前回の続き
三、主イエスこそが唯一の師
前回までの説明で、この世で持て囃される学歴は如何に無意味であるか、皆さんはご理解頂けたかと思います。また、学校教育における教職員に限らず、習い事の師範、医者、弁護士、国会議員のことを「先生」と呼ぶ人が日本では多いように感じますが、言葉の使い方を間違えているように感じます。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 マタイによる福音書二十三章一節~十二節 拙訳
そこで、イエスは群衆と弟子達に語りかけ、こう言われた。「律法学者とファリサイ派の人々はモーセの座に座っている。だから、彼らが汝らに「守れ」と言うことは、全て守り、行いなさい。しかし、彼らの行いには従ってはならない。彼らは言うだけで、行わないからである。彼らは、重く背負いにくい荷を結び、人々の肩に背負わせるが、自分たちは指一本動かそうともしない。彼らは人に見られるために、あらゆる行いをしている。彼らは祈りの箱を広くし、衣の房を長くし、また、宴会では上座を好み、会堂では上座に座り、広場で挨拶を交わし、人々に「ラビ、先生」と呼ばれることを好む。しかし、汝らは『先生』と呼ばれてはならない。汝らの師はただ一人、即ちキリストであり、汝らは皆、兄弟だからである。また、地上の誰をも『父』と呼んではならない。汝らの父は、天に居られるお方ただ一人だからである。「教師」と呼ばれてもならない。汝らの教師はただ一人、キリストだけだからである。汝らの中で一番偉い者は、汝らの僕となりなさい。誰でも自分を高めようとする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。
主イエスが教えられたように、本当の「先生」や「教師」とはキリストである主イエスのみであり、我々人間は「先生」や「教師」と呼ばれてはならないのです。当時のユダヤ社会で律法を教える立場にあった律法学者やファリサイ派の祭司達は律法遵守を人々に呼びかけていながら、自分達は聖書通りに律法を遵守しませんでした。また、必要以上に細則を設けて人を縛るだけで、自分達は律法を遵守したと自己満足に陥っていたのです。こういうのを律法主義と言います。ここで、ミカエル氏のブログ記事より引用します。
神の掟は守らなければならないのは当たり前なのですが、何故守らないといけないと思っていますか、救われるためですか。そうだとすれば、それも偽善です。律法主義に陥っています。義務感から神の掟や戒めを守っているのは、まさに律法主義者なのです。心から神を愛していないのです。私が言いたいのは、神を愛すれば、自然に掟も守るようになるのです。
神の律法と掟と戒めを守る動機が救いが欲しいからと言うのは単なる利益信仰にしか過ぎません。ファリサイ派と律法学者達は律法を教える立場にある教師だと思い込んで、見栄を張って、律法を守ったつもりになっていたのかもしれません。しかし、彼らの動機は人々に律法を教える教師の立場を示したいと言う不純なものですから、心から父なる神を愛していないのが分かります。だからこそ、主イエスは彼らの律法遵守の指示を守って行うようには言いますが、彼らの行いそのものに従ってはならないと教えています。現代のユダヤ教徒は律法を遵守していると言いますが、一世紀にファリサイ派が作った細則を愚直に守って、古い契約の律法の守り方に固執していますし、安息日の遵守ですらも一切の電気器具の使用や医療行為も禁止しており、何よりも主イエスを救い主と認めていないことに問題があります。ここで、ミカエル氏のブログ記事より引用します。
自称ユダヤ教正統派等のように、安息日にいかなる電気器具も使たらあかん、医療行為も禁止等、人間が勝手に設けた細則に拘束される必要はまったくない。それこそ、コンピュータや携帯も一切使うなと言ったりするのはファリサイ派の人(ユダヤ教徒)になりかねません。彼らのように、人の行動を著しく制限することは単なる自虐行為であり、安息日を聖別してることにはならへん。これは、主イエスが安息日に病人を癒したことを非難したファリサイ派や律法学者が、主イエスから非難されたとおりや。「安息日に善いことをするのは適法や。」(マタイ十二章十二節拙訳)と主イエスは言わはった。人助け、礼拝、福音を宣べ伝える(ただし、故意、過失問わず嘘の伝道は悪)、聖書を読む、聖書について兄弟間で研究する、聖書を読んでも分からへんなら調べる等することはええことや。
