せめて、真崎らしく。 -14ページ目

せめて、真崎らしく。

そんな感じです。




好きな男性のタイプは?


と聞かれたら俄然「重松清」な真崎であることは周知の事実だと思うんですけど




『熱球』


という本に出てくる
以下のセリフ



「『誰かのために』っていうのは、『誰かのせいで』と根っこは同じだと思うの」





重松さんの本の言葉にはことごとく共感を覚えていた真崎が


唯一

心の底から理解できなかったのが、このセリフ






いやいやいやいやいやいや

なんでですのん

「誰かのために」生きることこそ正しくて尊いことじゃないですのん








なんでこんなに



「自分のため」とか

「誰かのため」とか



いちいちこだわるようになったのか
未だによく分からないんですけど


今となっては
正直「どっちでもええがな」って感じなんですけど






大学5年生の春

ある研修を受けた時に聞いたこと



そのトレーナーさんは牧師さんだったので

聖書に基づいたリーダーシップの考え方を教えてくれました




「自分のため、つまり、自分が「認められるため」「愛されるため」の行動をしなくても、人はもうすでに神様から無条件で愛されている」


「だから、「自分のために」ではなく、もう愛されて満たされた者として、人に尽くしていく」







その考え方が

個人的にものすごくしっくりきたわけで





当時、ずいぶん自分に自信のあった私は



行いによって周りから「認められる」「賞賛される」「愛される」を獲得しなくても


自分もはもう周りから「認められている」「賞賛されている」「愛されている」という確信を持っている"気でいた"



わけで





大学5年生の時にやっていた
学習支援や大学生支援



それらはすべて


「自分のために」では全くなく

「誰かのために」100%の想いでやってる"つもり"でいました





100%、目の前の子どものために


100%、目の前の学生のために




「子どものためにとか言ってるけど、その授業自分のためにやってるとしか感じひん。子どもの顔見てるん?」


「自己成長のためとか言うてんと、一回目の前の子どものために全力尽くしてみーや。」




とか、多分平気で言うてた気がします

泣ける






「『誰かのために』っていうのは、『誰かのせいで』と根っこは同じだと思うの」



素直に


「なんで?」


って感じでした








個人的に好きな聖書箇所

ルカの福音書7章より



【彼らは何に似ているか。それは、子どもたちが広場に座って、互いに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』というのに似ている。】






「こういうことなんだろうなあ」


と、今は思っています






あとで続きの記事書きます



真崎@お腹すいた






小学生の時にはまって
全巻集めた漫画の中に


「明陵帝 梧桐勢十郎」


というものがありまして






(梧桐くんは右下のツノ頭)




