久しぶりに共同ブログ更新します。やまきです。
なんかもう久しぶりすぎてどう書き出していいのかさえわからないです。

ブログを書かなかった1年数ヶ月の間、様々なことがありました。
様々っていうか、主に就活なんですが。
就活が無事終わり、こまごました用事もひと段落し、夏休みに入ったので、ここらで一度自分を振りかえって整理したいなということでブログを書きます。長くなりそうなので多分何回かに分けます。(そうです、完全に私物化してます。ごめんちょ)


まず


就活まじつらかった。



これから就活始まる人を脅すわけじゃないけど、これが正直な感想です。
もう2度とやりたくないです。でも1回やってよかったと思ってます。
何が良かったって「根拠のない自信が粉々になること」です。
言い方を変えれば「根拠のない話は聞いてもらえない」ってことかと思います。

例えば学生時代に頑張ったことと、志望理由って大抵どこでも聞かれるんだけど、
「なぜそれを頑張ったのか」「どのくらい、何を頑張ったのか」「それは世間一般から見ても頑張ったって言えるレベルか」「自分なりに考え、行動した部分は何か」「どんな結果をだせたのか」「それによって自分は何を学んだのか」「それが社会に出て、この会社で、どう生かせるのか」「この会社じゃなきゃダメな理由は何か」「この会社で何をしたいのか」「それはなぜか」
…とまあ挙げるときりがないくらい事細かに聞かれる。

でも今まで普通に暮してて真面目に頑張ってても、そこまで考えてやってるわけじゃないじゃん。一つ一つ理由があってやってることばかりじゃないし、気まぐれにやってみたことがなんだか楽しくて続けてたら運よく結果が出たりすることだってある。
それにいつだって大真面目に取り組んでる物事ばっかりじゃない。サークルだって勉強だってバイトだって、それが他の人より優れてると言えるほどやっていることなんて一つもなかった。

でもそれでは就活では通用しない。
それを一つ一つ考えたり思い出したり、時に脚色したり(笑)しながら答えられるようにしていくという作業が就活のほとんどだったように思う。
だけど、少なくとも自分が20年生きてきて大切にしてきた考え方や頑張ってきたことを、今日初めて会っただけの面接官に一蹴されるのはやっぱり辛かった。
(一度見るからに体育会系の若い男の面接官が、スポーツ関係の話だけ耳を傾けて他の話を明らかに下らないっていう反応を見せたときは怒りでその場で帰ろうかと思った。)

面接官もいろんな人がいて、はじめから学生を見下してかかる人もいれば、ちゃんと話を聞いてくれる人もいるし、就活のアドバイスを親身になってしてくれる人も沢山いて、いろんな社会人、いろんな会社を観ることが出来てそれは本当に私の財産になりました。
説明会ではきれいごとばかり言うけど、実際面接行ってみて全然違ったりとか、今まで憧れてた職業が自分の想像してたのとかなり違ったりとか。現実が見えました。
逆もしかり。小さい会社でもいい会社は沢山あります。

自分の将来を懸ける会社を見定めながら、同時に自分も見定められているという緊張感の中、自分自信をすごく見つめなおす貴重な1年になったことは、ホントにホントに間違いないです。
個人的には大人になる一種の通過儀礼のような感覚でした。

そして大人の世界は露骨に数字がものをいう世界なんだなと気づかされました。
努力した、結果が出せた、と言うだけでは自己満足で、自分はそれでいいと思うけど、他人はそれだけじゃあ自分にお金を払ってくれないってこと。雇われるということは、会社が自分の仕事に対して<現金>という紛れもない形で答えてもらうということ。
だから「頑張ったね、えらいね」ってほめてもらいたいだけならタダだけど、お金が欲しいならこっちも数字や目に見えるもので相手に訴えなければならないのだ、ということ。
それが私が1番就活の中で感じたことでした。努力した話なら、週に何回、何年、何時間やったのか。結果なら集団の中で何位になったのか、何円削減できたのか、何人お客さんを呼べたのか。結果には特に数字が必要でした。