偽イスラエルに居住する者も含むユダヤ教徒の律法の守り方は単なる自虐行為でしかなく、利益信仰にしかならない律法主義に陥っているのが分かります。律法廃止論を信奉するカトリック、プロテスタントなどパウロ教は勿論ですが、現代のユダヤ教徒も律法遵守を説いていながら、ファリサイ派から続く伝統を固守しており、同様にファリサイ派であることが分かります。また、自分達は「先生」と呼ばれてはならないと教えており、十二使徒だろうと、教会の監督者だろうと主イエス以外を「先生」と呼ぶことは憚られるべきものです。キリスト者にとって、師は主イエスただ一人であり、他の信仰者は皆兄弟姉妹だからです。「父」と呼ばれるべき者も父なる神ただ一人です。他の誰をも「父」と呼んではならないのです。にも関わらず、偽使徒パウロは自らを父と自称して、自分への追従を呼びかけています(コリントの信徒への手紙一 四章十五節~十六節参照)。ここで、ミカエル氏のブログ記事より引用します。
四、父について
正 主イエスの主張
マタイ二十三章九節(拙訳)
また、地上で誰もあんた方の『父』と呼んだらあかん。天に御座すあんた方の父はお一人やさかい。
誤 パウロの主張
コリント一 四章十五節~十六節(拙訳)
キリストにあってあんた方は数え切れへん指導者を持っても、多くの父を持ってへん。キリスト・イエスにあって、福音のために、我はあんた方の父になったからや。それ故、あんた方に勧める。我が追従者になれ。
拙者も「天の父なる神」と言うてるとおり、これは主イエスの教えに合致する。しかし、偽使徒パウロは、勝手に自分自身が父なる存在になったと豪語し、パウロの追従者になれと命令してるよ。原語では命令形やからね。吐き気がする程きしょい。傲岸不遜とはこのこと。ファリサイ派の分際で、なんで人々の父になれるのかね。なんでそのファリサイ派の偽使徒に追従せなあかんのや。完全におかしいやろ。また、拙者が過去記事で再三警告してきたローマ教皇は英語でPopeと言われ、これは父を意味する言葉。まさしく拙者が冒頭でも書いたとおり、ローマ教皇はパウロの座である。ローマ・カトリックは偽使徒パウロを教祖としてるカルト宗教であり、正教会やプロテスタントどもらもそれと同類。そこから離れへん限り、救いは有り得へん。黙示録十八章四節にもそこから離れよとあるやろ。神の民ならそうするが、頑なにパウロ教を信奉したり、世の諸教会や諸教派に属してるようなら滅びは不可避や。
ミカエル氏が解説したように、偽使徒パウロは勝手に父なる存在になったと豪語して、パウロの追従者になるように呼びかけています。原語では命令形だと思うと、如何にパウロが高慢であり、主なる神に忌み嫌われているかが分かります。カトリック、プロテスタントなど地上の諸教会の信者達は主イエスを信じているつもりになっているかもしれませんが、実際は主イエスと十二使徒の教えを無視して、パウロ書簡の教えを金科玉条に掲げていることから、パウロの追従者になっているのが分かります。ローマ教皇は英語で「父」を意味する「Pope」と呼ばれており、ローマ教皇は父なる存在として崇められているのが分かります。歴代のローマ教皇は使徒ペトロの後継者を自称していますが、神の律法を基盤に主イエスの教えを守るように呼びかけた使徒の筆頭格のペトロがカトリックの創始者である筈がありません。寧ろ偽使徒パウロの後継者と看做すべきです。昨今ではローマ教皇レオ十四世が傍若無人な振る舞いをする米国大統領トランプを批判して、対立しているように見えていますが、実際はグルです。なぜなら、ローマ教皇は六百六十六の獣であり、米国は第二の獣であり、両者は癒着しているからです。ここで、ミカエル氏のブログ記事より引用します。