嘉神くんという「正義感溢れた」男の子がおりまして



主人公は傍若無人な暴君生徒会長の「梧桐勢十郎」でして



嘉神くんは「悪」を憎む「正義感溢れた」男の子でして



梧桐くんは「殴りたいから殴ったに決まってる」というセリフのように「悪役」っぽく見せる系だけど芯が強くその言葉はいつも本質をつく実は真っ直ぐ男子でして



「悪」を許せない嘉神くんにとって梧桐くんの存在は「悪」であり根絶しなければいけないものでして



ある女の子を巻き込んだ出来事からふたりは猛烈に憎み合う存在になったわけでして



最終決着をつける場面で互いに殴り合いなあがらなおも自分の「正義」をかざす嘉神くんがおりまして



そんな嘉神くんに梧桐くんは凄まじい頭突きをかましながらこんなセリフを言っておりました










「貴様の言う形だけの「正義」など吐き気がする」














悩みを抱えた子どもの話をきいていたり

ネットでの書き込みを見ていたりしていると




最近よく入ってくるのが




「親や先生の言ってることが正しいのは分かってるけど」



「正論ばっかりで疲れた」



「どうせ自分がおかしいし間違ってる」




的なものでして






そういうケースを詳しく聞いてみて


私自身強く感じるのが





・周りが言ってることは「一般論」


・「一般論」は「正しいこと」ではない


・ただ単純に「多くの人が思っているであろうこと」なだけ


・だから「正しい」にはならない


・なので別に誰も正しくない


・なので別に誰も間違ってない








最近、ふと考えたんですけど





今、高校生の生徒に

「論理と命題」という数学の単元を教えておりまして




「a(仮定)ならばb(結論)である」


という【命題】がありまして




これが「真(正しい)」か

もしくは「偽(間違い)」か



を、答えなさいという問題がありまして






例えば


「A×B=0ならばA=B=0」


みたいな問題




真か偽か








まぁ、偽なんですけど




偽の場合には

「反例」を述べるんですね



この問題の場合

反例は「A=0、B=3」

とか









命題





「学校に行かなければ(仮定)立派な大人になれない(結論)」



「勉強していい大学に進学しなければ(仮定)就職できない且つ幸せになれない(結論)」



「他の人もみんな頑張っているのであれば(仮定)あなたも頑張らなければいけない(結論)」






命題の時点で
すでに曖昧な表記が多すぎる
(立派、いい、幸せ、頑張る)


という指摘はさておいて




最後のものに関しては

すでに論理破綻甚だしいとして





どうも話を聞いていると

上記に書いた「仮定」の部分が

子どもが疲弊している「周りからの正しさ」の最たる例のようでして






ひとまず



不登校関連も含めて
いろんな人に出会えたおかげで



この命題の「偽」を裏付ける「反例」だけは


たくさん、あります







反例がある時点で

命題は「真」ではないです




だから、別に正しくないです




「論理と命題」の問題だったら

むしろ間違っています




「真」だと言い張る人は

目の前に証拠を積んで「反例」にあてはまる人の存在と幸福を全否定した上で改めて主張してほしいです







強引な理屈だけど


でもそういうことだと思うので




とりあえず


周りが「正しそうなこと」を「あなたのことを思って」言ってきてくれていたとしても





別に正しくないので


流しても大丈夫だと私は思っています







そんな言葉よりも



「それが正しいって自分も分かってるけど

でもどうしたって、今は動けないしとてもつらい」




という


そこで感じている気持ちの方が




周りからの「正しそう」なことよりも


ずっと大切な「本物」です












嘉神くん梧桐くんが

東京ドームで闘った際



その闘いの最中に

梧桐くんが言ったこと









「人には理由があり、その時点で真の正義など存在しない」






真崎 ©かずはじめ




「第一回「Teacher's Junction」に参加した話①」


続き



昨日参加したイベントで


・インクルーシブ教育(障害を持つ子も含めたすべての子ども)
・不登校
・LGBT
・保育
・経済的困難家庭や地域の子ども



それぞれの専門領域で活躍されている5名の方々が登壇・講演

そしてその後参加者でワールドカフェ







以下、順不同で、感じたことの雑記です

ただのメモです

長いです






◯「多様性社会」をどこに見るか


実は今回いちばん印象に残ったのが
「保育」分野からのお話


「こどもみらい探究社」共同代表
「asobi基地」代表

元保育士の小笠原舞さんのご講演



1歳~の幼児期の子ども達と関わる中で
彼らの他者との関わり方


そこに
"大人"が必死に追い求めている

「多様性社会」

があるという話



「そもそも彼らには、「多様性」などという概念がありません。」


ああ、なんか、目からウロコだった



教育水準高めな外国から学ぶのもいいけど
日本を否定するのもあるかもだけど
「子どもは大人が「教育」してあげなきゃ」なのかもしれないけど


日本の中で学べることも
大人があれやこれや思案している、その対象となる子ども達から学べることも


どうやらまだ、たくさんありそうな気がする



asobi基地に行ってみたいな





◯「異性愛前提」の社会と「全人類愛」という言葉



LGBT支援の団体
NPO法人ReBitの代表、藥師さんのご講演

と、団体メンバーのスバルさんのお話



・世の中の認識や学校での教育は「異性愛前提」がとなっている
(保健体育・家庭科・恋愛の話など)