これは多分就活だけの話じゃなくて社会に出たらずっとこうなんだなと思いました。
ありていに言えばPDCA(PLAN DO CHECK ACTION)サイクルをちゃんとやれってことなんだろうけど、学生の内はそういうのってあんまり言われないから結構衝撃でした。
もちろん、学生はそういうこと言われないからこそ、やる気があれば何でも挑戦できてそれは本当に貴重な場だと改めて感じることにもなったのだけど。



…やっぱり1年ぶりに日記書くと長くなります。。。
とりあえず就活については次にあと少し書いて終わります。
あ、一応これは私個人の感想なので理系の人や、他の人は全然違う感想を持つと思います。
勢いだけで書いたので纏まりなくてすみません。
では。
注:さーいーごーだーけー


登場人物は「母」「幼女」「医師」の三人
幼女の生えてこない歯を心配し母が医師のもとへ幼女を連れてくるだけの話。

まぁ、これは何を意味するのかについて考えてみたわけです。
で、生煮えなのでここに投下(ノ゚ο゚)ノ

今まで授業でカーニバル論とかやってましたが、
ようは『私率』においていままでのイジメとは別の新しい人間関係、新しい世界に主人公は到達できたのかというのが疑問提起。ラストはハッピーエンドなのか? ということ
できていません! というのが私の仮定。

で、その根拠↓↓
それぞれの名前の振り方。
たとえば、母にとって幼女は「娘」、医師にとっては幼女は「患者」
名前同士のつながりがぶつんと切られてるんですね。意図的かと思うほどに。
それまで『私率』の日記の中では「お母さん」と「おまえ」で、他者とのつながりを重視した呼び名だったのに、「幼女」というのが妙にひっかかった。
「これって、新しい人間関係とか以前にそもそも人間関係否定ですよね(-。-;)?」
というイメージを受け取ったわけです。
そこではっと気付いたのが、最後のセリフなんですけど、医者が母と幼女の後ろ姿をみて呟くんですね
「おだいじに」
と。
おだいじにって、この言葉の中に主語が無いじゃん!と思って。
主語が無い言葉は『私率』において重要なモチーフだからそこを考えて、云々…と。
その結果、
主語が無いっていうのは、私もあなたもない=人間関係否定なんじゃないかなぁ。となったんです。



※以下言い訳。
こういう内容をレポートに書きたかった。
でもこれはラストシーンだから、ここを書くにはそれまでを踏まえなければならなかった。
だから
1、最初のカーニバルは失敗(青木のアパートの前で崩壊)
 ↓
2、失敗した理由
 ↓
3、そもそもカーニバルしたかった理由
 ↓
4、以上を踏まえ、ラストはどうなった?

という構成したんですけど、この時点で嫌な予感はしていたんですけど
1の時点で指定文字数1500字オーバーになって、
あーどうしようとかなってたら滅茶苦茶なレポートになりました。はは(^▽^;)

でも、滅茶苦茶な構成抜きにしてもやっぱりラストは考察不足な気がするので
いっそのことと投下してみました。

気になるのはやはり「おだいじに」
主語が無い文章と言うのはたぶん納得してくれると思うんですけど、
なぜ最後にこの主語のない文章を持ってきたか。

だれかおしえてヽ(;´ω`)ノ




わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)/川上 未映子

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ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)/伊藤 計劃

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 『ハーモニー』を読み終えたあと、奇妙な違和感が残った。この物語は見事な世界観で構成されているように見えるが、至る所に<綻び>があえて隠されているように感じた。ハッピーエンドに思えるが、実は未解決のまま放置されてしまった問題がある。そしてそれよりも気になったのは、この小説の感情描写の方法だ。

