で、その4年間の間にアイドルグループの世界に何が起こったかと言うと「戦国時代」と言われたどのグループにもブレイクのチャンスがあるかのようなアイドルグループバブルの時期が終わり、時代の覇者が48Gから46Gへと変わった。
現在は「戦国時代」の戦後処理が行われており(それさえ一段落つこうとしている)その過程で多くのアイドルグループが活動休止に追い込まれている。これは活動の停滞と言うより運営スタッフ側が今後数年の時間をかけて売り出しても損得の計算で見合わないと判断したことが理由の多くを占めるのだろうと思う。
「戦国時代」が何を遺したかはとてもシンプルで「ブレイクにたどり着いたのも生き残ったのも結局大手」ということだ。
Perfume
AKB48(および48G)
ももいろクローバーZ
E-girls
BABYMETAL
乃木坂46・欅坂46
ブレイクにたどり着いたガールズグループはこの6系統でありいずれも大手芸能事務所に所属し大掛かりなイベントやライブツアーを打つだけの活動資金を充分に担保できる体制に支えられている。また、ブレイクに至っていなくとも活動を継続させているグループも同様だ。
「戦国時代」の終焉を決定づけたのは欅坂46のブレイクだ。単に人気や知名度が上がったということだけではなくアイドルと音楽、アイドルとパフォーマンス、そして多人数グループにおけるセンターの役割に新しいアングルを打ち出し、成立させた。
欅坂46のセンター平手友梨奈は人気や知名度に支えられているわけでも、グループで一番可愛いわけでも、一番歌がうまいわけでもダンススキルが高いわけでもなく、グループ成立の過程で重要な役割を演じてきたわけでもなかった。
平手友梨奈は楽曲の世界観を前にして、この曲はこう聴かれるべき、こう見られるべき、こう感じ取られるべきという受け手側の視点を、構図(アングル)を、彼女自身のパフォーマンスを通して提示してきた。歌っている、踊っているというよりももっと深く、曲を「演じて」きた。
作詞家である秋元康氏が平手友梨奈に「あてがき」するようにして提示された歌詞をテキストとし、この歌詞の中に在る感情は自分の中に在るものと同一のものなのだと確信して演じる。平手友梨奈は、グループが持つ音楽性の象徴としてのセンターであり、平手友梨奈を指して「センター」と言う時、それはポジションだけの意味では無くなるのだ。
異質なセンターを擁する欅坂46の登場は、彼女たちを世に送り出したスタッフや本人たちの思惑を超えて世界に広まっていった。まず受け入れられたのは「サイレントマジョリティー」という「楽曲」であり、それを演じたパフォーマンスを映したMVであり、グループ自体の認知は一番後からやって来た。
彼女たちのスタッフは現在のような形や受け入れられ方で欅坂46というグループを売り出そうとは考えていなかったはずである。もう少しお気楽に可愛らしい乃木坂46の妹分としての役割を期待されていたのではないか。平手友梨奈をセンターに抜擢したことについても、ある意味では「短髪・年少組・地方出身の大人しい少女」という「生駒システム」に乗ったものとも考えられる。実際にメジャーデビュー曲が決まる前、欅坂46がTV番組に登場して歌ったのは「制服のマネキン」であり「君の名は希望」という「生駒センター曲」だった。
欅坂46はデビューシングル「サイレントマジョリティー」の評価の高さを背景にブレイクの坂を上り始める。セカンドシングル「世界には愛しかない」では平手友梨奈が歌詞の登場人物の感情を自分に重ねるという「サイレントマジョリティー」からさらに一歩踏み込んだ表現スタイルを見出し、第三弾シングル「二人セゾン」の美しいメロディとともに欅坂46のブレイクは決定的なものとなった。
平手友梨奈はカップリング曲の多くでもそのままセンターを演じ続け、振付・演出家であるTAKAHIRO氏の楽曲に対する解釈の最も忠実な表現者として成長を続ける。
平手友梨奈はグループ内の最年少メンバーの一人(活動の途上で実質的な二期生である「けやき坂46」のメンバーが加入していた)でありながら「成長を期待される未成熟なセンター」ではなくグループの象徴となりパフォーマーとして傑出した才能を開花させていき「センター」の概念を塗り替えてしまった。「センター」はもはやグループ一の人気者に与えられる特権的なポジションでは無くなり、握手会での工夫で人気を上昇させたご褒美でも無くなり、メンバー同士の切磋琢磨の果てに獲得したトロフィーでも無くなってしまった。
平手友梨奈出現以降の「センター」は楽曲に存在する「伝えられることを待つ何か」を見出し的確に表現する「演技者」としての役割を求められる。
ただ平手友梨奈自身が成長途上にあるため、この「センター」の概念がこのまま固定されるわけでも無いのかもしれない。揺り戻しのように、またグループ一の人気者が立つ「ポジション」に戻っていく可能性も高い。
「サイレントマジョリティー」から「二人セゾン」の各シングル収録曲における平手友梨奈は迷いなく(迷う余裕もなく)自身の表現を生成りのまま演じてきた。神がかり的と言う以外にはない表情を見せてきた。それが揺らいだのはシングルで言うと「不協和音」以降、時期的に言うなら17年のアニバーサリーライブから初夏のイベント「欅共和国」を終えアルバムを発表し初の全国ツアーが始まった数ヶ月間のどこかだ。
平手友梨奈は「迷いのない表現」という高みから落ちた。何かが彼女を、生々しい苦悩の深海へと沈めたのだ。それはもしかしたら成長途上における必然だったのかもしれないし、デビュー直後という一時的に限定された期間の煌めきが失われただけなのかもしれない。もしかしたら単に僕が見間違えていただけで、彼女には「神がかり的な」何かなど始めから無かったのかもしれないし、何かのアクシデントが彼女から「善意と信頼」という防具を剥ぎ取ってしまったのかもしれない。
現在自身が主役を演じる映画撮影のためにグループ活動から離脱している平手友梨奈が、いずれグループに戻ってくる時、彼女が再び顔を上げてパフォーマンスできるようになっているのかどうか。色々なことが分からないだらけだ。それもまたアイドルらしいと言えば言えるのかもしれないけれど。