罪を咎めないことも、他者の律法違犯を容認するのと同じであり、罪と定められます。ここで、聖句を提示します。

 

旧約聖書 エゼキエル書 三十三章一節~二十節 拙訳

主の言葉が再び我に臨み、こう言われた。「人の子よ、汝の民の子らに告げ、彼らにこう言いなさい。我が剣をある国に下すとき、その国の民がその地方から一人の男を選び、見張りとして立てたとする。もし、その男が、剣がその国に迫るのを見て、角笛を吹き鳴らし、民に警告したなら、 その角笛の音を聞いても警告に従わなかった者が、もし剣が来て彼を殺したなら、その血の責任は彼自身にある。彼は角笛の音を聞いたのに警告に従わなかった。その血の責任は彼自身にある。しかし、警告に従った者は、自分の命を救うことになる。しかし、見張りが剣が来るのを目撃しながら角笛を吹かず、民に警告しなかった場合、剣が来てその中から誰かを連れ去ったとしても、その人は自分の罪のゆえに連れ去られるのである。しかし、その人の血の責任は、見張りの手に問う。それゆえ、人の子よ、我は汝をイスラエルの家の見張り人とした。だから、汝は我の口から出る言葉を聞き、我に代わって彼らに警告しなさい。我が悪人に向かって、「悪人よ、あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もし汝がその悪人に、その道から立ち返るよう警告する言葉を語らなければ、その悪人は自分の不義のゆえに死ぬ。しかし、その血の責任は、汝に問う。しかし、もし汝がその悪人に、その道から立ち返るよう警告し、もし彼がその道から立ち返らなければ、彼は自分の不義のゆえに死ぬ。しかし、汝は自分の命を救うことになる。それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に向かってこう告げよ。「あなたがたはこう言え。『もし我々の背きと罪が我々の上にあり、そのために衰え果ててしまうなら、どうして我々は生きられるだろうか』と。」彼らにこう言いなさい。『主なる神はこう言われる。我は生きている。我は悪人の死を喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ、立ち返れ。汝らの悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ死のうとするのか。』それゆえ、人の子よ、汝の民の子らにこう言いなさい。『義人の義は、彼が罪を犯した日には彼を救わない。また、悪人の悪は、彼がその悪から立ち返る日には、彼を倒すことはない。義人が罪を犯した日には、その義によって生きることはできない。我が義人に『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の義に頼って不義を行うなら、彼のすべての義は顧みられない。彼が犯した不義のゆえに、彼はそのために死ぬ。また、我が悪人に対して『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もしその人が自分の罪から立ち返り、法と正義を行うなら、即ち、もしその悪人が質物を返し、奪ったものを返還し、不義を犯すことなく命の掟を歩むなら、その人は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は、一つとして彼に責められない。彼は法と正義を行う者となったからである。彼は必ず生きる。しかし、汝の民の子らは言う。『主の道は公平ではない』と。しかし、彼ら自身の道こそ公平ではないのである。義人がその義から離れ、不義を行うなら、そのゆえに彼は死ぬ。しかし、悪人がその悪から立ち返り、法と正義を行うなら、それによって彼は生きる。それなのに、汝らは『主の道は公平ではない』と言う。イスラエルの家よ、我は汝ら一人ひとりを、その行いに応じて裁く。

 

エゼキエル書に記録されている通り、キリスト者たる者は見張りとして、他者の律法違犯を咎め、更正させる役割を神から任せられているのです。見張りであるキリスト者が律法違犯の罪を咎めても、相手が悔い改めないならば、罪の責任は相手自身のみに問われます。しかし、見張りの務めを任せられていながら、相手の律法違犯の罪を咎めず、相手が悔い改めないまま滅びることになったら、罪の責任は相手だけでなく、見張りの務めを任せられているキリスト者にも問われます。逆に、キリスト者が相手の律法違犯の罪を咎めることで、相手が悔い改め、律法違犯の罪を犯すことをやめれば、相手自身が救われるだけでなく、見張りであるキリスト者も救われるのです。また、義人でも必ずしも救いが保証されている訳ではなく、義人でも律法違犯の罪を犯して堕落したら、救いを失うのです。逆に、悪人でも必ずしも滅びるとは限らず、悪人でも律法違犯の罪から離れて悔い改めたら、救われるのです。このように、罪とは個人の責任であり、子孫に遺伝するものではなく、自分自身の義によって救いを受けられたり、自分自身の罪によって滅ぼされるのです。