 『ハーモニー』における重要な登場人物はかつて少女だった三人の女性。彼女らの少女時代はこの物語で重要な部分を担っており、その時感じた<社会への絶望感>は物語の鍵の一つである。話の序盤、世界に絶望した少女たちは自殺を試みる――この少女たち以外でも、子供の高い自殺率は深刻な社会問題だった。この問題はラストで解決されたと思ったが、それは違った。大人が持つ絶望感は全て消されたが、子供たちは何も変わらないままだったのだ。よって自殺問題は解決しておらず、そしてこの問題は未解決のまま終わらせてよいほど些細なものとは思えなかった。この<社会への絶望感>が現代の日本に漂っている空気とどことなく似ているのも注目せざるを得ない。

 この問題を解決しないにかかわらず、「いま人類は、とても幸福だ」と言い放って『ハーモニー』は終わってしまう。この言葉が真実かどうか判断するために、一つ注目したい点がある。「幸福だ」という言葉は感情の表現であることは明らかであるが、この『ハーモニー』における描写のルールとして<感情を表すときはそれに適応したプログラムを用いる>ことが定められている。たとえば主人公が食事を楽しんでいるときは<relax>、父の死に面したときには<mourn>が使われている。それに対し「今人類は、とても幸福だ」の文には書かれていなかった。また最終章に入ってからというもの、主人公が泣いても「悲しくなった」と地の文に書かかれていても、そこに<sad>や<anger>といったプログラムは姿を全く消してしまっている。

 これらの中になんらかの作者の意図が隠されているのに違いない。感情表現としてのプログラムに至っては、偶然やただの書き忘れと言い切るにはあまりにも作為的なものを感じてしまう。著者は<happy>の欠如した「幸福だ」という結末を用いることによって、本当にこれが幸せだと思えるのかと――<happy>のない幸福に浸り思考を停止し、気付かねばならない不調和を見過ごしてしまっているのは、実は『ハーモニー』の外にいる私たち読者のほうではないのかと、辛辣に読者へ問いかけているのではないだろうか。そのようにしてもう一度この本を開くと、もはやただのフィクションと捉えられる物語ではなくなるのである。


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そろそろ時効かなということで。昔書いたやつです。
何を言いたいかと言えば、やっぱり「最終章でのプログラム欠如」は何を意味しているんだろうってことなんですよね。
この場合、プログラムをあえて書かなかったってことになるし、あえて書かなかったのは著者でなくてエピローグに出てくる「誰か」になるし、でもその「誰か」は感情はわからないはずだから「あえて」書かないなんて芸当できないし……とかぐるぐるまとまらず。誰か教えて(´_`。)

でもまぁこういうメタメタした感じは円城塔さん得意そうだし、円城風味伊藤計劃をまったり待ちますかねー。
 これを読んでいるあなた、とりあえず騙されたと思って、あなたが使っているウェブブラウザの右上にある検索機能に、好きなアイドルの名前を入れてみて頂きたい。好きな女優でも構わない。彼女達を我々がテレビでよく見かけることが重要なのだ。検索結果の最初のページに、公式のプロフィールかウィキペディアの人物ページが出ていると思う。そのどれかをクリックしてほしい。あなたがチェックすべきは誕生日でも趣味の欄でも無い。その脇に小さく書かれた身長である。あと、それをチェックしたらすぐにこのページに戻ってきていただきたい。

念のために→
ウィキペディア

 どうだろう。これを読んだ男性諸君は恐らく、椅子から立ち上がり自分の顎や肩に地面と水平にした手のひらを当て、このくらいなんだな、とやったに違いない。そう、そのくらいなのだ。ちなみに、あなたが手のひらを置いた高さから中指くらいの長さを引いた所が目、そこから中指から手首くらいまでの長さを引いた場所が、肩である。某音楽番組の舞台で華麗に歌って踊り、たくさんのドラマに出ている彼女達の身体のサイズは、そのくらいなのである。さあ、どうだろう。今までテレビの中だけの存在だと思っていた彼女達が、少しだけ身近な存在になったような気がしないだろうか。