二千十五年九月二十四日にローマ教皇が米国を訪問して、驚くべきことに、政治の中心である米国議会内で演説をしたのです。過去の歴史から学んで作られた政教分離の原則はどこに行ったのでしょうか。過去にもローマ教皇が米国を訪問したことはありますが、議会内に入って演説までするのは初でした。参考までにこちら(Bloomburg)。その時の演説内容はこちら。(USCCB)日本語はないので分からないならば、翻訳してもらえれば大体は分かると思います。
二千十五年に当時のローマ教皇のフランシスコが訪米して、米国の政治の中心である米国議会で演説していたことからも、米国とバチカンはとても深いのが分かります。他にも、二千五年のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の葬儀には当時の現職の米国大統領のジョージ・W・ブッシュだけでなく、前任のクリントン、前々任のジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も出席しており、如何に米国とバチカンの関係が他国との関係よりも深いのかが分かります。現在のトランプとレオ十四世の対立も米国とバチカンの対立そのものではなく、実際はトランプを引き立て役にローマ教皇の世界支配に繋げるための茶番であり、こちらのように現在進行で米国国内でカトリックへの改宗者が続出しています。これこそ、由々しき事態だと思うべきです。こちらのようにイタリアの首相メローニがイラン戦争における米国と偽イスラエルの戦争犯罪に抗議して、偽イスラエルとの防衛協定を破棄しましたが、同時にローマ教皇への連帯を表明しています。彼女を正義の味方と考える人もいますが、ローマ教皇への連帯を表明していることからも支配層側であることが分かります。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ヨハネの黙示録十八章四節~五節 拙訳
また、天から別の声が聞こえてきた。「我が民よ、彼女から離れ去れ。そうすれば、彼女の罪に加担することもなく、彼女の災いを受けることもない。彼女の罪は天にまで達し、神は彼女の不義を覚えておられるからである。」
主イエスの警告通りに、神の律法を無視して神に反逆する地上の諸教会の母であるカトリックの罪は天にまで達しており、神はカトリックの罪を覚えておられます。カトリックなど地上の諸教会に通う方々は良心に焼き印を押されて回心不能になる前に、カトリックから離れて、自ら聖書を通読して、神の律法を基盤に主イエスの教えを守ることを推奨します。そうすれば、カトリックの罪に加担しなくて済みますし、神の怒りを受けて滅ぼされることもありません。但し、例え真のキリスト者の集いである真の教会に籍を置こうと、真の聖書福音を知ろうと、それだけでは救いが保証される訳ではないことに留意するべきです。ここで、ミカエル氏のブログ記事より引用します。
拙者は教会の監督者として、教会員一人一人に気を配ってるし、叱責も鼓舞もしてる。そこが大きく異なる。教会員の中では働きが少なくてだらけてる人も居り、拙者も悩みは尽きひん。言うておくが、教会に籍を置くだけで救われるんとちゃうからな。勘違いすなや。何処に所属してても、所属するだけで救いが保証されるのではない。各自の歩み次第、努力次第であることは忘れんでもらいたい。受験でも同じやろ。予備校や塾に通ったり、講座を多く受講して大金をつぎ込んだり、参考書代に費やしたとしても志望校に確実に合格する訳ちゃうやろ。結局は、自学自習が物を言うんです。それと一緒。信仰は、受験とは異なり、一人ぼっちでやり切ることは絶対に不可。それも過去に言うてきたとおりやが、主イエスの新しい掟を守ることがでけへんし、この悪い世の中で、一人っきりでは心が折れて最期まで歩み通せへんからね。
ミカエル氏が仰った受験の例えの通りに、何処に所属しようとも、必ずしも確実に救われる訳ではないのです。各自の努力と歩みによる自学自習が物を言うのです。自戒を込めますが、それと同じように、聖書とミカエル氏のブログを読むだけの傍観者でいたり、ミカエル氏の教会に所属だけさえすれば、神の救いが必ず保証される訳でもないのです。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 マタイによる福音書二十五章十四節~三十節 拙訳