 

三、真の寛容とは

聖書が教える真の寛容について、解説していきます。「寛容」に関して、興味深いものを見つけました。キン肉マンⅡ世の「火事場のクソ力修練編」の試練に出てくる火事場のクソ力の三要素の一つに「寛容」と言うのがありました。その寛容とは以下の意味を持っています。

 

•  意味: 負けた敵を許すことのできる心。勝ち負けを超えた慈悲や受容の精神で、敵を含めた「すべて」を思いやる段階に相当します。

•  作中での位置づけ: 火事場のクソ力の3段階でいう第三段階(敵のために出す力)に近く、最も高い次元の要素。勝利後に観客から罵声を浴びる敵をかばうような行動が典型で、ただ勝つだけでなく、相手を救う・許す「人類愛」や慈悲の心です。

•  炎の表現: 「負けた敵を許すことのできる寛容の炎」。

•  獲得の例: キン肉万太郎対フォーク・ザ・ジャイアント戦後、敵を許す心で炎が噴出。

この要素は、単なる勝利欲や復讐心を超えた「寛大さ」が鍵で、火事場のクソ力を「次元が違う」力に昇華させます。

 

キン肉マンⅡ世の作中の火事場のクソ力の三要素の「寛容」とは、相手を赦し、慈悲や受容の精神で、敵を含めた全てを思いやるものであり、聖書の教えに通じているように感じました。ここで、聖句を引用します。

 

新約聖書 マタイによる福音書 六章十四節~十五節 拙訳

あなたがたが人の過ちを赦すなら、天の父もあなたがたを赦して下さる。しかし、あなたがたが人の過ちを赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちを赦さない。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 二十章二十三節 拙訳

あなたがたが誰の罪でも赦せば、その罪は赦される。また、あなたがたが誰の罪でも赦さなければ、その罪は赦されない。

 

主イエスが教えられたように、他者の罪を赦さなければ、その者の罪をお赦しにならないのです。日本では特に殺人事件の被害者遺族を中心に犯人を死刑にするように求刑する人が多く、犯罪の抑止のために死刑の存続を主張する意見が多いです。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。

①死刑制度の存在

日本人もあまり棚に上げて言えませんが、昔の欧米人は公開処刑を娯楽の一種とまで考える鬼畜ぶりでした。そして、欧州(イギリス、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル等)が大航海時代にアメリカ大陸、アフリカ大陸、アジア諸国に侵略し、原住民を虐殺し、彼らの富や土地等を強奪して支配する等の鬼畜の所業を働きました。今は建前上、人命を尊重して犯罪者でも一人の人間の命と考えて法律上では死刑を廃止しています。しかし、欧米諸国は警察官がすぐに発砲して射殺を厭わないので、裁判で死刑にできない代わりに現場で処刑しているに等しいので欧米人は崇高な精神の持ち主とは言えません。やはり欧米人は昔から変わらず人命を軽んじる者が多いです。イスラム圏の国々もイスラム法に基づき死刑を残しており、そもそも異教の価値観と法に支配されているので問題があるのは当然です。仏像や地蔵等の偶像礼拝大国の日本も未だに死刑を残しています。日本人は死刑を喜んでいる気質さえあります。殺人事件があれば遺族は殺人犯に死刑を求め、刑務所で税金で飯を食わすのがもったいないから早く死刑にしろと言う高慢な日本人が多いです。犯罪者も一人の人間の命と考えず、命の重さを考えず、すぐ死刑と連呼するのは聖書でピラトが主イエスを釈放しようとユダヤ人の大衆に呼びかけた時に、ユダヤ人たちが「十字架につけろ」と叫び続けたことを想起させます。本当に、日本人は古代イスラエル人と同じ気質があります。主イエスは罪も無く死刑になったので、一般の犯罪者とは違って理不尽でした。しかし、犯罪者も一人の人間であり、悔い改める機会も与えず、独房に何年も、場合によっては何十年も閉じ込めて時折検察の取り調べや裁判に引きずり出して最終的には殺されます。他の人間が何故その者の命を奪う権利があるのでしょうか。聖書から分かるとおり、主イエスは、姦通の女(ヨハネ8:1~11)の話で仰ったように、この地上で生きている間は罪に定めたり、死刑にすることをなさいませんでした。この場面だけでなく他でも赦しの重要性を説かれました。このことからもモーセの律法にある死刑執行手段であった石打ちをする司法律法は主イエスによって廃止されました。全世界に福音を広めてイスラエル人だけでなく、異邦人にも救いが及ぶ契約の変化の意図もあり、人間が他の人間の命を奪うというのは法をもってしても許されないということを主イエスはお示しになったのです。マタイ6:14~15、マルコ11:25、ルカ6:37、ルカ17:3~4、また主の祈りにも赦しに関する文言があるではありませんか。主イエスはこれ程、他人の罪を赦しなさいと教えられているのに、何故、あなたがたは他人を赦さないのか。何故、自分たちが神の律法に違反して多くの罪を犯し、罪深いという事実を棚に上げて、他人の命や人権を軽んじるような恥知らずな言動を平気でするのか。