 多くの人から愛される対象に『idol』、つまり偶像という言葉を当てたように、テレビで見ている限り、彼女達は我々が作った偶像であり続ける。偶像、つまり実在はしないものだ。アイドル達に限らず、映像や写真でしか目にする事の無い人間は、それを目にする我々にとって何時の間にか「その中にしか存在しない存在」になってしまう。彼・彼女達がテレビに映っていない間は日常生活を送っている事を頭では知っておきながら、具体的なイメージを持てないでいる。東京近郊の何処かにワンルームを借りて、コンビニで買い物をしたりしている事を頭では知っていながらそれを理解していない。『アイドルはうんちしない』がそれの最たる例だ。当たり前の事について考える事を拒絶して、偶像となったアイドル達を見る事しか我々にはできない。


 そこで冒頭で触れた、身長だ。

 テレビに映っているアイドル達をリアリティのある物としてとらえるために一番必要なのは、彼女達の具体的な形を想像する事だ。生年月日や趣味はあくまで情報でしか無く、彼女達の身体とは到底結び付かない。体重などを知っても、抱き上げる時のイメージトレーニングにしかならない。スリーサイズに関しては、公開されている事も稀だし、正しいのかどうかもわからない。それに、これを自分との比較で捉えられるのは女性だけだ。
 ここで一番重要なのが、イメージする対象物と自分が同じ土俵に立って比較できる事である。身長をアイドル同士で比較しているうちは、そこに自分が全く入って来ない。しかし、その中に突如として自分が加わったらどう思うだろうか。彼女たちのサイズがよりしっかりとイメージできるようになるではないか。彼女と自分が並んで立つ絵を想像する事によって、我々は彼女達が実際に存在している事を何となく理解できる。そして、偶像から実際に存在している人間に少しだけ近付く。

 別にこれをした事によって何かが変わる事は無い。生産性の無い妄想は、男―15センチっていう丁度いいバランスだな、とか、俺が高すぎて隣に座る時は丁度いい場所に肩が来なそうだな、とか、一通りのシミュレーションをした後、あなたの発する「なるほどね」、の一言で終わりを告げる。その後には何も残らない。


 念のために言っておくが、あなたがいくらアイドル達に近付いたように感じても、それは気のせいでしか無い。


 私、ミスコンに出る。
 彼女は足を動かすのに合わせて持った鞄を大きく振り回しながら言った。じめじめした季節が終わった頃、皆でお酒を飲みに行った帰り道の事だった。僕は驚いて横を見たが、彼女は視線を電灯の方に泳がせるだけで次の言葉をなかなか出さない。振り回した鞄が彼女の身体に当たる音とアスファルトと靴がこすれる音だけが薄暗い夜道に響く。そうなんだ、と口を開くのと同時に彼女の鞄が身体に当たって、僕の言葉は何処かへ消えてしまった。
 僕は家に帰ってから、これから彼女に降りかかるであろう数々の災難に、あくまで勝手に胸を痛めた。

 後期の授業は、学校中に貼りだされたミスコンのポスターに度肝を抜かれる事から始まった。他の出場者に混じって彼女の大きな写真が掲示板に貼られていた。彼女に合うよりも早く、彼女の写真を見てしまった。

 最後に合った時とは違う髪形をしている。夏の頃よりも髪は薄い色に染められていて、気にしていた広いおでこは前髪によって上手いようにカバーされていた。頭を少しだけ斜めに向けて、両方の目がきちんとこちらを向いている。その巨大ポスターの前を素通りする振りをして、僕はなんども彼女と目を合わせた。
 大学のキャンパスを少し進むごとに、彼女の顔が目に入った。大きなポスターや男が持つチラシの中に彼女がいて、誰かを見つめて微笑んでいた。それに気付く度に、あの日は僕の方を見なかった彼女の目の形を思い出した。

 あの子、お前の友達? と聞かれる事が多くなった。所属している学課が同じと言うだけで、皆は僕が彼女と繋がっていると思ったのだろう。友達以上でも、それ以下でも無かった。そうだけど、と答えると彼らは決まって、どんな子なの、と聞くのだ。僕は彼女の姿を思い出してから、口を開く。

