前回のブログの内容を見て、成田先生から連絡がありました。
お袋の容体を
ご心配いただいてワザワザお電話までいだいてとても恐縮してしまいました。
「5分でもいいから、お母さんに会いに行ってあげてください。」
そうおっしゃっていただきました。
先生の奥様も子供の顔を見られると喜んでいらっしゃったとのこと。
先生ご自身も軽い脳梗塞の症状で何回かご入院され、季節の変わり目には体調を崩されたりして、
また何よりも、先月、長く看病されていた奥様が亡くなられたばかりなのです。
そんな成田先生が気遣って電話をいただける、、
こころの底から感謝いたします。
そして、
齢90を超えて、表には出られなくなりましたが、未だ合気道を探求されている、、、
限りなく敬服いたします。
畏れ多くも、成田先生という存在を感じ、観て、
なおさらもって、感じること。
ひとは観念のもと生きている。
その観念の崇高さによって人の行動はきまってくる。
観念、、つまり考え方、、ということ。
成田先生は合気道という観念の中で、92歳という年齢で、現在でも稽古をし、探求しつづけてらっしゃるということなのです。
その観念は一つの世界として認識しても差し支えないものです。
そして、おそらく、世の中には、そういう観念は無限にある。
なので今現在生きているリアルであろうと考えている世界もその観念のフィルターを通して観ているということで、無限にあるということ。
それぞれの無限にある世界から、あたかも一つの世界があるかのように世界を語ったとしても、それぞれが違うことを同じだと思って話しているだけで、すべてを包括した世界などというものは無い、、、
最近ではそんな考え方になってきています。
つまり、ここでいう中心帰納という一つの言葉をとっても、
僕が考えるものと、他の人が考える中心帰納とはやはり、違うものなのです。
言い換えると、同じものは無いはずなのです。
しかし、その観念は、重ねる同質なものを持っていたり、隣り合っていたり、突拍子もなく異質なものではないハズなのです。
そのことを見越して、
敢えて、中心帰納という言葉で括って、説明、お伝えしてく。
受け取るほうはそういうことを理解する。
そういうことが分かり合える関係性の中での、稽古でないと、
きっと、中心帰納という抽象的なものは会得できないのだろうなとも思います。
\(^o^)/