「天の御国は、ある人が異国へ旅立つ際、僕たちを呼び集めて、自分の財産を彼らに託したようなものである。ある者には五タラントン、ある者には二タラントン、またある者には一タラントンを、それぞれの能力に応じて与え、すぐに家を出て行った。五タラントンを受け取った者は、それを使って商売をし、さらに五タラントンを儲けた。同様に、二タラントンを受け取った者も、さらに二タラントンを儲けた。しかし、一タラントンを受け取った者は、行ってそれを地中に埋め、主人の金を隠しておいた。長い時が経って、その僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラントンを受け取った者が来て、さらに五タラントンを携えて来て言った。「ご主人様、あなたは我に五タラントンをお与えになりました。ご覧ください、我はそれを使ってさらに五タラントンを儲けました。」すると、主人は彼に言った。「よくやった、良い忠実な僕よ。お前はわずかなことに忠実であった。だから、我はお前を多くのものの管理者にしよう。主人の喜びにあずかれ。」 また、二タラントンを受け取った者も来て言った。「ご主人様、あなたは我に二タラントンを預けられました。ご覧ください、我はさらに二タラントンを儲けました。」すると、主人は彼に言った。「よくやった、良い忠実な僕よ。お前はわずかなことに忠実であった。だから、多くのことを任せるつもりだ。主人の喜びにあずかれ。」すると、一タラントンを受け取った者が来て言った。「ご主人様、あなたは厳しい方だと知っていました。種を蒔かなかったところで刈り取り、藁を撒かなかったところで集める方ですから。そこで我は恐れて、あなたのタラントンを地中に隠しておきました。さあ、ご自分のものをお受け取りください。」 すると、主人は答えて言った。「お前は悪い僕だ。怠け者め。我が蒔かなかった所で刈り取り、藁を撒かなかった所で集めることを知っていたはずだ。それならば、我が金を両替商に預けておくべきだった。そうすれば、我が戻った時、元手以上の利益を得ることができたはずだ。だから、この者からそのタラントンを取り上げ、十タラントン持っている者に与えよ。誰でも持っている者には更に与えられて豊かになるが、持たない者からは、持っているものまでも取り上げられるからだ。だから、この役に立たない僕を外の暗闇に放り出せ。そこでは泣き喚いて歯軋りするだろう。」
主イエスのタラントンの例えにあるように、キリスト者は洗礼を通して主イエスを仲介者とする新しい契約を結ぶことで、聖霊を与えられます。しかし、勘違いするべきではないことは、それで救いが絶対的に保証される訳ではないことです。新しい契約が成立した後も、律法違犯の罪を犯し続けるのは勿論ですが、神の御心である福音伝道などの働きをしない者は神から役立たずと看做されて、聖霊を取り上げられて、最後には神によって外の暗闇(地獄)に放り出されて、滅ぼされるのです。これは、他の聖句にも同じことが書かれています。
新約聖書 ペトロの手紙二 二章二十節~二十一節 拙訳
もし彼らが、主であり救い主であるイエス・キリストを信じることで、この世の汚れから逃れたにも関わらず、再びそれに巻き込まれ、打ち負かされてしまうなら、彼らの末路は初めよりも更に悲惨なものとなります。なぜなら、義の道を知った後で、彼らに与えられた聖なる掟から背を向けるよりは、最初から義の道を認めなかった方が、彼らにとってはましだったからです。
