こんにちは。
今回は多数派が常に間違っていることは聖書と歴史が証明していることを解説していきます。
一、いつの時代も大衆は愚か
二、多数派に追随するのは律法違犯
三、救われる者は本当に少ない
一、いつの時代も大衆は愚か
皆さんは多数派と一緒になることに安心感を覚えたりしますよね。物事を決めるときは常に多数決を取り、多数を上回った方が可決されて、少数の意見が封殺されることは珍しくないですよね。それでも、多数派が正しいと錯覚してしまいがちですが、それは大きな間違いだと気づきましょう。
二千二十六年の衆議院選挙では自民党が単独で過半数の議席を超えて、衆議院では改憲発議の要件を満たしました。太陽暦の年明け早々に衆議院の解散を行った意図は、恐らく南朝鮮検察による統一教会本部の強制捜査で押収された内部文書から自民党議員二百九十人支援の事実を隠蔽するためと思われます。それに、そもそも大半の国民が平和ボケしていますので、今回は単なる「早苗の推し活選挙」だったと感じています。まさに「肉屋を応援する豚」という表現がピッタリです。実際に高市早苗が首相に就任してから、女性初とか言って絶大な支持率を誇っていました。彼女が首相に就任する前から安倍晋三の後継者と言われる高市早苗を首相にしたいと希望する似非保守も多かったですから、本当に愚かとしか言いようがありません。そもそも、似非保守は日本国憲法をGHQの押し付け憲法とか、占領憲法と言って忌み嫌っており、戦前の軍国主義を肯定する大日本帝国憲法を理想とする改憲派です。ここで、ミカエル氏のブログより引用します。
日本の最高法規である日本国憲法にも「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と十二条に書いてるやろ。「国民の不断の努力」が国民に憲法によって課されており、国民は憲法上保障されてる自由及び権利を保持する義務を負ってるとはっきり明記されてる。何故、戦後にこの規定が生まれたか。それは、明治維新から敗戦までの大日本帝国では人権も自由も制限されて社会の有様が酷く、その反省から生まれたんや。敗戦の翌年の千九百四十六年に日本国憲法を公布、千九百四十七年に施行して新たに日本国となり、外国との戦争をようけ招いて多くの死傷者を出した忌まわしい大日本帝国憲法(明治憲法)を破棄して旧体制から変わり、戦争を放棄し、国民が主権を持ち、基本的人権と自由を得た。しかし、戦後の現代日本人は、まったくこの憲法上の義務を果たしてへん。なぜなら、日本国民の多くが憲法を勉強せず、無知であり、それ故に憲法を擁護して守る義務を負う国会議員、裁判官、その他の公務員らが憲法を貶したり軽んじたりして違反を繰り返してるのを見ても放置し、また憲法違反をする企業や民間人にも猛抗議や然るべき対応もせず放置し、不法行為が満ちてる現状に何もせず黙認し続け、社会を悪化させ続けてる。そして、売国奴の政治家や官僚や大企業らにやりたい放題されて苦しめられてるのは、抵抗もせずに黙って放置する国民自身の責任と自覚してへんのがそもそもの問題や。せやから、不作為も憲法違反の不法行為であると覚え、恥じて、悔い改め、実際に行動せい。行動に移さへんのなら、改心したとは言えず、神は善人とは認めはらへんからや。自分たちの不信仰と当該不法行為故に、日本人の多くが苦しんでると自覚せい。実際、その認識が無い日本人ばかりやろ。せやから、現代日本人は勉強不足で、愚かで、役立たずで、頭と心が悪く、日本全体や国民全体のことを一切考えず、目先の仕事や学業等だけに気を取られたり、娯楽や快楽等に興じてる人が多過ぎると言うてるんや。やるべき事をしてから息抜きで遊べよ。憲法で国民主権が定められている以上、国民に責任があり、政治家や官僚等と他責にばかりしていてはならん。政治家や官僚等の公務員がその地位に相応しくないと思うなら、国民自身の手で引き摺り降ろし、代わりに相応しい人を擁立せねばならんのや。言うておくが、選挙なんかではないからな。不正の温床だらけの現行選挙なんかで解決せえへんのはこの数十年で理解せねば、愚かと言わざるを得ない。やるべき事もせず、国民及び人としての義務も果たさず、かような状態で呑気に遊んで現実逃避するな。ほんまに、拙者の言う事を聞かず、無視し、逆らい、その結果どうなるか分からんのは愚か者や。既にあんたらがグズグズして何もせず、売国政府を止めへん故に増税も物価高も止まらず、不良外国人の移民が増え広がり、改憲の危機は続き、放置し続けると問題は益々増えるばかり。日本がボロボロになったり、滅亡してから、「あぁ、こんなはずじゃなかった」、「なんでこんなことになったんだろう」等と後悔したり、嘆いても遅いからな。過去の歴史、聖書を読んで、自分らの先祖が何をしてきたかもよう学び、同じ過ちを繰り返すな。
