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夏休み。

この言葉が僕は好きだ。


別に長期間休むわけでもなく

まとまった休みをもらうわけでもないが、


この言葉には、

人を少年時代へ帰してくれる力がある。

どこへ行くでもないが、


ローカル電車で、青春十八きっぷで旅をしてみたい。

そんな衝動にかられるこの夏だ。



日本が泣いている。

ITジャーナリストの佐々木俊尚氏の

「マスコミはもはや政治を語れない」という本が出ていたので

購入して読んでみたが

非常に興味深い事が書いてあった。


ブログ、ニコニコ動画、twitter、ユーチューブ、

様々なメディアが台頭する中


まったく新しいインターネットを中心とするメディアが、

現在のメディアの在り方について

これはおかしいんじゃないか。

という様な意見を呈することもしばしばになってきている。と。


確かにそうかもしれないと思った。


マーケティングの教授が

エコとか、本当に地球環境の改善に貢献しているのだろうか?とか

それと逆行し、使い捨て等の商品が市場に出回る

一つのものを大事に使い、なるべく、長い期間使うことの出来る商品が

エコなのに、無理やり買わせる為に、使い捨ての方法を取るのではないか

これは、矛盾しているのではないかと言っていたが

その通りだと思う。


しかしながら、

色々な書籍に書いてある通り、アリが像を倒す時代がもうそこまで

来ているような気がしてならない。



これだけ外圧(諸外国)のグーグル(Google TV)や

百度(中国のネット企業)が急速に台頭している中で

旧態依然としたものが、

音を立てて崩れ陥落しようとしている今、

今までの世の中の在り方やビジネススキームの根本が問われているように思えてならない。


モノが売れない時代ではなくて

より比較し、詳細に調べて

機能性なども含めて総合的に判断する社会になってきているのだろうか。


百貨店が軒並み厳しい状況に追い込まれている中で

今までの物の売り方を岩崎弥太郎ではないが、

大きく変えていく必要があるのではないかと思う。


逆に言うと、

今までの「成長しなければならない」

「他の会社に勝たないといけない」

「勝ち続けなければならない」「一番にならなければいけない」

という企業体の目的自体に

疲弊がきていてその目的にとらわれてしまっていたのではないだろうか。


これからの次世代の10年

土佐藩が薩摩藩と長州藩を結びつけた様に、

絶対にありえないもの同士の

連携がなされる時代が来るんじゃないかと思う。


いや、こうした時代だからこそ

憎み合うのではなく、

蹴り落とすのではなく、

手を結ばないといけない。


ノーサイドの真の意味は、

死闘を繰り広げて、

本気中の本気を乗り越えた所に

苦しみを乗り越えたものしか分からない

独特の深い意味があるという。


そのとおりだと思う。


21世紀は、

弱い部分をお互いに補完し合う社会でなければ

手を結びたくない相手とも手を結ばなければ

そうしなければ

全員が負けるor最終的には勝者はいないか、一握りだと

という資本主義の波が

来るのではないだろうか。


大学の経営学の先生が

こんな事を言っていたのを覚えている。

そして、企業というものはいったい誰のために存在しているのか

そして、企業人とは何か

更には、人としてこの21世紀、混とんとし

幸せの尺度や、終身雇用が崩壊し、


夢の持てなくなった世の中を、

どうしていくのか、

無理やり、こうだとも言えないし、

こうなれとも言えない。

僕はあまり時間は限られているような気がしてならない。

やる気を少しずつスポイルされて、

あきらめムードの社会。

不安まみれの社会の中で、

毎日、満員電車に揺られる毎日。


幸せの尺度が、細分化する中で、真の心の溝を埋めるのは何か?

