元夕刊フジ評論家・安田猛さん偲ぶ 「長嶋さん、王さんに一度でいいから投げてみたかった」 ・・・ | ハロー・ベースボール!

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「転職活動のメモと野球観戦記」から始めましたが、
ほとんど野球のことだけになっています。

一日だけでは、寂し過ぎると思ったが、

今日も、取り上げて貰えて良かった。


https://ameblo.jp/munerin52/entry-12658152438.html


>身長168センチで直球は130キロ前半の技巧派、


身体は、もちろん、この記事から、頭脳も遣っておられたと思った。


実は、安田さんか、サインを頂いたことが有った。

小柄だと思っていたが、

小柄な自分よりも小柄に見えて、

驚いたのを覚えている。


その時に、新聞を差し出したファンが居て、

自分も驚いたが、


安田さんも、

えっ!

と顔をされていたが、


それでも、書いた。


自分は、もちろん、まだ、サインを持っているが、

あの新聞紙は、まだ在る?


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元夕刊フジ評論家・安田猛さん偲ぶ 「長嶋さん、王さんに一度でいいから投げてみたかった」 後にスコアラー転身、イチロー対策にノムさん絶賛


 元ヤクルト投手の安田猛さんが20日午前2時30分、胃がんのため東京都内の自宅で亡くなった。73歳だった。早大から大昭和製紙に進み、71年ドラフト6位でヤクルトに入団し、新人王と最優秀防御率を獲得。81イニング連続無四死球はプロ野球記録で、通算成績は358試合、93勝80敗17セーブ、防御率3・26。いしいひさいち氏の人気漫画「がんばれ!! タブチくん!!」の「ヤスダ」のモデルにもなった。

 81年の引退後はコーチ、スカウト、スコアラー、編成部長を務め、2010年からは夕刊フジ評論家として「それ行け! ヤスダくん」と題したコラムが人気を博した。17年に母校・小倉高のコーチに就任した矢先にがんが判明。余命約1年と診断され、闘病していた。


 81年の引退後はコーチ、スカウト、スコアラー、編成部長を務め、2010年からは夕刊フジ評論家として「それ行け! ヤスダくん」と題したコラムが人気を博した。17年に母校・小倉高のコーチに就任した矢先にがんが判明。余命約1年と診断され、闘病していた。


 昨年1月のヤクルトOB会。私が安田さんに「背番号『22』をパッとしない選手ばかりが着けている。安田さん、高津さんの番号をもっといい選手につけてほしい」と話すと、「そう、その通り! でも(監督になった)高津がつけたらダメだよ」と笑い合ったのが最後になってしまった。


 身長168センチで直球は130キロ前半の技巧派。「自分は小さいし、プロでは通用しないと思った。でも神様みたいな存在だった長嶋さん、王さんに一度でいいから投げてみたかった」と、プロの世界に飛び込んだ理由を明かしてくれた。


 ONとの初対決はプロ4試合目、72年4月22日の後楽園。「王さんには頭が真っ白になってストレートの四球。次の長嶋さんも2つボールで6球連続。3球目を打ってくれて三ゴロ。ベンチに帰って“ふーっ”ってため息をついて。うれしかったね」と目を細めた。

 球団史上初の日本一となった78年は開幕投手。93年の日本一は投手コーチだった。そしてスコアラーに転身した95年に、当時の野村克也監督が絶賛したのが、オリックスとの日本シリーズでのイチロー対策だ。

 安田さんは「普通フォークを低めに投げれば、どのコースでも空振りか凡打するのに、イチローは外角じゃないと拾っちゃう。これが一番記憶に残っている。別格だったね」と振り返った。それでもノムさんの高い要求に応えて攻略法を練り、ヤクルトはイチロー封じに成功。イチローは第5戦で先制本塁打を放っているが、「“よかった”と思ったよ。それぐらい抑えちゃったからね」と話したところに、人の好さが伺えた。

 タレントの出川哲朗が安田さんの大ファンであることは有名。一昨年のスワローズレジェンドマッチでは、始球式の出川にボールを手渡した。昨年2月に急逝したノムさんに今ごろ「なんや、早いやないか」とボヤかれながらもヤクルトに尽くした人生を労われているに違いない。