ミカエル氏が解説された通り、大日本帝国憲法は英米の援助で明治維新の国家転覆を起こした薩長土肥の売国奴が作った明治政府の主導で作られた憲法であり、天皇主権の下で国民の自由と人権は「臣民の権利」として制限されて、納税の義務、教育の義務に加え、兵役の義務が成文化されており、日本国民は全員軍隊に徴兵されていました。そうして、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦(日独戦争)、シベリア出兵、山東出兵、満州事変、上海事変、支那事変、ノモンハン事件、大東亜戦争と言った明治から第二次世界大戦までの七十年余りも戦争続きで、多くの死傷者を出す結果になりました。しかも、それら一連の戦争は偽ユダヤ金融資本家のロスチャイルドが日本政府に戦費を貸し付けて、起こされたものです。戦争は銀行家と軍需産業のみが儲かる仕組みであり、政府の戦争指導者は高みの見物で、底辺の一般庶民は貧乏籤を引かされるだけで苦しむのみです。少なくとも近現代以降の戦争はそのような仕組みとなっています。戦時中でも、誰かが軍隊に召集されたら地元の住民は「○○、万歳」とか言って称賛していました。その当時の女性は夫や息子が戦争に行くことで、二度と会えなくなるのではと心配しながらも、戦地に行く彼らを見送る人が多かったのです。そして、戦死公報を受けて、陰で悲しむのです。国のために名誉の戦死を遂げたと言われても、大事な家族を失う悲しみは計り知れないです。確かに、日露戦争をきっかけに、白人の不敗の神話が崩れて、植民地支配されていた有色人種の間に独立の気運が高まり、大東亜戦争をきっかけにそれが爆発して、日本が白人の植民地支配に終止符を打った事実は否めないと思いますが、それでもどんな戦争であろうとも正義はないですし、殺人という律法違犯の罪に変わりありません。そのような歴史の過ちから、戦後に日本人の憲法学者たちが、二度と戦争をしないと誓った日本国憲法を起草したのです。GHQが監修した側面もありますが、それでも国民主権、基本的人権、平和主義は世界の他の憲法には見られないものです。こうした平和憲法が作られたのも主なる神の憐れみだと感じます。しかし、日本国民は主なる神の憐れみを無下にして、なかなか悔い改めないために、主なる神は古代イスラエル民族の末裔たる日本人に罰を下そうとされています。もし改憲された場合、日本人は「あの時に行動しておけばよかった」と後悔するかもしれませんが、その時になってからでは後の祭りです。衆議院選挙の期間中のツイッターの投稿は「#ママ戦争止めてくる」のハッシュタグが広がりつつあり、戦時中の過ちを繰り返さないために政治に関心を持つ人が増えつつあるのは事実ですが、その程度では生温いです。せめて、フランスの黄色のベスト運動並みの抗議運動を起こさない限り、事態は好転することはないです。尤も、参議院では自民党と維新の会は依然として少数与党であり、国民民主、参政、日本保守などを合わせても三分の二にはぎりぎり届きません。公明党が連立を解消して、野党側に転じたこともそうですが、高市早苗が首相でいる間はそうかもしれません。しかし、高市早苗が退陣した場合の後任によっては、連立与党に復帰するかもしれません。そうなれば、参議院でも改憲発議の要件を満たしてしまい、詰むことになります。国民投票で阻止しようなんて考えは甘いです。二千二十一年の国民投票法改悪で最低投票率が定められず、少ない投票者数でも賛成が上回ってしまえば、それで改憲されます。ただでさえ、選挙では不正が蔓延って、自浄作用が効かないために、そうしたやり方で改憲阻止するのは無意味です。国会で改憲発議される前に止めるしかないです。そうするには、千九百六十年の安保闘争並みの規模で国会を包囲する抗議運動が必要です。手遅れになる前に全力で改憲に反対しましょう。
二、多数派に追随するのは律法違犯
いつの時代も多数派が愚か者であることは歴史が証明していますが、何よりも聖書でも証明されているのです。ここで、聖句を引用します。
旧約聖書 出エジプト記二十三章二節 新共同訳
あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。