それが、みんなして分からないので、迷走しているのが

現代社会なのではないか。


迷走する社会。

海図なき航海。


日本が泣いている。

僕には、その心の叫びが聞こえるのだ。


この時代は、皆が迷い、

共に血を流しながら

皆が、各々解決策を考えている。


がらりと世の中が変わるのは

世の中がなんとかなると期待したり

誰かに期待するのでは最終的に解決はしないように思う。


こういう時代は逆に、個人個人、一人一人が

問題意識を持ち、それを共有し、縦ではなく横のつながりでいかないと

いけないと。


確かにそうだと思う

そして、一人一人が「最適解」を導き出す為に

意識を変え


PDCAのサイクルで、

トライアンドエラーで軟着陸していくしか他にないと思う。


大きな、大きな転換期に来ているからこそ

腹を据えて、難局を乗り越えていかないといけない。


僕は、この3年間。大きな区切りとして、

何でも良いので

一つの大きな打ち上げ花火を上げると覚悟をした。


それが、純粋な打ち上げ花火か

仕掛けをした仕掛け花火か、分からないが、

自分の持つ、力、すべてを傾注し

自分の力を、うねりを、

一つの大きな集大成としたい。


面白くないことも、面白いことも、小さいやりがいを持ち、

チャレンジしていこうと思う。











夜明け。規格外なものをどう世の中に出していくか。

毎年、京都へ一人で行き、

東山霊山にて参拝をする。


夜行バスにゆられて、

ここへ向かうのである。


one to oneの約束。


歴史の流れを感じ、

昔、ここに確かに

「志」というものが存在したのだと痛感するのである。


日本が危ないということを痛感したのは、

今に始まった事ではないが、

(かつての志士たちも危機感を感じていたことだろう。)


やはり時代を経ていくにつれて

どんどん、

人と人との関係性が希薄になったなと思う。


新しいコミュニケーションツールが世の中に

あふれてきた


良い面も、もちろんあると思う。

インタラクティブなコミュニケーションでは、

こうしたものは、本当に画期的なことだと思う。


その一方で
直接のone to oneのコミュニケーションが昔と比べて

随分と減ったように思う。


そして、

空気を読まなければならない社会。

空気とは一体、何なのだろうか?


全部、スマートにしなきゃいけない社会に誰がしたのだろう。


全部、うまく行かないといけないという空気、

あるいは、空気やムードに流されて、大事な時にNOと言えない社会。

空気を読むことを強制される社会が21世紀突入するとしたら

それは、本当に幸せなことなのだろうか。


特定のものやブームに過度に熱狂し、

日本全体が、ちょっした集団催眠みたいな事になったとしたら

それは、ちょっと危ないんじゃないかと僕は思う。


ほどほどにが良いといわれるが、

日本人の気質は時として、大きなエネルギーを生み出す

特殊な力があると言っても過言ではないと思う。


予定調和の中ですべてが行われるとしたら

スマートではないものが、規格外なものが

社会から淘汰され、

空気を読む者だけが、生き残る社会が来たとしたならば、、、、、


それは、本当に幸せな社会、

幸せな世の中なのだろうか。



かつて、世の中を大きく変え

シフトチェンジしてきた人の多くは、

世の中を冷静に見ていたと思う。


ふと、これはどう考えてもおかしいことなんじゃあないか

と思う事については、きちんと正論を言ってきた。


衝突もあっただろうが

本音でぶつかることで、

何かが生まれたと思う。


先日、面白い広告を見つけた。


退屈なのは、社会か?自分か?


このワンフレーズは、面白いなあと思わされた。


今自分たちは、

大きな転換期を迎えているように思えてならない。


地味な事をコツコツ続けていく心

、派手ではないがコツコツと仕事をしていくという

日本人らしさを取り戻さないといけない様に思う。


そういう意味では、

農業というものは、土に触れ、生き物に触れて


都会砂漠の中で「農業」というものが

心を解放させる一つのオアシスになるかもしれない。


自然の「空気」を読むということよりも自然の流れに任せる事であるように思う。

自然というものは、人の力が及ばないものであると思うのだ。


雨が降れば、草木が潤い

日照りが続けば、大変だろうと水をやる

冬になれば、もうすぐ春がくるよと声をかける


都会は空から見ると、灰色をしているという。


緑のまちにするには、

地方のノウハウを、共有することが必要であると思うし

農業というものを、地方から

出来る人、ノウハウを含めて、解決策を模索する必要性があると思う。

そういう時期に来ているのではないかと思う。

気軽に参加できるプラットフォームが必要であると思う。