 ポスターではなんとかかわいく映ってるけどさ、結構変なヤツだよ。人の話を聞かないでベラベラ喋るし、女の子のクセにスタバが苦手で慌てるし、お酒飲むとすぐに背中バンバン叩くし。
 そう言いたいのを堪えて、普通のかわいい子だよ、と答える。
 僕は、彼女が酷い人見知りな事を知っている。そのせいで、一年生の頃に好きだったサークルの先輩を他の一年生に取られてしまった事を知っている。それがきっかけでダイエットをはじめて、彼女がこの一年で5キロも体重を落とした事を知っているし、痩せる前の今より少しだけ地味な彼女も知っている。しかし、そんな事は彼らには関係が無い。
 ポスターに押し込められた彼女は、不特定多数の人間から好奇の目にさらされる。彼らが気にするのはかわいいかそうでないかだけだ。彼女の足が細いかとか、芸能人の誰に似ているとか、そんな所をずっと眺めてはやし立てているだけで、彼女がどういう女の子かなんて関係が無い。僕が彼女と交わした数えきれない言葉だって彼らにとっては無意味で、僕と彼女の関係はゼロかイチかの薄っぺらな物になってしまう。お前らに何がわかるんだよ、と大声を出す事も、黙って椅子から腰を上げて何処かに行ってしまう事も出来ないまま、彼女について皆が喋るのを聞くフリをしていた。

 僕がミスコンのステージに到着したのは最終結果が発表される直前だった。行く事をずっとためらっていたが、絶対に来るように念を押した彼女の事を思い出して、気が付いたらステージに向かって駆け出していた。

 短いドラムロールの後、大げさな音楽に合わせてウエディングドレスを纏った出場者達がステージの脇から顔を出す。そこの中心にいるのが彼女だ。新しい髪形はここ一カ月で見慣れてしまっていたし、暗い路地で何度も見た彼女の姿を見間違う訳が無かった。
 僕の周りにいる生徒たちが、手を叩きだした。一斉に燈された照明のせいで、ステージだけでなく観客の顔までもが明るくなっている。前の男が、甲高い声を挙げた。隣の女が、出場者の事だろうか、大きな声で誰かの名前を叫んだ。ステージが明かりと歓声に包まれて、その中心に立っている彼女の表情が、すこしだけ緩むのが見えた。
 観客の誰かが、彼女の名前を大声で呼んだ。あれだけ苦い思いをしたのに、その度に少しだけくすぐったい気持ちになる。僕、あの子の友達なんですよ。隣に立っている人に話しかけたくなった。入学した時から知ってるんですけど、その頃はもっと地味だったんですよ。そう言って、彼女の事を自慢したい気分だった。
 僕と彼女を結び付けている物は、省略できてしまうような些細なものだ。その気になれば簡単に断ち切られて、一瞬で無くなってしまうようなものだ。しかしそれでも、ステージの上の彼女と僕が繋がっている事が少しだけ嬉しかった。
 しかし、どんなに声を大にして伝えたって、僕はステージ前に溢れる観客のひとりだった。彼女の笑顔に目を奪われて大声で名前を呼ぶ大勢のうちのひとりで、ステージの上からでは見わけがつかないただの観客だ。彼女がマイクを使って発した言葉は大勢の人間に吸われて、僕のもとに届くのはほんの少しだった。
 ここからどんなに手を伸ばした所で彼女には届かない。そう思ったら観客が彼女の名前を呼ぶのが嫌になって、すぐに止めさせた方がいいんじゃないかとか、いやすぐに彼女をステージから引きずりおろそうとか、そんな思いが芽生えたが何とか打ち消した。僕ができる事は、ステージの上にいる彼女が近いうちに僕の手の届く所に戻ってきてくれるのを願う事だけだった。
 明日、僕の電話は彼女の携帯電話を鳴らす事ができるのだろうか。一大イベントを終えた彼女に言葉をかける事ができるのだろうか。眩しさに目を凝らして彼女を見ながら、そんな事を考えている。