出エジプト記に記録されている通り、多数派に追従することは律法違犯であり、多数派は絶対的に間違っているということです。しかし、律法が天地創造の時代から存在していることを考えると、多数派は太古の昔から過ちを犯すものだと分かります。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。
もっとも、天地創造以来ずっと神の律法は存在しており、存在しなかった時代が無い。わざわざ書いてへんが、アダムとエバの時代から安息日の掟はあった。第七日の天地創造の記念として安息日を聖なる休日として制定されて以来ずっと存在してるからや。また、創世記から分かるとおり、アブラハムも神の掟を守ってたし、割礼のみを行ったのではない。また、イスラエル十二部族の内の一部族の祖であり、エジプトの宰相になったヨセフは、姦淫を犯すことが神に対する罪であるとして避けた(創世記三十九章九節参照)ことからも彼らは何が罪かを明確に知ってた。何故か。最初から神の律法や秩序があったからや。つまり、モーセ以前から神の律法や秩序があることの証明や。神と神の律法を憎んで廃止して放縦で居たくてたまらん反キリストのパウロ教信者どもは、モーセの時代から律法が出来たと嘘を言うが、まったく無知も甚だしい。モーセ以前の時代から罪はあり、それは神の法や秩序に反することである。それは口頭で代々伝えられ、正しい人間の間では守られ、モーセの時に成文化しただけのことや。神と共に歩んで死を経験せんかったエノクや大洪水の中生き延びるように選ばれたノアも同じで、彼らは神の掟を守り、神の掟を守らへん多数派の人間は全員滅んだ。このように、神の律法、掟、戒めを守らへん者どもが滅ぼされてきたのが歴史的事実や。この永遠の律法が廃止されたと一世紀を生きたファリサイ派の偽使徒パウロとその仲間らが急に言い出し、それ以後、後世の自称キリスト者であるパウロ教信者どもが偉そうにモーセの律法は全部廃止されてるという大嘘を吹聴し続け、世の諸教会全員がその考えになって主流派にさえなったが、完全に間違いであり、忌まわしいことこの上ない。故に、聖書と主イエスの教えに反して律法の有効性の議論が起こること自体がおかしなことで、大勢の悪魔の子らが神と神が制定しはった律法を憎んでるから、しつこく反抗し、神の法と秩序に対して異議を唱え続けるんや。せやから、ファリサイ派のパウロがキリストの使徒と自称し、キリストの名を悪用してファリサイ派らしい悪魔的な偽教義が世界中で広まり、大勢の罪深い人間どもによって承認されようとも、そないなものを神は真理とは認めへんし、神の民も認めへん。なぜなら、律法遵守を救いの最低条件とするキリストの教義が変更になったという事実は無いし、神も真のキリスト者もその認識で居るため、神の民は当たり前のように神の律法を擁護して守るからや。この世の権力者や大衆がこれを認めなくても、この真実が存在せえへんことにはならへん。なんぼ拒否しようが、逃げて見なかったことにしても、聞かんかったことにしても、すべて現実逃避に過ぎず、無駄な抵抗やということを覚えとき。
天地創造の時代から律法は存在しており、義人たちの間で代々口承されて、彼らの間では守られて、モーセの出エジプトの時代になってようやく成文化されたものです。ノアの時代の大洪水然り、アブラハムの時代のソドムとゴモラの滅亡然り、多数派は悪であり、義人たちが如何に少ないかが分かります。ですから、律法はモーセの出エジプトの時代になって作られたとか、律法を「モーセの律法」と一括りにする呼び方も間違っているのです。また、イスラエル民族はモーセの出エジプトの時から頑なであり、主なる神に逆らって、律法違犯の罪を犯しては滅ぼされることを繰り返してきました。かの悪名高い金の子牛崇拝事件について、聖句を引用します。
旧約聖書 出エジプト記 三十二章 新共同訳
モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、モーセは言った。
「これは勝利の叫び声でも
敗戦の叫び声でもない。
わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」
宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」
モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」
翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。」モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。
