失敗を責められて落ち込んでしまったら | 目覚めるための心のlesson

目覚めるための心のlesson

あなたの頭の中で巻き起こっている不安も批判も
「自分は間違ってない」と主張している思考もすべてが
「本当のあなた」とは何の関係もないとしたら。。。。








傷つきやすさという特徴の人がいます。

傷つきやすさの原因の一つに 境界線の曖昧さがあります。





子どもの頃

親や学校の先生に 頭ごなしに叱られたり

大人になってから 例えば 人前で責められたり 理不尽に怒られたりすると、

悔しい、腹が立つなどの感情が入り交じって

気持ちの整理がつかなくなることがあります。




このような時というのは

「責められたこと」 「理不尽に怒られたこと」で

自分の心に 「衝撃」という体験が起こっています。




予期せず 不意打ち的に 痛みを感じることになった。。。。 
ですので
「足をどこかにぶつけた」時と同じように

しばらくの間は心の痛みが当然が続きます。




衝撃を受けてしまったことで パニックになり

なかなか気持ちの整理がつかない時というのが

自分ではその時「何が起こったのか」が あまり整理されていない

分かっていないことが多いものです。




「何が起こったのか」が整理されていないと
その時の事実を受け入れて先に進むこともできません。




「何が起こったのか」

そのことで 「何を失ったのか」が明らかにならないと

解決の入口となる「感情の開放」に入ることができません。




たとえば

自分のせいで失敗した、というときなどには 誰でも 特に落ち込みます。




それでも

落ち込むだけ落ち込めば、つまり

開放という「悲しみのプロセス」を通り抜ければ また元気になることができます。



人間の心は 通常そのようになっています。




そのようになっているのですが 

それを「理不尽な攻撃」であると感じる場合「自分の失敗」として引き受けることが

できない性質のものでは「悲しみのプロセス」を進むことが

できなくなってしまい いつまでも衝撃を受けた当時のままに

留まってしまいます。




「確かに自分に非があった」という場合でも その責められ方が理不尽であったら・・・

反発を感じてしまうかもしれません。




それがどのようなものであっても

自分が「受け入れられない」と感じるもの事は 自分が「攻撃された」と感じことから

それに対して「防衛的な気持ち」が起こり それが「悔しい」と感じさせます。





例え 自分の側に非があったとしても 相手がどんな言い方(攻撃)をしてもいいと

言うことにはなりません。



例えば誰かに似たような非があったとして

自分だったら どんな言い方をするだろうかと考えてみましょう。



すると 相手は「どうしていいかわからなくて 困って悲鳴をあげていた」と 

気づくことができます。




ここで気がついて欲しいことがあります。




それは

「行動」と「人格」の区別をするということ。



注意を受けた側にとって重要な区別は その内容と表現の仕方です。




内容がどれほど的を得てたとしても

その表現に人格を攻撃するような要素が

あるのであれば、そのまま受け入れる必要はありません





自分の失敗については 改めるべきことを認めた後は

「それにしてもあんなひどい言い方をしてくるなんて

相手は相当パニックになって困ってたんだ」という目で見てみましょう。






それはあくまでも相手の領域の事で、

相手の「困り方」であって 自分への攻撃ではない、と わかればいいのです。






人格を否定されるような表現の所まで

全部自分の責任として受け取り 飲み込む必要はありません。



相手の感情などのような相手の領域にあるものは

相手の責任なので 相手に任せましょう。






その上で 自分が改めるべきところを 改めて

颯爽と次のステップに 進みましょう。