好きな男性のタイプは?
と聞かれたら俄然「重松清」な真崎であることは周知の事実だと思うんですけど
『熱球』
という本に出てくる
以下のセリフ
「『誰かのために』っていうのは、『誰かのせいで』と根っこは同じだと思うの」
重松さんの本の言葉にはことごとく共感を覚えていた真崎が
唯一
心の底から理解できなかったのが、このセリフ
いやいやいやいやいやいや
なんでですのん
「誰かのために」生きることこそ正しくて尊いことじゃないですのん
なんでこんなに
「自分のため」とか
「誰かのため」とか
いちいちこだわるようになったのか
未だによく分からないんですけど
今となっては
正直「どっちでもええがな」って感じなんですけど
大学5年生の春
ある研修を受けた時に聞いたこと
そのトレーナーさんは牧師さんだったので
聖書に基づいたリーダーシップの考え方を教えてくれました
「自分のため、つまり、自分が「認められるため」「愛されるため」の行動をしなくても、人はもうすでに神様から無条件で愛されている」
「だから、「自分のために」ではなく、もう愛されて満たされた者として、人に尽くしていく」
その考え方が
個人的にものすごくしっくりきたわけで
当時、ずいぶん自分に自信のあった私は
行いによって周りから「認められる」「賞賛される」「愛される」を獲得しなくても
自分もはもう周りから「認められている」「賞賛されている」「愛されている」という確信を持っている"気でいた"
わけで
大学5年生の時にやっていた
学習支援や大学生支援
それらはすべて
「自分のために」では全くなく
「誰かのために」100%の想いでやってる"つもり"でいました
100%、目の前の子どものために
100%、目の前の学生のために
「子どものためにとか言ってるけど、その授業自分のためにやってるとしか感じひん。子どもの顔見てるん?」
「自己成長のためとか言うてんと、一回目の前の子どものために全力尽くしてみーや。」
とか、多分平気で言うてた気がします
泣ける
「『誰かのために』っていうのは、『誰かのせいで』と根っこは同じだと思うの」
素直に
「なんで?」
って感じでした
個人的に好きな聖書箇所
ルカの福音書7章より
【彼らは何に似ているか。それは、子どもたちが広場に座って、互いに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』というのに似ている。】
「こういうことなんだろうなあ」
と、今は思っています
あとで続きの記事書きます
真崎@お腹すいた