引用元:正月と日本人の現実 | 真の聖書福音と預言

死刑制度は日本に限らず、死刑を存続する諸外国も同様に問題ですが、犯罪者も一人の人間であり、悔い改める機会を与えず、死刑だけでなく、無期懲役(海外は終身刑)で死ぬまで牢屋に閉じ込めて殺すのは間違っています。死刑を規定した司法律法は主イエスが来臨した時に廃止されており、先述した聖句のように主イエスは他者の罪を赦すように教えられています。生涯律法に違犯したことのない正しい者は一人もいないです(詩編十四編、詩編五十三編参照)。群衆が姦通の女を石打ちの刑をしようとした時、主イエスに罪を犯したことのない者が石を投げるように言われたら、誰も石を投げることが出来なかったとおりです。生涯で少なくとも一度は律法に違犯したことのある分際で死刑を求刑するなんて高慢に等しいです。赦しに関して、他の聖句にもあります。


新約聖書 マタイによる福音書十八章二十一節~三十五節 拙訳

その時、ペトロがイエスに近寄って言った。「先生、兄弟が我に対して罪を犯したとき、我は何度まで赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは彼に言われた。「七回までと言うのではない。七の七十倍までと言うのだ。」それゆえ、天の御国は、ある王にたとえられる。その王は、僕たちの清算をしようとした。彼が計算を始めると、十万タラントンの借金がある者が連れて来られた。しかし、支払うものが何一つなかったため、主人は、彼と妻と子供たち、そして彼の持っている全てのものを売り払い、その借金を返済するよう命じた。そこで、その僕はひれ伏して、彼にひれ伏し、「ご主人様、我に対するお怒りを収めてください。そうすれば、全てお返しいたします」と言った。すると、その僕の主人は憐れみ、彼を解放し、その借金を免除した。しかし、その僕が去って行くと、百デナリオンを借りていた仲間の僕の一人を見つけ、彼を捕らえて、「借金を返せ」と脅した。すると、その仲間の僕は彼の足元にひれ伏し、懇願して言った。「どうか我への怒りを収めてください。そうすれば、全てお返しします。」しかし、彼はそれを聞き入れず、その人を借金を返済するまで牢屋に投獄した。他の僕たちは、この出来事を見て、ひどく悲しみ、主人のもとへ行って、その全てを報告した。すると、主人は彼を呼び寄せて言った。「この悪い僕よ。お前が我に懇願したので、我はその借金を全て赦してやったではないか。我がお前を憐れんだように、お前もその仲間の僕を憐れむべきではなかったのか。」そこで、主人は彼を怒り、彼が負うべき全ての借金を完済するまで、彼を拷問者たちの手に引き渡された。あなた方も、心から互いに兄弟の過ちを赦さないなら、天の父もあなた方に同じようにされるであろう。

 

