先日、真剣で巻藁を切ってきました。
いままで、木刀を振ってきたとしても、模擬刀で抜刀をしたとしても、
百聞は一見にしかず、、とはよく言ったもので、
真剣で物を切ってわかることがあるのだということを痛切に感じることができるのです。
巻藁を切断するというシンプルな目標は自分にとって、今まではあくまでも想像の世界であって、実際リアルに切断するという現実とのギャップを埋めていくことが、今回のポイントとなるのです。
シンプルに巻藁を切るという作業でさえ、多くの無意識が介在して、思い浮かべていた結果との差異を多く作るのです。
その差異の受け取り方と修正の仕方が重要ということなのです。
この巻藁切りからわかることは二つです。
どれだけ似せて作った木刀であれ、模擬刀であれ、死ぬほど振ったとしても、どれだけ形を綺麗に整えても、巻藁を切り落とすという目的を掲げた時、その目標が到達できないのであれば、空論となるのです。
つまり、目的が違えば、同じような動きであっても全く別物となることが多々あり、そうなると同じ土俵で語ることは出来ないということになるのです。
たとえば、同じ打撃でも、意識を奪うためのもの、破壊するためのもの、殺すためのもの、、
その3つの目的の差異は明らかに技の質の変化をもたらします。
同じカテゴリの武道、格闘技でも競技においてそのベースをハッキリしておかないと、
先程書いた通り同じ土俵だと思っていても、外からは見えない個人の考え方の差で、実は違う戦いになっているのではないか、、ということです。
そういうことを厳密に理解していかないと、無駄な時間をすごことになるのです。
上記が一つ目ということでいうと、二つ目は、目的を持たないというやり方です。
巻藁を切るという目的を持たずに、結果切っているという作業にする。
そのために最も適切なる意識の状態、身体の状態でただ剣を振る。結果上手く切断されていればそれだけのもので、あまり結果にこだわらず、期待しないようにするやり方。
おそらく、世の達人と言われる方々は後者のほうが上位だと気付き、そちらの方にシフトしていくのだと思います。
なんていう屁理屈などつらつらと考えたりもしつつ、、
今回巻藁を準備していただいたF田さんは、所属されている団体のために、そしてご自身の稽古のためにとあるルートを通じてその材料となる畳を用意されているとのことですが、
よくよく話を聞いていると"巻藁切り"のための畳の供給と、それを準備する奉仕活動を主体的、継続的にできる人の存在がとても重要で、それがなくなれば団体の存続ですら危うくなるということのようで、
今回の体験は、とても恵まれた環境なのだと感じ入った次第です。
ハンドリングしていただいた空手家のH本さん、全てを用意していただいた先程のF田さんに感謝いたします。
自分なりに稽古していきたいと思います。
またよろしくお願いいたします。
修行は続く、、、