久しぶりの動画です。
この動画は、表題の"合わせない"ということを表現しています。
もし、そこを解釈せずに同じようにしても、相手は違う質感を感じると思います。
こちらが合わせていないので、相手は最初は思いっきり打とうとしていても、途中から打ちたくなくなっているのです。
これを理解するためには、"合わせる"とはどういうことなのかがわかっている必要があるのです。
この種の稽古は、格闘技の稽古システムには無いのではないかと思います。
なぜなら、殴り合うことが前提だからだと思うのです。
殴り合うことが前提に全てがお膳立てされているということです。
そのためにグローブがあり、リングという空間があるのです。
成田先生はいつもその"殴り合い"の概念のことを、丁々発止(ちょうちょうはっし)と表現されててました。
もし相対する片方が、殴り合うことを前提としない考え方を持っていたら多分、殴ろうとしてもナカナカ当たらないのだと考えます。
殴りに来た相手の打撃に当たらないために必要なことは、それに対応するテクニックよりも、考え方の方が重要なのだと言うことです。
そもそも対応するテクニックと言っている事自体が、殴り合うことを前提としてるということなのです。
そのための考え方としての、"合わせない" なのです。
ただ難しいのは、戦いの様相を呈しているなかでの、"合わせない" 状態を作ることです。
そのために我々は、中心帰納を学ぶのです。
そして、その発展した延長線上に、"受け入れ" や
"無対立"を学んでいきます。
何年か前、NFLアメリンフットボールの99%の元選手が脳障害を負っているという記事が発表され、アメリカでまさに衝撃が走りました。
脳への衝撃による「慢性外傷性脳症」が発症する可能性があるスポーツは他にもあります。
競技試合のある格闘技、ボクシング、キックボクシング、空手、相撲、柔道、ラグビー、、、
頭部への衝撃の頻度で重症度は変わるようで、
これはよく知られているパンチドランカーはまさにこのことで、アルツハイマーなどの認知症、パーキンソン病などの発症が若年で発症されている方を見かけます。
頭部の衝撃に関しては、サッカーのヘディングですら警鐘を鳴らしている人もいるほどです。
でも決してこのことを否定しているのではありません。
そのことを理解して、そして覚悟してやればいいということなんです。
1994年に合気ニュースの平井稔先生のインタビューの記事の中に、
オリンピックのようなスポーツの勝敗の世界についての考え方を述べてらっしゃいます。
「そこでは死んだりする様なことは十中八九考えられない。そういう行事だとは思っていないわけですから、、、(中略)ルールと称する八百長があるわけですから、ルールがあって極限を出すということは、絶対に死なないということであり、もちろん怪我などしないということ。そこに天秤をかけてやっておるというわけだ。そういう見方を私はします。ルールを持って天秤をかけて、きわどくやって、実際に怪我をしないようにやる。これはなかなか難しいだろうなと思います。 」
なので、ここの合気道はこういう考え方でやっていくのです。
「本当の会得というものは殺られて見なければわからない。殺されたら稽古にならんから、柔軟に円を型取ってやりながら稽古をする。しかし本当にやるときは殺されるしかないと思う」
この考え方は、"合わせる"ことの中で、スピード、パワー、タイミングで競い合いあうのではなく、
自分の拍子を守り、自己滅却し、自己第一義で"合わせない"ということを学んでいくということなのです。
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