主イエスが教えられた仲間を赦さない家来の例えから、神は相手の過ちと罪を赦さない者の罪をお赦しにならないのです。借金の計算をします。一デナリオンは日本円に換算すると約一万二千円で、一日の給料に相当します。一タラントンが六千デナリオン(日本円に換算すると七千二百億円)に換算されます。十万タラントンは七兆二千億円でもはや国家予算並みであり、一生かけても返済することの出来ない金額と言えます。一方、百デナリオンの借金を抱えている家来は約百二十万円で約三ヶ月分の給料の額であり、十万タラントンの借金を抱えている家来に比べると少ないです。罪の重さに例えると、十万タラントンの借金を背負っている家来の罪は重く、百デナリオンの借金を背負っている家来の罪は軽い方です。罪の軽重を問わず、人間は誰しも律法違犯の罪を犯すものです。神の目からすると、みんな罪人です。だからこそ、互いの罪と過ちを赦すべきなのです。また、主イエスは赦しと愛は比例するものだと教えています。ここで、該当の聖句を提示します。

 

新約聖書 ルカによる福音書 七章三十六節~五十節 拙訳

すると、あるファリサイ派の者がイエスを招いて、一緒に食事をしようと願った。そこでイエスはその家に入り、食卓に着かれた。すると、その町に一人の罪深い女がいた。彼女は、イエスがそのファリサイ派の者の家で食事をしておられると知ると、香油の入ったアルベスタの壺を持って来て、そして、彼の後ろに立って泣きながら、涙でその足を洗い、自分の髪の毛で拭き、その足に口づけをして、香油を塗った。さて、イエスを招いたそのファリサイ派の者は、それを見て心の中でこう言った。「この人がもし預言者なら、自分に触れているこの女がどんな女か、どんな人なのかを知っていたはずだ。彼女は罪人なのだから。」イエスは答えて彼に言われた。「シモン、あなたに言いたいことがある。」すると彼は言った。「先生、どうぞお話しください。」ある金貸しに、二人の借金人がいた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオン借りていた。しかし、二人に支払うものが何もないのを見て、彼は二人をともにかけがえのない恵みをもって赦した。さて、どちらが彼をもっと愛するだろうか。シモンは答えて言った。「おそらく、より多く赦された方でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「その通り、よく判断した。」 イエスはその女の方を向き、シモンに言われた。「この女が見えるか。我があなたの家に入ったとき、あなたは我の足に水も注いでくれなかった。しかし、彼女は涙で我の足を洗い、自分の髪で拭いてくれた。あなたは我に口づけもしなかった。しかし、この女は、我が入って来てからずっと、我の足に口づけをし続けている。あなたは我の頭に油を注いでくれなかった。しかし、この女は我の足に香油を注いでくれた。それゆえ、我はあなたに言う。彼女の罪は数多いが、赦された。彼女は深く愛したからである。しかし、赦されたことが少ない者は、愛も少ないのである。そして、イエスは彼女に言われた。「あなたの罪は赦された。」すると、イエスと共に食卓を囲んでいた人々は、心の中でこう言い始めた。「この人はいったい誰なのか。罪までも赦すとは。」イエスはその女に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。平安のうちに帰りなさい。」

 

マタイによる福音書の十八章の仲間を赦さない家来の例えにも通じる部分がありますが、二人の借金を背負っている債務者はそれぞれ五百デナリオンと五十デナリオンの借金を抱えていますが、返済能力が無いために、その金貸しが二人を憐れんで借金返済を免除した例えから、借金の額の多い人の方が憐れんでくれたその金貸しの人をもっと愛する例えから、罪深い人ほど憐れんでくれた神を愛するものです。神への愛と隣人愛が深ければ、罪の軽重を問わず全ての罪を赦されるものです。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。

