ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)/伊藤 計劃

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 『ハーモニー』を読み終えたあと、奇妙な違和感が残った。この物語は見事な世界観で構成されているように見えるが、至る所に<綻び>があえて隠されているように感じた。ハッピーエンドに思えるが、実は未解決のまま放置されてしまった問題がある。そしてそれよりも気になったのは、この小説の感情描写の方法だ。

 『ハーモニー』における重要な登場人物はかつて少女だった三人の女性。彼女らの少女時代はこの物語で重要な部分を担っており、その時感じた<社会への絶望感>は物語の鍵の一つである。話の序盤、世界に絶望した少女たちは自殺を試みる――この少女たち以外でも、子供の高い自殺率は深刻な社会問題だった。この問題はラストで解決されたと思ったが、それは違った。大人が持つ絶望感は全て消されたが、子供たちは何も変わらないままだったのだ。よって自殺問題は解決しておらず、そしてこの問題は未解決のまま終わらせてよいほど些細なものとは思えなかった。この<社会への絶望感>が現代の日本に漂っている空気とどことなく似ているのも注目せざるを得ない。

 この問題を解決しないにかかわらず、「いま人類は、とても幸福だ」と言い放って『ハーモニー』は終わってしまう。この言葉が真実かどうか判断するために、一つ注目したい点がある。「幸福だ」という言葉は感情の表現であることは明らかであるが、この『ハーモニー』における描写のルールとして<感情を表すときはそれに適応したプログラムを用いる>ことが定められている。たとえば主人公が食事を楽しんでいるときは<relax>、父の死に面したときには<mourn>が使われている。それに対し「今人類は、とても幸福だ」の文には書かれていなかった。また最終章に入ってからというもの、主人公が泣いても「悲しくなった」と地の文に書かかれていても、そこに<sad>や<anger>といったプログラムは姿を全く消してしまっている。

 これらの中になんらかの作者の意図が隠されているのに違いない。感情表現としてのプログラムに至っては、偶然やただの書き忘れと言い切るにはあまりにも作為的なものを感じてしまう。著者は<happy>の欠如した「幸福だ」という結末を用いることによって、本当にこれが幸せだと思えるのかと――<happy>のない幸福に浸り思考を停止し、気付かねばならない不調和を見過ごしてしまっているのは、実は『ハーモニー』の外にいる私たち読者のほうではないのかと、辛辣に読者へ問いかけているのではないだろうか。そのようにしてもう一度この本を開くと、もはやただのフィクションと捉えられる物語ではなくなるのである。


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そろそろ時効かなということで。昔書いたやつです。
何を言いたいかと言えば、やっぱり「最終章でのプログラム欠如」は何を意味しているんだろうってことなんですよね。
この場合、プログラムをあえて書かなかったってことになるし、あえて書かなかったのは著者でなくてエピローグに出てくる「誰か」になるし、でもその「誰か」は感情はわからないはずだから「あえて」書かないなんて芸当できないし……とかぐるぐるまとまらず。誰か教えて(´_`。)

でもまぁこういうメタメタした感じは円城塔さん得意そうだし、円城風味伊藤計劃をまったり待ちますかねー。