【祝100歳 峠の芙美子伯母さん】 | 村の黒うさぎのブログ 

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大自然の中で育って、都会の結婚生活へ。日常生活の中のイベント、出来事、雑感を、エッセイにしています。脚色はせず、ありのままに書き続けて来ました。

 

5月25日、峠の芙美子おばさんの白寿の御祝いが、岐阜県の地方都市で開かれた。もうすぐ100歳である。
驚くべきことに、芙美子おばさん(仮名)は、若い時と変わらずに頭がしっかりしている。
白内障の手術を受けた他に、これといった病気もせずに過ごせ、この度白寿を迎えられた。
親戚と息子夫婦・孫・ひ孫に囲まれ、佳き日を迎えた。

おばさんは、おしゃれな普段着にコサージュを装い、介護用車椅子に座っている。後に写真で拝見した。
私の尊敬するおばさんである。私の誇りの親族だ。
この日に私は、千葉の地から祝電をおくった。
おめでとうございます、芙美子おばさん

芙美子おばさんは、女学校で学年一番の成績だった。華族から女学校に問い合わせがあり、笹川芙美子は花嫁候補として、打診を受けたことがある。
その後、生家(私の実家)の隣り村の小学校で、3年間教えていた。
そして地域の名家から、「是非嫁に貰いたい」とお話があった。足利時代にはじまる歴史のある、「お頭」の家柄だった。
若い時は、地方都市の公務員官舎で暮らした。夫は、農業試験所の所長となり、文化勲章を授章した。
21世紀を迎えて、峠の家屋は文化財に指定され、観光客が多く訪れる様になった。

芙美子おばさんのお話は、ブログに二回書いている。
(→【人生の賢者-峠の芙美子おばさん】
(→【峠の芙美子おばさん】
今回は、過去に書いた事柄は最低限に削って、まだ、ふれていないことにスポットを当てたいと思う。

息子にお嫁さんを迎えた。それにあたり、私の父が、姉の芙美子おばさんにアドバイスをしたものだ。
「芙美子ちゃんは何でも出来過ぎちゃうから、嫁の前では手を抜いて見せろよ。そうじゃあないと、嫁は息が詰まっちゃうよ」

嫁と姑が張り合う話は、世間にあるものだ。私も、新婚当初は、整頓上手な義母に負けじと、家の中が綺麗に素敵になる様に、心をくだいていた。
芙美子おばさんの場合は、敢えてだらしがない様子を見せる様にと、身内からアドバイスされたのだ。
その位、物ごとをしっかりこなせる人だった。

私の祖父母の葬儀を采配したのは、長女の芙美子おばさんだった。
私の母は、祖父より一足先に祖母が亡くなると、ひとしきり泣いた。その後、葬儀をどうしよう!? と血相を変えていた。
三十数年前、まだ葬儀場は無く、各家ごとで仕切っていた時代だった。
おそらく、私の父から芙美子おばさんに、事前にお願いしてあったのだろう。
芙美子おばさんは、両親の葬儀共に、迷う場面も無く、ご近所の人達、親戚の者達に、次々に指示を出していた。通夜と葬儀と、一連の御勝手仕事など、てきぱきと進んだものだ。それはあざやかな采配ぶりだった。
私の母は、葬儀の間中、一言も何も言わなかった。私の母らしいと思った。

私は、折ある毎に母と話したものだ。
「芙美子おばさんが男だったら、何かに成って大成していただろうね」
「それが男に生まれないところがいい」
そして、二人で笑い合っていた。
現在のNHK朝ドラの「虎に翼」でも放映しているが、昔は、女子の職業には、大変な制約があった。芙美子おばさんの生まれた時代も、その頃だった。

左様な中、女子には「内助の効」という言葉があった。
家を守って、夫の心身の健康に配慮し、万全な体調で外へと送り出す。それが昔の時代の、妻の努めだった。
芙美子おばさんの「内助の功」で、夫は大成して、文化勲章を授章した。
「良い奥さんとは、簡単に成れるものじゃない」
かつて映画監督・大島渚の言ったことばだ。

孫娘は音楽大学を出た後、学習塾で数学を教えている。
「えっ、音大出身なのに?」
私は聞き直した。話によれば、学校と違い、学習塾では、何らかの教諭資格があれば、どの教科を教えても良いのだそうだ。それにしても、数学とは ...

主人から、予備校講師の話を聞いている。公立高校の先生と違い、予備校の先生とは、とにかく授業が面白い。講師に対する生徒の人気、出席率、模試の成績が、給与に直結するのだ。
収入のためなら、授業にいくらでも工夫を凝らせるのが、予備校の先生だというお話だ。
おばさんの孫娘は、どんな具合に工夫して数学を教えていることだろうか、興味があった。
「峠の家系は、なかなか出来る家系だよ」
私の父が横から言うのだった。

昔は、里帰りして助産師さんに来て頂き、家で出産していた。
芙美子おばさんは、とても我慢強い人だと、私の父は言う。
だが姉の芙美子おばさんが、子供を産むのに声をあげて泣いていることに、父は驚いたそうだ。
 ...弟も、そうして人生を覚えていくのだ。誰彼と云わず出産では、この世のものと思えない痛みに、揉みくちゃにされる。

おばさんが夫をがんで亡くして、実に43年が経った。享年57歳だった。当時は、定年退職もその頃だった。
「お父さん(夫)は働いてきて、これから楽しく過ごせるって時に亡くなって、可哀想だった」
芙美子おばさんは話していたことがある。
おばさんの家にて、立派な重厚な、文化勲章の表彰状を眺めては、私も思いを寄せるのだった。

夫亡き後の43年間、その間には、二人の息子の存在が、心の支えだったことだろう。
長男は「ホームベーカリー」をプレゼントしたり、段差の無い床に家を改造したりと、親孝行していた。
次男は晩婚ながらお嫁さんを迎えて、二人の孫娘に恵まれた芙美子おばさんだった。

頭が凄くきれる反面、心は繊細な人だった。息子の縁談が上手くいかないことはもとより、色々がとても完璧に出来るその割に、案外、落ち込んだり、気にしたりしている様子をうかがった。
そんなホッと出来る人柄も持ち合わせている おばさんは、この度白寿を迎えた。

そして100歳にして、なお頭がきれるところは、如何にも芙美子おばさんだ。


この慶事に、親戚一同を挙げてことほぐ。
      また一同を挙げて、あやかりたい。