現状と目標の間にある障害を問題というらしい。
つまり目標がある限り問題は発生するということです。
ということは、目標を置かなければ問題は発生しないということ。
目標を置かないということは、
現状を受け入れるというであり、それ自体を目標にするということなので、問題が発生しようがない。
瞬間瞬間のパフォーマンスを最大限に発揮出来る様に、自分を整えていくようにする、、
という考え方がひとつ。
もう一つは、
やはり目標はたてて、
でも、現状と目標とのギャップや障害を問題と思わないようにする。
ただ、そのギャップや障害を観察する。
客観的に観るにとどめる。
でも、瞬間瞬間のパフォーマンスを最大限に発揮出来る様に、自分を整えていくようにする。
という考え方。
目標をたてる、たてないの違いは大きいようにも思えるけど、結局することは、
同じく、瞬間瞬間のパフォーマンスを最大限に発揮出来る様に、自分を整えていくようにすることなのです。
目標がないと向上出来ないと考えてしまうのは、ただそう思わされているだけで、それは思考のトリックなのです。
まず、やることは、自分の状態を正確に理解して、ちゃんと自分に向き合って、目を背けてはいけないということ。
多分、それが出来ないと、自分を整えることはできないのです。
逆に、それが出来ると、問題を問題としてとらえなくなるのです。
問題というより、課題の様なものに変質していて、むしろモチベーションを上げる要因になるのです。
なので、最悪の環境にあっても、その考え方によって、リラックスもできるし、楽しむこともできるし、幸せすら感じることもできるのです。
つまり、考え方次第だということです。
幸福とはある数値化された基準に到達することではなく、自分を幸せと感じられるという、考え方にしていくだけなのです。
ということは、考え方(思考)について、よくよく理解しなければならないということです。
いったい誰が、問題を問題とする考え方を持ってくるのか、、
せっかく自分の考え方のもと、問題を問題としないようにしたのに、他者の考え方に惑わされて、また問題としてぶり返していくようなこともよくあることです。
そういうようなことを、ここの合気道の技の成り立ちなどに当てはめて考えていきます。
当然、武道なので、強い方が説得力もあるし、自分自身にとっても、強くなっていくことで途中経過の達成感も味わうことができますが、
それ自体が弱さという問題を問題とみなして、強さを目指す轍(わだち)にハマった考え方なのです。
ここの合気道は、
相対的な強さを競って、自力の強さの高みを目指すのではなく、
相手との比較に対して自分が変化、修正することで対応するようにすることを学ぶのです。
相手との衝突が前もってわかった段階で、こちらを修正して整えておくようにします。
あとは自分の中の他力(無意識)にお任せする。
そういうことを意識した稽古をする。
そして、そういうことを理解した稽古システムを考える。
自分を修正して整えるためには、意識は出来るだけ自分の中の中心に置かないとうまくいかないということも学んでいきます。
自分の状態を理解し、知るために、自分の中心に意識を置くことがどのくらい有益なのか、
そういうことを、ここの合気道の稽古システムを通して、実感していくのです。
その実感を重ねることで、目の前にある問題を問題としてではなく、不安は不安として認識しつつ、恐怖は恐怖と理解しながら、
反射的に身を固めることなく、リラックスして、客観的に対応が出来るようになるのです。
そういうことが、”中心帰納”という言葉に集約されているのです。
なんか段々、くるくる回り始めたので、まとめると、
中心帰納する癖がつくと、自分を修正することで、相手が変化することが理解できるようになり、そのことが強さよりも重要なことだということがわかってくる、、ということなのです。
今更ながら、"中心帰納"は、今ココにいるための稽古なんだと思います。