主イエスは「また、立って祈るとき、もし誰かに対して持ってるなら、赦しなはれ。天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦してくれはるように。」と言わはった。これは、マタイ六章十二節にて、主イエスが祈り方を教えはったのと同じ内容で、繰り返し言われてるんやさかい、非常に重要や事やで。また、立って祈るときとあることから、これは一人で落ち着いて祈る際やのうて、外に居る時や日常の作業時や移動時に祈る際のことと言える。「もし誰かに対して持ってるなら、赦しなはれ。」というのは、何を持ってるかは明示されてへんが、赦しなはれと言われてることから、否定的な内容であることは分かる。なお、市販聖書は、「恨みに思うことがあれば」等と訳してるが、原語ではそうではない。恨みという言葉が原文には無いからや。しかし、文脈から判断すれば、赦すように言われてる内容であるが故に、誰かに対して抱く恨みや不満や怒りや妬みといった否定的な内容のことを指すのは明白や。「職場の誰かがー」、「学校の誰かがー」、「客がー」等と身の回りで色々な人間関係において嫌な事を経験することは数多い。特に、かように不信仰者や異教徒だらけの邪な時代は、正常な倫理観や正義感も無く、品性が悪い人間が増えており、不満を言いたくなる相手が多い。しかし、ここで言われてるとおり、何か他人から嫌な事を言われたり、されたりしてもそれを赦しなはれという主イエスの教えで、それは悪人を野放しにするという意味やのうて、その人自身も生涯罪を犯さずに生きてきたのではないんやから、個人的に赦せないと思えるような他人の罪や過ちを赦せというものや。生涯罪を犯しはらへんかった主イエスが、かように仰せなんやから説得力があるやろ。これに「否」と言う者は、反キリストや。
そして、最後の二十六節「しかし、もしあんた方が(他人の罪を)赦さへんなら、天に御座すあんた方の父も、あんた方の罪を赦しはらへんだろう。」の箇所は、市販聖書では削除されてる。非常に重要な内容やのに、改訂版底本では削除され、忌まわしい。さて、その内容は、先に述べたとおりで、他人を赦せへん人は自分の罪を棚に上げてばかりというのが多いさかい、かような人は神から赦してもらわれへんという警告や。特に現代では気軽に「赦せない」と言うたり、強い怨念を他人に抱いてる愚か者が多い。あのね、そない言うてる人や、内心で思てる人よ、あんたらも神にとっては大罪人で死刑囚なんやから、偉そうに他人に恨みを抱いたりすんなよってことです。拙者が常々言うてるとおり、自分自身を客観視せい。主観という自分視点ばかりで考える人間が多いから、他人と激しく衝突し、場合によってはえらい事に発展するんや。「他人に迷惑を掛けるな」と意識してる人は少しは居るやろが、それでもたまには迷惑は掛けるものです。生涯で一度たりとも他人の世話になったことがない、迷惑を掛けたことがないなんていう人は居らん。本人が自覚してへんだけで、誰かの負担にはなってる筈で、それは皆がそうなんやから、お互い様で恨みっこなしです。ただ、それはなるべく他人に負担を掛けまいと意識しててもそれやから、意識もせず、遠慮もせず、ただ獣のようにやりたい放題するような無神経な輩も当然存在する。しかし、そないな人を恨んでもしゃあない。そないな人は普通の人間ではないんやと諦め、距離を置いて、そっとしてやればええ。もし重大な犯罪を犯すなら、きちんと法を以て罪を償わせればええのであり、私的制裁を加えたらあかんし、私恨を持ち続けてもあかん。それでは、その人自身に返ってくるさかい。他人の不幸を祈ったり、呪ってもならん。それは、妬みや恨み等の悪い品性から出てるからや。そないな発言や行いをする者は悔い改めなあかん。人間やから、嫌な事を言われたり、嫌な事をされると、イラッときたり、怒ったりするでしょう。しかし、なるべくそうせえへんように、感情を制御せないかん。たとえ神の民、真のキリスト者と言えども、信仰に入る前は不信仰者や異教徒等と同じような事をして生きてたんやから、その時の罪、若しくは信仰に入ってからも不完全故に犯した罪、色々ある。それを神に赦していただくには、他人を赦す度量の広さが必要なんや。それがでけへんような人、やられたらやり返したり、倍返ししたり、復讐せな気が済まんというような人は地獄行きです。なぜなら、その人自身も神の目には等しく罪人であることを棚に上げて、他者の罪ばかりを責めるからや。これでは悪魔と同じやから、神は嫌いはるんや。悪魔は嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節参照)であり、神に逆らった大罪人の分際で、人間の罪を神に告発したりする。まさしく「おまいう」(お前が言うな)なんですよね。大事なのは、まずは自分自身が、主イエスという神の信仰を持ち、神の律法を鏡のように見て、違犯してる箇所を潰していき、罪を犯さぬように努めつつ、伝道活動をしたり、慈愛ある活動を自主的にする必要がある。それこそ真のキリスト者の姿です。ローマ教皇をはじめとする自称聖職者どもや他の宗教家や政治家や不信仰の一般人のように、自分自身が悔い改めもせず、自分の罪を棚に上げて、他人を非難ばかりしてる人は、反キリストであり、悪魔の子です。