使徒ペトロが書き残したように、主イエスを仲介者として新しい契約を結んで、キリスト者として信仰の道を歩み始めたとしても、律法違犯の罪を犯し続けたり、神の御心を行うことを怠ったりして、再び信仰前の罪に塗れた放縦な生活に後戻りして、世の友となってしまうならば、その者は新しい契約を結ぶ前より遥かに品性が悪くなります。義の道であるキリスト道を歩んでいながら、神の律法と掟と戒めと主イエスの教えを守る生活から再び世俗の汚れた生活に後戻りしたならば、キリスト道を知らなかった方が彼らにとって良かったとも言っています。なぜならば、不退転の決意を以て洗礼して、新しい契約を結んで義の道であるキリスト道を歩んでいながら、途中で翻意して信仰から脱落することになるならば、裏切り者として神により厳しく罰せられるからです。これは、他の聖句にも同じことが書かれています。
新約聖書 ヘブライ人への手紙六章四節~八節 拙訳
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊に与り、また神の素晴らしい御言葉と来たるべき世の力とを味わった者たちが、もし背き去ったならば、悔い改めによって再び立ち返らせることはできません。なぜなら、彼らは自分たちの手で神の御子を再び十字架につけ、侮辱しているからです。度々降る雨を吸い込み、それを耕す者たちのために適した草を生じさせる地は、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生じさせる地は、非難され、やがて呪われて、終いには焼かれることになります。
新約聖書 ヘブライ人への手紙十章二十六節~二十九節 拙訳
もし、我らがその真理の知識を受け入れた後に、故意に罪を犯すならば、もはや罪のためのいけにえは残されていません。ただ、恐るべき裁きと敵を焼き尽くす激しい火とを待ち望むだけです。モーセの律法を軽んじる者は、二、三人の証人の下で、容赦なく死刑に処されます。それならば、神の御子を踏みつけ、自らを聖別した契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、どれほど厳しい刑罰に値すると思いますか。
ヘブライ人の手紙の著者が書き残したように、一度主イエスを仲介者として新しい契約を結んで、聖霊の御業に与っていながら、その後に翻意して、故意に律法違犯の罪を犯し続けて堕落した者は悔い改めることは出来なくなるのです。なぜならば、神の子である主イエスを改めて十字架にかけて侮辱する行いであり、聖霊に対する冒涜と言う赦されない罪(マタイ十二章三十一節参照)を犯すことにもなるからです。そうして、その者はキリスト者として役に立たなくなり、悪霊を送られて呪われて、品性は悪化していき、最終的には主なる神によって永遠の地獄に送られて滅ぼされるのです。このように、一度信仰に入って、新しい契約を結べば、救いが保証される訳ではなく、各自の信仰の過程での成長次第だと言うことです。信仰に入ったら、救いを失うことはないと言う考えは神に予め救いの対象に選ばれた人にだけ適用される結果論的な見方なのです。ここで、聖句を提示します。
新約聖書 ペトロの手紙一 二章一節~八節 拙訳
それゆえ、あらゆる悪意、偽り、偽善、ねたみ、そして悪口を捨て去り、生まれたばかりの赤ん坊が純粋な乳を慕うように、あなた方も御言葉の純粋な乳を慕い求め、それによって成長するようにしなさい。あなた方は、主が恵み深い方であることを味わったからです。あなた方は、人々からは拒まれたが、神に選ばれた尊い生きた石であるキリストのもとに来るのです。また、あなた方も生きた石として、霊的な家となり、聖なる祭司となり、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊的な生贄を献げなさい。
それゆえ、聖書にもこう記されています。「見よ、我はシオンに、選ばれた尊い隅の親石を据える。これを信じる者は、決して恥をかくことはない。」それゆえ、信じるあなた方にとっては、この石は尊いものですが、不従順な者たちにとっては、建築者たちが捨てたその石こそが、隅の親石となり、躓きの石、躓きの岩となっています。即ち、不従順な故に御言葉に躓きますが、彼らはそうなるように定められていたのです。
