母体武道 合気道 無元塾(クラニオアイキ)

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成田伝伝合気道で唱えられた母体武道をさらに洗練させて、武道のみならず、セラピー、ボディワーク、普段の立ち居振る舞いなどの根元となる普遍的なものをお伝えしております。

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子供の頃見た"どろろ"が現代版でリメークされています。

 
とても興味深く見ています。
 
絵の雰囲気は手塚治虫風ではではなく、もう少しリアルなのですが、全く違和感がなくむしろ今回の方が個人的には好みです。
 
あらすじは、ご存知かもしれませんが、ザクっと書くと、
 
戦国時代の武将が、ある寺のお堂で魔物に通じる48体の魔神像に天下取りを願い出て、その代償として魔神の要求する通り、間もなく生まれる自分の子を生贄として彼らに捧げることを誓う。
 
その後、誕生した赤ん坊(百鬼丸)は身体の48箇所を欠損した状態で生まれ、母親と引き離されて化け物としてそのまま川に流され、捨てられてしまう。医者に拾われた赤ん坊は、彼の手により義手や義足を与えられ、そこに仕込んだ刀で魔物を倒して自分の体を取り戻していくという話なのですが、
 
そうすると題名は”百鬼丸”でいいとも思うのですが、なぜか途中で出会う泥棒の子供の名前である”どろろ”がアニメのタイトルになっているという、当時、単純になぜ?という疑問があったことを思い出します。
 
50年経っても、記憶に刷り込まれているアニメなのですが、いろいろ調べてみるとそんなに視聴率はよくなかったとか、
それは暗いイメージの内容だからだとか、最終的には”どろろ”は女の子だったとか、そして話として完結していないという、、、
 
あー、いつまでも完結欲求が続くから、記憶にとどまっているのかとまで考えてしまいます。
 
そして、その百鬼丸は、視覚、聴覚、触覚、手、足などを取り返せば取り返すほど、より当たり前の人間になればなるほど、悩み、苦しみ、弱くなっていく、それでも自分の体を取り戻すために、魔物と戦っていかなければならないという、
 
人間が生きて、成長していく過程を象徴しているような設定となっているのです。
 
生まれながらに背負った絶望的な状況、肉親との関係性、執着、嫉妬、事実を知ることの懊悩、怒り、不安、恐怖、その中にも存在する希望。
 
まさにすべての人に多かれ少なかれ起こりうる状況がそのストーリーに偏在するのです。
 
 
ここの合気道は、他の武道では言語化していない中心帰納という質感を、探り求めていきます。
 
その質感を感得するできるように、様々な切り口から確認をしていきます。
 
その結果現れた形が技であったり、周囲との関係性の変化であったりするのですが、
 
そこにはその人が持って生まれた、その人なりの質というものがあり、同じ中心帰納を理解し、自分のものにしていっても、現れるものは少しずつ違ったりするのです。
 
百鬼丸が魔物から自分の体を取り戻していくほど弱くなっていくように、我々が社会で生きていくにはそんなに重要視されない中心帰納という本質的な感覚を意識し始めるということは、
 
しばらくは、前よりも合気道が下手になったような感覚もあります。
 
場合によっては無駄であるかのように感じるかもしれません。
 
しかし、実際、成田先生のようなそれを使いこなしている先生に出会って、それによって現れた技や質感に触れてしまった時、その歴然とした違いに驚き、どうしても手に入れたいという衝動と、それを手に入れるためのノウハウの情報の少なさに絶望するのです。
 
百鬼丸は具体的な手足目口耳皮膚などなど情報をインプットする機能を得ることで、混乱を起こします。
 
我々の場合は、具体的な枝葉末節な感覚思考から抽象的な中心帰納という本質を理解獲得するなかで、方向性としては逆ですが、やはり、混乱をするのです。
 
そのことで、沸き起こってくる、悩み、苦しみ、不安、人によっては怒りも出てくるかもしれません。
 
なぜなら、耳元でそんなことは無駄なことであるという常にささやく誰かが自分の中に存在するからです。
 
それでも成し遂げるには、それがプロセスなのだと信じるしか手立てはないのです。
 
 
 
さて、このアニメを見ていて、別のことで気が付いたことがあります。、必然的にそうならざるを得ないのだと考えもするのですが、
 
それは、手足がなく、ほぼ胴体しかなくて、義手に仕込んだ刀で、巨大な魔物と戦うシーンなんかの百鬼丸の動きは、あたかも胴体を中心に球のような動きで対戦させているのです。
 
成田先生は、強力なものがバーッと襲ってきたときどうやって対応するべきかを、よく球にたとえて話してらっしゃいました。
そんな時小手先のテクニックでは歯が立たないともおっしゃってました。
 
具体的な、こー来ればこーするというパターン的なテクニックはなく、球になり切ることを稽古するということです。
 
中心帰納という意識の仕方、球になりきるというイメージ、いずれも絶望と希望の狭間を揺れ動く稽古プロセスを信じて、続けるしか光明は見出せないのです。
 
さて、今回の"どろろ"はどういう終わり方をするのかとても楽しみです。
 
 
\(^o^)/
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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