引用元:実を結ばな滅ぶ | 真の聖書福音と預言

ミカエル氏が解説されたように、他人からどんな仕打ちを受けようとも主イエスはその者の罪を赦すように教えられており、他人の過ちを赦せない者ほど気軽に「赦せない」と言うもので、根強く恨みを抱くものだが、そういう者ほど自分の罪を棚に上げており、神の目からすると罪人であり、赦しを得ることは出来ないのです。他人の過ちを赦すことが出来ない者は隣人愛にも欠けているでしょうし、神の目からしてもそのような者は忌まわしきものです。他人からどんな仕打ちを受けても、やられたらやり返したり、復讐したりするような者は罪人です。「復讐してはならない」(レビ記十九章十八節参照)と律法に規定されている通りに、他人に復讐することは律法違犯だからです。「人を呪わば穴二つ」だと肝に銘じるべきです。何よりも、次の聖句にも通じます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章三節~五節 拙訳

なぜ、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には気づかないのか。どうして兄弟に、『あなたの目からちりを取り除かせてくれ』と言えるのか。見よ、あなたの目には梁があるではないか。偽善者よ。まず自分の目からその梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からちりを取り除くことができるだろう。

 

主イエスが教えられているように、自分の罪を棚に上げて、他者の罪を責めることは兄弟の目のちりは見えるが、自分の目の中にある梁に気づかない状態です。ですから、他人に罪を責める前に神の律法と主イエスの教えに照らして、自分の中にある律法違犯の罪を悔い改めていき、伝道活動して、神への愛と隣人愛を以て善行をすることに心がけるべきです。

 

 

皆さんは、キリスト者に必要な「寛容」について、正しく理解できたでしょうか。同性愛など他人の律法違犯の罪を容認することは間違った寛容ですが、他人の律法違犯の罪と過ちを赦す度量の広さと言う意味での「寛容」がキリスト者に必要なものです。我々は信仰前は律法に違犯した過去を持っていますし、人間は皆神からすれば罪人であることは変わらないです。ですから、他人からどんな仕打ちを受けようとも、慈愛を以て相手の罪と過ちを赦し、自分自身の律法違犯の罪を日々悔い改めていき、罪を犯すことを繰り返さない努力をして、神への愛と隣人愛を以て自主的な伝道活動と善行に励むことを心がけましょう。

 

皆さん、全人類の救いの恩恵期間が終了する大艱難の幕開けまで本当に残された時間は少ないです。これから先は主イエスが預言された通りに世界各地で戦争や災害などが多発していき、聖書を学ぶことは日増しに難しくなりつつあります。手遅れになる前に聖書の学びに一生懸命励んで、真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログ記事を最初から最新記事まで読み進めることを推奨します。

 

 

 

また、ミカエル氏が伝道活動の拠点をアメブロからサブスタックに移行されましたが、それこそ残された時間が少ないことの現れかと思います。御国の福音である真の聖書福音(パウロ教ではない)はいずれ全世界に広がると主イエスが予告されたため、ミカエル氏はその神の御心を行うために海外への発信も行うようになられたと思われます。ミカエル氏の教会入会を志す求道者の方は以下の「大事な告知」に従って、手順を踏んで行動されて下さい。

 

 

拙者はミカエルさんの管理する「神のイスラエル教会」参加に向けて活動中の未熟者ですが、この記事を読まれている読者の皆さんも宜しければ共にキリスト道を歩んでいこうではありませんか。

 

最後までご覧頂き有難うございました。