使徒ペトロが書き残したように、信仰に招かれても、聖書福音に疑いを抱くなどで聖書の御言葉に不従順になる故に信仰から脱落する人がいますが、彼らは最初から神に選ばれてない故にそうなるよう定められているのです。主イエスの御言葉の「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイによる福音書二十二章十四節)とある通り、表面的には信仰に招かれる人は多くても、神の救いに選ばれる人は少ないのです。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。
にわかキリスト者が勘違いしてるんは、自分らが「選ばれた」と勘違いしてる点で、「招かれた」けど、相応しくない(マタイ二十二章八節参照)が故に、後で追い出されることに全然気付いてへん。
また、主イエスは、狭い入口を通って入ろうとしても、それがでけへん人が多いとも明言しはった。なんぼ人間側が頑張っても無理なもんは無理ということ。即ち、これは神による選びを示しており、神に選ばれへん人はなんぼ真のキリスト者になろうと頑張っても無理なんや。神が選ばへん人間には惑わしの霊を送り、神御自身が人間の心を見透かし、邪な思いを持つ人間や行いが悪い人間を拒絶する。過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で示したとおり、予定説がこれを裏付ける。そらそうやろ。神が選ぶ側であることを認めず、人間が望みさえすれば永遠の命を得て天の国に入れるっていう自由意志説の考え方は、神の主権を無視して人間各自の主観と独断で無理に押し入ろうとする考え方でしかなく、非常に傲慢で、神への不敬でしかあらへん。そないな人は無理やり押し入って欲しい永遠の命を奪い取ろうと狙う強盗や。主イエスもそう言わはった(ヨハネ十章一節参照)。神の律法を無視して違犯し続けて悔い改めを拒絶することで、主イエスの教えに逆らいながらも「永遠の命をよこせ」と言わんばかりに救いを要求するにわかキリスト者どもは強盗や。もし、あんたの家に見ず知らずの人がやって来て、「あんたの家に入りたいから入れてください」って突然言われたとして、あんたは「はい、どうぞ」ってすぐに招き入れるやろか。せえへんやろ。何処の人か知らんし、何するか分からん等と不安で拒絶するであろう。それと一緒。会社の面接でも、面接担当者が応募者を吟味するのであり(応募者が面接者を試して会社を知る場でもあるが)、応募者が応募したんやから絶対に採用しろと命令したり要求することはでけへんやろ。それと一緒。人間がなんぼ頑張っても神が選ばへんのなら、絶対に無理なんや。自由意志ではどうにもならんとはこのこと。こない単純な道理も分からん愚か者が多過ぎる。人間の自由意志でどうにでもなる、主イエスを信じてれば絶対に天国に行けると教える奴らは偽教師や。神の御計画と御意志を無視し、聖書にある内容を守らず、神の律法も守らへん人なんか神の王国に入れる訳がない。偽使徒パウロの甘言に騙されるべきではない。
主に予定説を唱えるカルヴァン派プロテスタントを信仰するにわかキリスト者に当てはまることですが、彼らは聖書の予定説を唱えてはいるものの、中身が「その人が神の救済に与れるかどうかは予め決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとしており、神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、神は無条件に救いの対象を選ばれる神の一方的な恩寵である」とする「無条件救い」を唱えており、「救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済に与れた者は、罪を犯しても必ず神に立ち返る」と唱えて、神からの絶対的な選びを強調する余り、行いによる信仰の義を否定して、一度救いに与れたら救いを失うことはないと嘘の教えを説いています。彼らこそ選ばれていないにわかキリスト者であると自白しているようなものです。本当に神に選ばれた者ならば、信仰の義を行いで示しますし、神に選ばれたと高慢にならないですし、最期まで神に従順でいる筈です。そもそも、人間には最期まで救われるか知る事はできないものです。