モーセがシナイ山に籠って主なる神から十戒をはじめとする神の律法と掟と戒めの教えを授かっている間に、イスラエル民族はモーセがなかなかシナイ山から下りて来ないから、「我々をエジプトから導き出してくれたモーセは死んだんじゃないか」と不信感を抱くようになり、自分たちでエジプトから導き出してくれた主なる神の像を作って拝もうと思うようになり、アロンに頼んで、金の子牛の像を造らせ、それをエジプトから導き出してくれた主なる神だと偶像崇拝しました。そのため、主なる神はイスラエル民族を「頑なな民」だと断言して、怒りを燃やしました。主なる神は出エジプトの時代からイスラエル民族は頑なな民族だと見越していたように思います。金の子牛を拝む彼らにモーセは憤り、金の子牛の像を破壊して、レビの子に金の子牛を拝んだ人々を殺すように命じました。その結果、金の子牛を拝んだ三千人の人々は滅ぼされました。三千人という数も多い方ですし、如何にイスラエル民族の多数派を形成して、偶像崇拝をして滅びたかが窺えます。主なる神は律法違犯の罪を犯した者を命の書から名前を消し去ると宣言されており、キリスト再臨後の最後の審判の日にその罪の故に地獄行きの裁きを下すことを宣言しています。これは他の聖句にも繋がります。
新約聖書 ヨハネの黙示録 二十二章十九節(ミカエル氏訳)
また、もし誰かがこの預言の書の言葉から取り除くなら、神は命の書から、聖なる都から、この書に書き留められてることからその者の分を取り除くであろう。
ヨハネの黙示録二十二章十九節の部分からも、主なる神は命の書から名前を取り除くと公言しておられることから、命の書に名前が記されている人でも場合によっては除名される可能性もあるのです。新共同訳では「この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」と恰もほんの少しだけで済むような内容になっていますが、実際は違います。ここで、ミカエル氏のブログより引用します。
また、黙示録に改ざんを見つけたさかい、教えたる。以下の箇所や。
新約聖書 ヨハネの黙示録 二十二章十四節(拙訳)
主の掟を行う者は幸いや。その者たちの権限は、命の木についてと都に入る複数の門であろう。
上記聖句を見て分かるとおり、神の掟を守ることの重要性が黙示録十二章十七節と十四章十二節に続いて黙示録内だけで三回も繰り返し述べられており、またそれを「主の掟を実行する」が命の木に触れたりその実を食べたりする権限が与えられ、新しいエルサレムの都に至る複数の門を通ることも許されるのである。わざわざこう書いてるんは、神の掟を守らへん人はそれらをすることが許されへんと言うことを意味する。受け入れられた原典(TR底本)では上記のとおりやが、改訂版(RV底本)では「自分の衣を洗い清める者は幸い」などと訳分からん内容に改ざんされてる。「掟」という単語を欠落させてるため、検索しても引っ掛かることもない。ほんまに酷い改ざんやで。底本改ざん者は、主なる神を畏れず、神の律法、掟、戒めを憎んでたことは明らかや。そうでないとその部分を改ざんしたりせえへん筈やさかい。こないなことをすれば、黙示録二十二章十九節にあるとおり、地獄行きになるのにね。ついでに言うと、世界に広く普及してる改訂版の底本において、黙示録二十二章十九節にも改ざんがある。
新約聖書 ヨハネの黙示録 二十二章十九節(拙訳)
また、もし誰かがこの預言の書の言葉から取り除くなら、神は命の書から、聖なる都から、この書に書き留められてることからその者の分を取り除くであろう。
改訂版では「命の木」と変えており、「命の書」への言及を避けたのが分かる。命の書はとても重要で、神しか見ることが許されず、そこに名があれば永遠の命を受けるが、書かれてへん人は永遠の破滅に至る。受け入れられた原典(TR底本)では、はっきりと命の書からその者の分、即ち、その者の名を取り除くという趣旨の文言があり、偽りの底本ではそれを変えて、あたかも地獄行きにならず、ちょっと命の木の取り分が減る位で済むかのように改ざんをしてるが、実際は黙示録を改ざん、または本来の意味とは異なる酷い誤解釈を広めて人々を惑わせば、命の書から除名され、地獄行きになるということです。改訂版(RV底本)を編纂した独逸人の聖書学者どもは最初から不信仰で地獄行きやからと諦めてそないな改ざん行為をしたのかもしれへんけどね。主なる神を信仰し、畏れてるなら絶対にやらへん行為やさかい。その改ざんされた改訂版を底本にして翻訳し、普及させ、売りつけてる人、その間違うた言葉が正しいと主張してる人たちも同罪や。ほんまに聖書編纂や翻訳に関わる人、偽福音を支持して広めてる人らは悪い奴らばかり。拙者のように底本の指摘や誤訳等について述べてる人は他に居らんからね。せいぜいほんの一握りの人たちが、欽定訳聖書(KJV)が正しいとか言うてる人が居る程度で、それも間違いであると拙者は過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」等で述べた。欽定訳聖書(KJV)も一部改ざんや誤訳があるし、その成立の歴史的経緯に問題があったさかい。
