明治時代、新渡戸稲造という思想家であり、教育学者が"武士道"という著述の中で、日本のモラル、価値基準の形成に、武士道という神道と仏教と儒教などを織り交ぜられた思想があり、それが一役をかっているということが書かれています。
それは当時の海外の学者からの、
日本では宗教教育がなくどうやって道徳心を養うのかという問いの回答でもあるのですが、
では、ここの合気道はその武士道と同じものなのかというと、少し違う気がするのです。
なぜ少しボヤけた回答をするのかというと、武士道自体を明確に理解していないのと、
おそらく、経典や教科書があるわけでもなく、漠然と引き継がれたものなので、絶対的な意味合いを知らないからなのですが、
しかし、それでもやはり違うと思うのです。
決して、言葉としての、礼、義、勇、誠、忠、、などを習わずとも、
中心帰納という意識の置き処を理解し、感じ、そして相対する稽古のときに起こる現象と、その時の自分の中を客観的に観ていくことを繰り返していくと、
どうやっても傲慢には成れず、他を尊重し、ただ杓子定規に正論をいうのではなく、無秩序の中にあって秩序を保つというバランスを理解し、自然というものが、人間の世界と隔絶したものという解釈ではなく、人間も含めて、自然なのだということや、広大な宇宙というものが、限りなく微細なものの集まりであるということも、目に見えないものによって物質が成り立っているということも、どんな人も世の全てとなんらかの繋がりがあり、人類の起源がアフリカにあって、どんな人も大差はなく、そして尊い存在であり、自分の親や先祖を想い、家族や、近隣の人や、属する集団や、社会を大切にするような考え方に自然となってくるのです。
成田先生はいつも、我々の中にある"本心"のことをよくおっしゃってました。
それは決して、エゴそのものの"本音"ということではなく、エゴを監視しているスーパーエゴのことでもなく、
我々が普段意識していない、無意識的に自分を一段高いところから観ていて、そしてそのハタラキとして、ここ一番必要な時に、一番最適なことをするインテリジェンスな存在のことで、
禅では、"真我"とか言われているようなもののようで、それも本当はわからないのですが、
そういうものが出るように、そういう無意識的ハタラキが稼働することを念願しながら、
そのための稽古システムを繰り返すのです。
そして "それ" が発動することを、成田先生は”思わざる”という表現で、
”思わざる技”が最高なのだとおっしゃっていました。
殺し合いから発祥した行為にあって、
様々な思想を取り入れ、単なるこじ付けではなく、
事理一致した理合と技を見出し、
強いとか弱いとかいうよりも、
その精度を上げていく稽古をしていく、、、
”それ”を感じようとすることで、信じるという力がつき、継続することで自己肯定感もあがり、あらゆる難局を受け入れ、周りを想い、自己修正という手段で対応に努めるのです。
あとは、運命に身を任せる。
ここの合気道の価値基準とはそういうものなのです。
そして、その結果どういう状態にあっても、
それは成功なのです。
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