確かに、神の救いには神の自由な選びが欠かせないものですが、同時に神の憐れみを受けた人間側が神の救いに見合った信仰を体現して、神の憐れみに応えなければ救いは成立しないのです。しかし、カルヴァン派プロテスタントは神の律法と掟と戒めを守らず、主イエスと十二使徒の教えを無視して、律法廃止論と信仰義認説など偽使徒パウロの書簡由来の反キリスト教義を信奉していながら、予定説を唱えて自分達は選ばれたと勘違いしており、彼らこそ表向きは信仰には招かれたものの、実際は偽使徒パウロの反キリスト教義を信奉しているために滅びに至る広い道を通っており、選ばれていない故に後から神に追い出されることになっているのです。彼らは救いの対象を選ぶのは神であると言う神の主権を無視して、自分達の主観で神に選ばれたと勝手に勘違いして、傲慢になっており、神への不敬を働いているからです。神の律法と掟と戒めは主イエスにより廃止されたと言う偽使徒パウロの反キリスト教義を信じて守らないのならば尚更です。本当に神に選ばれたならば、神への愛と隣人愛の故に自発的に神の律法を意識して、当たり前のように守りますし、善きサマリア人の例えにある善行を自発的に行い、信仰の兄弟姉妹と交流して、主イエスが定めた新しい掟である兄弟愛を実践する筈です。神の救いには律法遵守は大前提であると同時に当たり前なのです。使徒ヨハネも書き残したように、神を愛する者は神の掟である律法を守るのです(ヨハネ一 五章三節)。神の掟である律法を守らないのに、自分達は選ばれたと勘違いするカルヴァン派プロテスタントは本質的に神への愛がなく、口先だけで神を信じていると言っても信仰による行いを否定しているために、神への片想い止まりで終わっているのです。尤も愛は努力して得られるものではないですし、当人の資質の問題ですが、神の律法を意識していくうちに内面から悔い改めていくのは出来ると思います。拙者もこうした役立たずの僕にならないように日々気を付けていきます。神の救いについて詳しくはミカエル氏の過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か | 真の聖書福音と預言」を参照することを推奨します。ルター派の信仰義認説やカルヴァン派の間違った予定説などを唱えるプロテスタント、古代の異教崇拝の教義を取り入れて異教化したカトリックと正教会、また地上の全ての教会の共通の教義である律法廃止論を生み出した張本人である偽使徒パウロがギリシアやローマなど異邦の地で伝道した一世紀当時から反キリストの力は働いており、十二使徒と彼らから直接教えを受けた信徒達が世を去った後に聖書の教えは歪められていくのです。ここで、ミカエル氏の記事より引用します。
偽使徒パウロの福音がこの世において強固なものとなったんは、西暦三百二十五年のニカイア公会議の後や。これは太陽神崇拝者であるローマ皇帝コンスタンティヌスが関与した故に、「公会議」と呼ばれる。当該会議以前は、イエス・キリストの福音と偽使徒パウロの偽福音は、三百年近くの間は一緒に並び立つことがなく、一つの書物にまとめられることがなかった。一世紀のユダヤ人やユダヤ人キリスト者にとっても、「聖書」とは古代ヘブライ語や古代アラム語で書かれたモーセ五書、詩編、預言者の書等でしかなく、異邦人の言語である古代ギリシア語で書かれたものに権威を感じひんかったし、「聖書」とは認めへんかった。今ある旧約聖書の書物群と拙者が過去記事「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」で指摘したように幾らか外された古代ヘブライ語で書かれ、他の書物の存在を言及されたものや、ユダの手紙でも軽く言及があったとおり、改ざん前のエノク書(現在市販されるエノク書は一部改ざんの疑いが濃厚ではあるが…)等といった書物がほんまもんの「聖書」として在るべき形であり、それに加えてイエス・キリストについて述べられた福音書と十二使徒の書簡に限るべきであり、十三人目という本来居る筈もない偽使徒パウロの書簡を聖書として扱うべきではないし、聖書の正典として載せるべきでもない。