『誰かのために』っていうのは、『誰かのせいで』と根っこは同じだと思うの① | せめて、真崎らしく。

せめて、真崎らしく。

そんな感じです。




好きな男性のタイプは?


と聞かれたら俄然「重松清」な真崎であることは周知の事実だと思うんですけど




『熱球』


という本に出てくる
以下のセリフ



「『誰かのために』っていうのは、『誰かのせいで』と根っこは同じだと思うの」





重松さんの本の言葉にはことごとく共感を覚えていた真崎が


唯一

心の底から理解できなかったのが、このセリフ






いやいやいやいやいやいや

なんでですのん

「誰かのために」生きることこそ正しくて尊いことじゃないですのん








なんでこんなに



「自分のため」とか

「誰かのため」とか



いちいちこだわるようになったのか
未だによく分からないんですけど


今となっては
正直「どっちでもええがな」って感じなんですけど






大学5年生の春

ある研修を受けた時に聞いたこと



そのトレーナーさんは牧師さんだったので

聖書に基づいたリーダーシップの考え方を教えてくれました




「自分のため、つまり、自分が「認められるため」「愛されるため」の行動をしなくても、人はもうすでに神様から無条件で愛されている」


「だから、「自分のために」ではなく、もう愛されて満たされた者として、人に尽くしていく」







その考え方が

個人的にものすごくしっくりきたわけで





当時、ずいぶん自分に自信のあった私は



行いによって周りから「認められる」「賞賛される」「愛される」を獲得しなくても


自分もはもう周りから「認められている」「賞賛されている」「愛されている」という確信を持っている"気でいた"



わけで





大学5年生の時にやっていた
学習支援や大学生支援



それらはすべて


「自分のために」では全くなく

「誰かのために」100%の想いでやってる"つもり"でいました





100%、目の前の子どものために


100%、目の前の学生のために




「子どものためにとか言ってるけど、その授業自分のためにやってるとしか感じひん。子どもの顔見てるん?」


「自己成長のためとか言うてんと、一回目の前の子どものために全力尽くしてみーや。」




とか、多分平気で言うてた気がします

泣ける






「『誰かのために』っていうのは、『誰かのせいで』と根っこは同じだと思うの」



素直に


「なんで?」


って感じでした








個人的に好きな聖書箇所

ルカの福音書7章より



【彼らは何に似ているか。それは、子どもたちが広場に座って、互いに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』というのに似ている。】






「こういうことなんだろうなあ」


と、今は思っています






あとで続きの記事書きます



真崎@お腹すいた