【峠の芙美子おばさん】 | 村の黒うさぎのブログ 

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大自然の中で育って、都会の結婚生活へ。日常生活の中のイベント、出来事、雑感を、エッセイにしています。脚色はせず、ありのままに書き続けて来ました。

画像は、ピアズ・クラブ(華族会館)の内装(1912年・東京)


芙美子おばさんには、華族から縁談があった。私は父の晩年に、初めて聞いたその話にびっくりした。
女学校に、華族から問い合わせがあった。
「この地方で、頭が良くて、器量の良い娘はいないか」と。
学年一番の成績の芙美子おばさん(仮名)に、白羽の矢が立ち、親が女学校から打診を受けた。「娘はまだ学業の途中で、卒業していないから」と辞退した。

卒業面(卒業づら)ということばがあった。「男尊女卑」が普通な時代、勉学に精を出す女性は鼻持ちならない、と見られがちだった。女学校では、器量良しな生徒から先に、お嫁に行くために中退していった。卒業式を迎えた女生徒は、「卒業面」と呼ばれていた。
...不美人のことである。(美人論,井上章一著より)

華族の姻戚となれる栄誉は選ばず、芙美子を卒業させた両親だった。
他の息子達に対する、親の言動から推し測り、「卒業出来てこそ、学校へ出した意味がある」と考えていた様だ。

1924年に生まれた芙美子は、六人の兄弟姉妹の第一子だった。
昭和のはじめに、「造り酒屋」の家業が廃業に追い込まれ、生活は厳しかった。その中で、両親は一生懸命働いて、息子三人に、当時としては高い学歴を身につけさせた。娘三人は、女学校へ通った。
芙美子は家の野良仕事を一番よく手伝った。そして芙美子は、学力が高いので、更に教員養成校へ通って、「代用教員」の資格を取り、小学校の教員になった。

芙美子が隣村の小学校で教えていたところ、地域の名家から、「是非嫁にもらいたい」と望まれて嫁いだ。その頃、写真館で撮った芙美子おばさんの姿は、パーマネントの髪にスーツ姿で、そして凜として見える。

結婚後、夫が肺結核を患った。戦後の時代で、幸い結核の治療薬が開発された頃だった。命には関わらなかったが、数年にわたる療養生活を、余儀なくされた。

27歳の年に長男、二年後に次男に恵まれた。長男は国立大学を出て大手のメーカーへ就職し、次男は、専門学校へ行き、歯科技工士となった。

55歳時に、同い年の夫は、大腸がんで入院した。直ぐに手術で開腹したが、手遅れだった。当時は、がん患者に対し告知することはなく、夫は生きる気力満々でいた。
亡くなるとわかったうえで毎日お見舞いに通い、弱気になる夫を励ますのは、大変なことだったと思う。

57歳の年夫が亡くなり、おばさんは官舎から、夫の実家に引っ越した。私の父が引っ越しの手伝いに行ったところ、荷物の分類が大変詳細に渡っており、父は舌を巻く思いだったそうだ。
夫に先立たれた芙美子おばさんに会うごとに、つらさの滲んだ表情をしていたことが、しばらく続いた。

夫が亡くなったその年に、夫が文化勲章 勲六等を受章したという通知があった。おばさんが代理で出席し、勲章を受け取った。後におばさんの家にて、重厚さのある表彰状を拝見した。

おばさんが実家に入ると、やがて姑の介護が必要になった。なまじ財産があるがため、地域の「特別養護老人ホーム」には、審査の時点で入れない。介護保険も無い時代に、おばさんは三年間を一人で介護して、やがて63歳の年の年頭に姑を看取った。
葬儀を終えたおばさんの顔にはシワが増え、その姿を見て私の父は、「もうお婆さんの顔だ」とかげで言う。なおもご苦労されたのだった。

息子二人は、結婚に当たり、山村の名家という難しい条件もあり、なかなか縁談がまとまらなかった。それもおばさんにとっては、気苦労のたねだった。
姑の亡くなった年に、やがて次男に縁あって、お嫁さんを迎えた。晩婚だったが、目元の優しげな、可愛いお嫁さんだ。
次男が跡を継ぎ、長男は独立した。おばさんは、次男夫婦が帰省するごとに、二人の孫の成長の様子に微笑んでいたことだろう。
長男は、いまだお嫁さんを迎えていないが、現在定年退職して、芙美子おばさんに親孝行している。

1991年、私の祖父母が相次いで亡くなった。葬儀を采配したのは、長女の芙美子おばさんだった。
葬儀場の無い時代、お寺のお勝手場を使い、隣組の女性達の協力のもと、通夜、葬儀はおばさんの采配で、てきぱきと進んだ。

私の父にとって姉の芙美子おばさんは、唯一頭の上がらない人で、父は機会あるごとに、姉を褒めていた。私は、それを聞いて育った。
身びいきでもなかった。隣村にて、芙美子おばさんの評判を聞いたことがある。「芙美子先生は、とても立派な方ですよ」との言葉だった。

「自分が芙美子おばさんの様に、何でも出来る人なら本当によかったのに」私の母は、よくこぼしていた。
「お母さんだから、お父さんと上手くやっていけるんだよ。お父さんと芙美子おばさんが一緒だったら、お互い主張しあって、ぶつかってるよ」私はそんな具合に、母を励ましていた。

私が6才と8才の年に、兄と従兄弟達と一緒に、おばさんの家に泊まったことがある。とても楽しかった。私の母から、「出された物は残さず食べなさい」とよーく言われて行ったが、煮干しだけが残ってしまった。「ごめんなさい」とお椀を差し出したら、「味出しに使った煮干しだよ。入っちゃってごめんね」と、反対に謝ってもらった。

7才の年に、私一人でおばさんの家に泊まろうとしたこともあった。
家が恋しくなって、夕方涙を流していたら、直ぐに気づいてくれて、おじさんの車で私の家まで送りとどけてくれた。
子ども心を察せる人だった。

人生の多々の苦労を、その都度乗り越えてきた芙美子おばさん。
周囲には、易々とやってのけている様に見えても、おばさんの心の内は、普通の人と同じに、つらくて折れそうだった。実の両親の葬儀では、采配をふるっていたが、人知れずに涙を流していたと思う。また、姑を介護していた時の心身の辛さを、ずっと後になって詳しく聞いたことがある。

10年前、芙美子おばさんの住む家が、文化財に指定されて、観光客がよく訪れる様になった。観光客にお茶を出して、一緒におしゃべりするので、淋しくないそうだ。
現在90歳を過ぎたおばさんは、足腰は弱ったが、相変わらず頭脳明晰だそうだ。



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