フルコンタクト空手の最大手で20年というキャリアということで、最初に来られる時、体に鎧を纏ったような人かと想像したいたのですが、
その方は思いの外、華奢なイメージだったので意外な感じだったことを思いだします。
しかし、
よく武道で"細腕には気をつけろ"と言われている通り、
手を合わしてみると、とても芯が強く、しなやかで、打撃を想定するととても気が抜けない感じです。
身体操作的な観点からはおそらく日本の名だたるところで習ってこられているのだと、触れても、話していてもわかります。
当然その身体的なノウハウはその方の財産であることは間違いないのですが、最後のピースを埋めるために彷徨われている感じでした。
その方は無住心剣も研究されていて、ここの入身が同質なものだと直感されたのだということです。
そしてその入身のために、ここの教えのコア概念である"中心帰納"が必要不可欠なのだということを理解し、研鑽されているのです。
少し脱線しますが、
今までお会いしてきたフルコンタクト空手をされている皆さんは、とても優しい方が多いという印象です。
おそらく自分の強さの限界を突き詰めて稽古し、強さというものが相対的なものであるということを実感されてらっしゃるからこその優しさのだと思います。
成田伝合気道の教えの中に、武道を修練する中で、虚勢を張って"威(い)"を表すのではなく、放って置いても自己一致したその人なりの、その段階としての"位(い)"が自然と滲み出るようものだというものがあります。
放っておけば無秩序化する世界の中で、無理に"威"を表さなくとも、自然と備わった位(くらい)がその周りの秩序を促すのです。
ご自身の限界に向き合っているからこそ、そういう質が現れるのだと思うのです。
それは決して条件付けされた競技の中での順番が決める位とは違うのです。
そういうことを考えると、わたしも含めて大体の人は自分を突き詰めるのにも、身体というより、けっこう思考に偏って、惑わされていて、また自分の中で勝手に限界を決めてアーダコーダ言っているような感じがします。
その方は、フルコンタクト競技の中で、何回も骨を折り、己の身体の限界を知り、様々な身体的操作を研究して、ここの心法にたどり着かれたのです。
つまり今までの積み重ねて来られた断片をここの中心帰納という膠で繋ぎ合わすことが出来ると理解されたのだと思います。
おそらくここの教えを学びにくる方は、
わたし自身も含めて、なんらかのコンプレックスを持っている方だと思うのです。
武道をする皆が、魔法のテクニックに憧れていて、
でもさすがに、魔法などというものは信じられないので、大方のリアリストは身体操作というところで落とし所にして、そこで手を打つのです。
でもやっていくと、それはそれでまた壁に突き当たるのです。
そうしていく中で、ある割合のロマンチストな要素を持つ人は、"気"という魔法とまでは言わないまでも、目に見えない存在に可能性を見出そうとされるのだと思います。
わたしは気という概念を否定はしません。
同時に積極的に、意識的に言葉としては多用もしません。
なぜなら、よくわからないし、コントロール出来るノウハウを知らないからです。
でもここの合気道は、意識に関してのノウハウを持っているのです。
なので、そのノウハウを通じて、意識遣いを考えていくのです。
意識ならある程度の範囲はコントロールできるのです。
ここにいらっしゃった方の中に気功に詳しい方がいらっしゃったのですが、
その方は意識の動きに対応して気が動くとおっしゃっていました。
きっとそうなんだろうと思います。
でも、やっぱり気に関しては、分からないことが多すぎるのです。
なので、それは思わざる領域に置くこにとして、敢えて多くは語らないのです。
ここの合気道は、コントロール出来る自分の意識の動き、置き所、そして自分の中で何が起こっているのかを観ていくのです。
そういう内観の結果現れる、それぞれのキャラクターによって違う表現としての、そして内部感覚としての、強さ、柔軟性、繊細な内動、そして、ある種の境地のようなものを少しずつ実感していくのです。
今回の認定者の方は、競技としての強い空手の世界に存在しながら、ここの心法を説くという、
ある種イバラの道を歩み始めてらっしゃるということなのですが、
その方から滲み出る"位"による存在感で、
接する人により慕われ、
そして中心帰納というものを広めていただけることを期待している次第です。
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