しかし、西暦三百二十五年にニカイア公会議において、アタナシウスという者が「御子イエスは被造物」と主張したアリウス派を退け、イエスを神と認め、ローマ皇帝コンスタンティヌスが支持し、権威を得た。西暦三百六十七年、アタナシウスは、聖書の正典化の編纂に関わり、今ある新約聖書二十七巻が正典であると大枠を固めた。そして、西暦三百九十三年のヒッポ会議で、新約聖書二十七巻を「正典」と認定し、その四年後の西暦三百九十七年に行われた第三回カルタゴ会議で、再び新約聖書「正典」を今ある二十七巻と再確認の決定をした。このように、パウロ狂信者である異邦人たちが権威付けのために聖書の正典とそれ以外の外典や偽典という区分をすることを思いついて実行した。ローマ人をはじめとする異邦人の反キリストたちは、反ユダヤ主義であり、今でいう旧約聖書を蔑ろにし、「異邦人の使徒」(ローマ十一章十三節拙訳)と自称した偽使徒パウロの偽福音を重視して信奉しており、何としても自分たちが信じる偽福音が書かれたパウロ書簡を聖書に組み込んで「聖書の正典」と権威付けし、世の中に広めようと画策した。結果、それが成功し、多くの自称キリスト者を輩出し、多くの自称キリスト者たちはパウロをキリストの使徒と誤信し、パウロ教の聖書を崇拝してる。
三百十三年にローマ帝国で皇帝コンスタンティヌス一世が出したミラノ勅令により、ローマ帝国の領内でキリスト教は法律上は公認されましたが、三百二十五年にコンスタンティヌス一世が主催するニカイア公会議でパウロ教の流れを汲むアタナシウス派が主イエスを被造物と考えるアリウス派を異端と認定して(そもそも教義が間違いですが)、正統派と認められたことをきっかけに、権威を得ました。三百六十七年にアタナシウスは新約聖書の正典を二十七巻に編纂して、アタナシウス派がローマ帝国の国教となった後の三百九十三年のヒッポ会議で新約聖書の正典を二十七巻と認定して、四年後の第三回カルタゴ会議で再び新約聖書の正典を現在の形に固定しました。このように、パウロ書簡を含めた二十七巻が新約聖書の正典として固定されているのは、主なる神が最初から多くの人間を救うつもりがない故に、パウロ書簡から導き出される律法廃止論と信仰義認説を信じる偽キリスト者を炙り出すための篩として機能させるために主なる神が許可した故だと思います。そうして、神の律法と主イエスの教えを基盤に初代教会の教えを守ってきた真のキリスト者は異端者と看做されて迫害されて激減していき、中世暗黒時代から二千年近くも偽使徒パウロが創始したカトリック、正教会、プロテスタントなど偽キリスト教により何十億もの人々が騙されて、滅びの道を辿っていったのです。聖書の正典について詳しくはミカエル氏の過去記事「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん | 真の聖書福音と預言」を参照にすることを推奨します。
皆さん、全人類の救いの恩恵期間が終了する大艱難の幕開けまで本当に残された時間は少ないです。これから先は主イエスが預言された通りに世界各地で戦争や災害などが多発していき、聖書を学ぶことは日増しに難しくなりつつあります。手遅れになる前に聖書の学びに一生懸命励んで、真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログ記事を最初から最新記事まで読み進めることを推奨します。
また、ミカエル氏が伝道活動の拠点をアメブロからサブスタックに移行されましたが、それこそ残された時間が少ないことの現れかと思います。御国の福音である真の聖書福音(パウロ教ではない)はいずれ全世界に広がると主イエスが予告されたため、ミカエル氏はその神の御心を行うために海外への発信も行うようになられたと思われます。ミカエル氏の教会入会を志す求道者の方は以下の「大事な告知」に従って、手順を踏んで行動されて下さい。
拙者はミカエルさんの管理する「神のイスラエル教会」参加に向けて活動中の未熟者ですが、この記事を読まれている読者の皆さんも宜しければ共にキリスト道を歩んでいこうではありませんか。
最後までご覧頂き有難うございました。