ミカエル氏が解説されたように、改訂版の底本から訳された市販の聖書では「命の木」と変えており、「命の書」への言及を避けています。命の書は神しか見ることが許されないものであり、中身は我々人間には知ることのできないもので、且つ神の救いにおける重要なものです。確かに主なる神は天地創造の時代から救いの対象を予め決めておられますが、それでもあくまで予定であり、変更もあり得ることです。そのため、命の書からの除名だって、あってもおかしくないのです。黙示録二十二章十九節の内容は、黙示録を本来の意味とは異なる酷い誤解釈を広めて、人々を惑わした者は命の書から除名されて、地獄行きになるという意味ですが、黙示録二十二章十九節の記述以外にも、神に逆らって堕落した場合には命の書から除名されるものでもあるのです。主なる神がイスラエル王国の初代王にサウルを選んだが、サウルが神に逆らって堕落したために、見限って王位から退けて滅ぼされたように。モーセの死後にヨシュアに率いられてカナンを征服した後、ヨシュアは自身が死ぬ前にイスラエル民族がこれから先も堕落することを予見していたことが以下の聖句から分かります。
旧約聖書 ヨシュア記二十四章一節~二十八節 新共同訳
ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。
「イスラエルの神、主はこう言われた。
『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向こうから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた。彼にイサクを与え、イサクにはヤコブとエサウを与えた。エサウにはセイルの山地を与えたので、彼はそれを得たが、ヤコブとその子たちはエジプトに下って行った。
わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災いをくだしたが、それはわたしが彼らの中にくだしたことである。その後、わたしはあなたたちを導き出した。わたしがあなたたちの先祖をエジプトから導き出し、彼らが葦の海に着くころ、エジプト軍は戦車と騎兵を差し向け、後を追って来た。彼らが主に助けを求めて叫ぶと、主はエジプト軍との間を暗闇で隔て、海を彼らに襲いかからせて彼らを覆われた。わたしがエジプトに対して行ったことは、あなたたちがその目で見たとおりである。その後、長い間荒れ野に住んでいたあなたたちを、わたしは、ヨルダン川の向こう側の住民アモリ人の国に導き入れた。彼らは戦ったが、わたしが彼らをあなたたちの手に渡し、あなたたちのために彼らを滅ぼしたので、あなたたちは彼らの国を得た。
その後、モアブの王、ツィポルの子バラクが立ち上がりイスラエルに戦いを挑んだ。彼は使いを送って、ベオルの子バラムを呼び寄せ、あなたたちに呪いをかけようとしたが、わたしがバラムに聞こうとしなかったので、彼はあなたたちを祝福することとなった。わたしはこうして、あなたたちを彼の手から救い出した。
あなたたちがヨルダン川を渡り、エリコに達したとき、エリコの人々をはじめ、アモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたたちに戦いを挑んだが、わたしは彼らをあなたたちの手に渡した。わたしは、恐怖をあなたたちに先立たせ、剣にもよらず、弓にもよらず、彼らと二人のアモリ人の王をあなたたちのために追い払った。わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている。』
あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
民は答えた。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
ヨシュアはしかし、民に言った。
