昭和の終わりごろから、衣食住の和文化の劣化が急速に進みだした。今や着る物と言えば安かろう悪かろうのアパレルメーカーに、着物文化は有史以来最低になり下がった。
食においても劣化は激しく、酢の利いていないシャリで握ったなんちゃって江戸前寿司に、甘いタレの鰻などなど。天婦羅もしかり、厚く脂ぎった衣に丼汁のかかっていない天丼などである。
昨日、今じゃ数少ない江戸前天麩羅を食わせる店に久しぶりに行った・・・・。
最寄りの緑が丘駅より大井町線の先頭車両に乗り、大井町へ向かう。先頭車が乗り換えに便利てんで、此処に乗り大井町でJRに乗り換えて大森駅へ・・・・。
大森にはこれから向かう天婦羅屋の他に、洋食屋・手打ちそば屋のどれかに月に一度は必ず食いに訪れていた。今行くのは天婦羅屋だけ・・・・。
一昨日自由が丘の靴屋へサンダルを探しに行き、気に入った物が無かった。そこで、このスーパーの中の大きな靴屋ならあるだろうと、覗いてみた。
店名は自由が丘の店と同じ、てぇ事で、置いてある靴も同じ。欲しい物は無し!!
これから会う御仁達へもと、前日電話をして取り置きしてもらった海苔大福を買い、天婦羅屋へ戻る。
待ち合わせをしたのは母方の親戚、お袋の育ての親の爺さんが彼等の曽爺さん。平河町で関東大震災後に合い、その後大森のこの辺り不入斗(いりやまず)に移り住んだのである。
総勢五人でカウンターに座り先ずは前もって無理を言って仕入れてもらった、子持ちの蝦蛄を出してもらう。
身の中の赤い処が蝦蛄の卵、今が旬の一番旨い時期なのである。この蝦蛄を古くからこの辺りに住む住民は、死肉を食らうと言って忌み嫌ったのである。
大昔この天麩羅屋の後ろは海水浴場、夕方になると蝦蛄が水面に浮いてきてそれを手拭いですくい捕ったと、前記の洋食屋の亡くなった看板娘が言っていた。
昔、東京湾に全日空機が墜落した時、ダイビング仲間が遺体の引き上げを手伝った。その時、引き上げた遺体には、何匹もの蝦蛄が食いついていたという・・・。
その頃は蝦蛄が東京湾で沢山取れ、蝦蛄爪を羽田の魚屋で売っていた頃・・・・。
天婦羅を食う前に、刺身と氷頭なますの入った酢の物を頼むのだが、昨日は酢の物が無かった。
毎回最初にあげてもらう天婦羅は柴海老の筏、この店にはなかったメニューを、アタシのわがままでこさえてもらうようになったのである。
てぇ事で、毎回行く日にちと人数を連絡し、柴海老を仕入れてもらうのである。
筏の次はアナゴ、江戸前の天婦羅には小振りのメソッコを使う。10匹に一本あれば御の字と言うメソッコを使う天婦羅屋は少ない。上に乗っているのが骨煎餅・・・・。
アナゴの次はサイマキ(小振りの車海老)、この店は頼んだネタと一緒に必ず野菜も揚げてくれる。
天婦羅のネタに打ち粉をしたあとシャブシャブの薄い衣をつけて揚げるのが、江戸前天麩羅。ボテッとした衣をつけて揚げるのは、蕎麦屋の天婦羅と呼び天婦羅好きは馬鹿にした。
蕎麦屋の天婦羅で思い出した、昔、浅草の行列をする天婦羅屋の向かいの蕎麦屋に入り、そこの大将に「隣に天婦羅の揚げ方教えてやれよ!」と言ったことが有る。
隣は衣がボテボテ、脂ぎって旨かない天婦羅、入った蕎麦屋は気の利いたネタで天婦羅をこさえてくれる店だった。
何時ものはこの後白身の魚やかき揚げなどを食い、最後に天丼を食うのだが、この日行った連中は皆小食、腹が一杯だという。
男連中はこの間酒を大分飲んでいたので食えなかったのだろうが、アタシは家に帰りオマンマを食ったのであr・・・。
来月辺りはどぜうの旬、子持ちのどぜうが食えるかもしれない。鰻の旬は冬場だよお立合い!!
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