・女性も男性も関係なく恋愛感情を持つ人たちがいる

・「異性愛」を超えた「全人類愛」



「「全人類愛」って素敵やね」

隣にいたお姉さんと話した



現実、その「全人類愛」は

閉鎖的な空間の中で排他されているようだけど



性別関係なく人を愛せるって

実はすごく素敵なことなんじゃないかと思ったり




という発言が

不謹慎だったらごめんなさい





◯相談できる大人になる、ということ



壇上にいる藥師さんに、質問をした

「藥師さんが学校に通っていた時に、大人の対応で嫌だったこと・嬉しかったことがあったら教えて下さい。」



答えは、単刀直入に言えば

「ない」

だった



「そもそも、相談できる大人は周りにいませんでした。」

「なので、小4の時に自分で気付いてから、18歳の時まで、誰にも言えずに自分で抱え、自己否定し続けていました。」





スバルさんも、中学生の時に「恋愛対象」として男の子を意識してしまう自分に気付き、周りもそんなスバルさんをからかったり、いじめたり

プールを休んだり
修学旅行での入浴を拒否したり


そんなスバルさんに

先生は「男らしくないことを言うな!」






なんか、胸が痛くなった





じゃあ、「相談できる大人」って

どんな人のことなんだろう



少なくとも


「先生には、なんでも相談していいからな!」

という人が
得てして子どもから信用されないのは


なんか、ある気がする

なぜかは、知らん




LGBTの話に関して
藥師さんが提示した「相談しやすい先生」


・男女二元論/異性愛前提の発言をしない先生

・LGBTや他の多様性に対して寛容な先生

・「研修でLGBTのことを聞いた」「知人にLGBTの人が居る」等を話してくれる先生

・授業項目の中でOGBTについて触れる先生(保健・家庭科・国語など)

・LGBT関連の書籍、DVDを学級に置いている先生

・LGBTフレンドリーの象徴である「6色レインボー」の物を持っている先生




あくまで「例」として挙ったこと

具体的な言動として示していくことも大事なようだ



個人的には「なんか信用できそう」という雰囲気も大切だと思う

子どもって、そういうの敏感な気がする




昨日の講演後
ワールドカフェお話した方のうち

ふたりの方がLGBT
うちひとりは不登校経験者



いるんだ


やっぱり、いたんだよなって感じた








◯「不登校支援」と阿部さん



身内で恐縮だけど


不登校支援をやる上で
阿部さんの元を選んだことを
講演を通して、改めて「正解」だと感じた



「不登校支援」に関わる立場として

そもそも「不登校支援」だの「解決」だのって言葉が個人的には違和感でしかなかったので




響きはありきたりなものだけど


「ひとりひとり違う」


という大前提を大切にできる

そのスタンスは「支援者」に必須だと私は思う





以前の組織も「不登校支援」に関わる

表に掲げるスタンスは「不登校の短期解決(復学)を目指します」




組織によって考えが違うのは至極当然で

私には「いばしょづくり」が合っていて「不登校でもイイじゃん」が合っていた




それを強く感じた阿部さん講演

眉毛が立派な方です








◯知ること、心がけることの大切さ



こういうイベントに参加するたび
考えなきゃいけないなと思うのが


「で?」


ということ



良い話を聞けた
良い意見交換ができた
良い人と繋がれた
良い時間を過ごせた


「で?」




行政レベルの話もある
なんだか遠く感じる人も多いと思う


自分自身の話で言えば

どんなに大きいところからの話をしても
結局向き合うのは「今目の前にいる生徒」になる
今んとこそこでキャパぎりぎり
ごめんなさい



でも


こういうイベントの後で
どんな小さなことでも個人がアクションを起こしていくことは結構大事だと思う


その中で
日常レベルでできることが

・知ること
・心がけること


だと思う




今回学んだことを
自分でちょっと調べてみたり

それをちょっと人に知らせてみたり

繋がった人ともう一度会ってみたり

もっと詳しく話を聞いてみたり




「いろんな子がいる」ということを
より強く意識下に置くことだったり


相手を受容しよう
まずは話を聴いてみよう
という姿勢でいようって思ってみることだったり



なんか、そういう感じ



難しいこともたくさんあるけど

なんか、こう、ちょっとずつ







あと、ちょっとだけ書きたいことがある


それは、最後の記事にまとめる



真崎@焦らし