行動しなければ、進まないということを自分に言い聞かせて、決めることを、決めました。^_^
北海道では去年も10月にやりましたので、今年で2回目となります。
ここ無元塾は特に組織としてやっているわけではないのですが、
中心帰納を広めるという活動をモチベーション高く続けるには、そういう行動をしていかなければいけないのだと自分に言い聞かせているのです。
企業で言えば、経営理念というところでしょうか、、(^^;
綺麗事ではないなですが、これは自分のためだけにやっているのではないのです。
人や社会にとっても、有益なものだと信じているのです。
ところで、
この中心帰納をやれば強くなれるということでは決して無いのです。
場合によっては、言い方は変ですが、弱くもなるのです。
武道をやるからには強い方がいいに決まっていると思いがちですが、それはどんなに極めても相対的なものでしかないと考えるのです。
そして、どんなに強い人でも必ず壁にぶち当たるのです。
そして必ず弱くなっていくのです。
例えば、老化というものも、その要因の一つです。
そして、
戦いの勝ち負けとは間違いなくジャンケンのようなものだという考え方に行き着くのです。
仮に、
ある側面的な指標で強さが際立っていても、別の側面では逆転することは、当たり前のことで、
実はそんなことは皆んなわかっていることなのです。
でも、それでも、
人は強くなることを理想として、努力して、それに近づこうとし、その理想に近い人を英雄視するのです。
それは、武道、格闘技に限った話ではありません。全てのカテゴリーで言えることなのです。
そういう人はきっと、ここの中心帰納を強さを補強するツールだと考える可能性があるのです。
そして、そういう考え方でいる間は、中心帰納の本質はわからないということなのです。
全く逆なんです。
外にある他に対する自分の意識、認識、思考、それらによる感情そしてその反応を俯瞰的に観るために、自分の意識を自分の中心に置き直すことで、その時に起こる、内側の変化、外側で起こる反応を感じ、認識する。
それを、対立、衝突が起こった時、慣れてくれば、それらが起こりそうなタイミングの直前にやるのです。
その結果、上手くいけば相手は崩れ、武道であれば、その技に応用できる可能性があるだけなのです。
でもやっているうちに、やはり、そう崩したいという意識が生まれ始め、その意識がアダとなってまたできなくなっていく、、というパターンが出てくるのです。
そして、今度はそのパターン(自分のクセ)を観ていくのです。
そういうことを型稽古の中で、乱取りの中で繰り返して観ていくのです。
きっとこのパターンの中には、普段の生活の中で無意識的、自動的に発動しているその人なりのクセがたくさん内包されているはずなのです。
それを意識的に観ていくのです。
今の説明を聞いて、きっと最初に書いた、強さという側面で見た時、強くもなるし場合によっては弱くもなるという意味をご理解いただけるのではないでしょうか。
強さに固執してそれを追求するということは、パワー、スピード、タイミングへの固執に繋がり、また千万の技の習得の渇望が絶え間なく湧き起こるに違いありません。
ここは、中心帰納というたった一つのことを、教わり、稽古の場のみならず、普段の生活の中でその意識遣いを実践して、立ち居振る舞いがそのまま合気道の稽古になるように、
なんなら中心帰納自体が瞬間瞑想となり、その立ち居振る舞い自体が瞑想となるように、自ずから仕向けていくのです。
そのことを理解することができれば、まさにここの合気道が無対立の技であり、
ストレスの最大原因が人間関係からという理屈から考えると、そのストレスが中心帰納により緩和されていくということを理解することができ、
人や社会にまでも有益であるという前述の理由となるのです。
そんなところまで、講習会で説明できればなと、
考えながら、地道に稽古を続けていきたいと思います。
\(^o^)/