「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、ヨシュアは民に言った。
「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」
彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
民はヨシュアに答えた。
「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」
その日、ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法とを定めた。ヨシュアは、これらの言葉を神の教えの書に記し、次いで、大きな石を取り、主の聖所にあるテレビンの木のもとに立て、民全員に告げた。
「見よ、この石がわたしたちに対して証拠となる。この石は、わたしたちに語られた主の仰せをことごとく聞いているからである。この石は、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる。」
ヨシュアはこうして、民をそれぞれの嗣業の土地に送り出した。
ヨシュアは出エジプトの時から主なる神とモーセに従っており、コラとダタンとアビラム達の反逆(民数記十六章参照)に代表されるように、イスラエル民族が頑なで主なる神とモーセに逆らっては滅ぼされたことを繰り返したのを見てきて、モーセの死後に自身がイスラエル民族を率いてカナンを征服したときも、アカンの罪(ヨシュア記七章参照)に代表されるようにイスラエル民族の頑なさを身を以て痛感したからか、自分が死んだ後はまた堕落するだろうと見越していたと思われます。しかし、当時のイスラエル民族は「主を礼拝します」と口先だけで言い続けました。当時のイスラエル民族はこの時はまさか自分達の子孫が堕落すると思わなかったかもしれませんが、ヨシュアのカナン征服事業を経験したイスラエル民族が生きている間は主なる神に従っていましたが、彼らの子孫の代になると大多数の人々は異教の神々への偶像崇拝で堕落を繰り返してしまいました。このように、ヨシュア死後のイスラエル民族は主なる神とモーセ、ヨシュアと交わした約束を反故にして、主なる神への信仰から離れて、偶像崇拝の報いで異邦人に支配されて、主なる神に立ち返って時が経っては偶像崇拝で神の怒りを買って、滅ぼされることを繰り返してきたのです。シケムの契約の場面におけるイスラエル民族の返答は、以下の聖句にも通じているように思います。
新約聖書 マタイによる福音書二十六章三十一節~三十五節 新共同訳
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
主イエスに躓くと十二使徒達に予告された時、筆頭格のペトロが「決して躓かない」と自信を張って言いましたが、主イエスに鶏が鳴く前に三度否認することを予告されました。しかし、それでもペトロと十二使徒達は主イエスを否定しないと誓いましたが、結局主イエスが捕らえられた後に我が身可愛さに十二使徒は逃げてしまい、ペトロは鶏が鳴く前に三度主イエスを否認してしまいました。自戒を込めますが、このように、口先では神を信じると言っても、行いは嘘をつかないものですし、口先だけで神を信じると言っても、信仰を行いで示せなかったら無意味なものなのです。
新約聖書 ヤコブの手紙二章十四節~二十六節 新共同訳
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
主の弟ヤコブが書かれたように、自分は信仰があると言っても、行いが伴わなければその者の信仰は無かったようなものです。キリスト教を名を騙るパウロ教信者もモーセの律法は主イエスの十字架の贖いで廃止されたと考えて、律法を無視するだけでなく、偽使徒パウロが唱えた信仰に行いを不要とする偽福音を信奉して、生温い信仰に甘んじているように思います。カトリック教徒は世界で最大の信者を抱えていますが、彼らは律法廃止論と信仰義認説という偽使徒パウロの教えを絶対視するばかりか、ただの人間に過ぎない聖母マリアや聖人などの偶像を作って拝んだり、ハロウィンやクリスマスなどの聖書に記録されていない習慣を祝う有様で、彼らをキリスト者と呼ぶのは間違っています。正教会やプロテスタントなどもカトリックから分離しただけに過ぎない、偽教会ですので彼らも同じ穴の狢です。このように、聖書の教えを信仰においてもパウロ教という多数派が存在して、彼らは主イエスが教えられた広い門を通って、滅びの道に向かいつつあるのです。
後編に続く

