昼前に運ばれちゃいました。

わたし。

謝罪に行く予定も叶わぬまま、

下の子の病院もキャンセル。



原因不明の猛烈な回転性めまい。

頭と視界が猛烈にグルグルグワングワン。

何度吐いてもおさまらない。

真っ黄色の胃液がばかりが何度も吐き出されてます。

立ち上がることはおろか

体を起こすこともできないです。


でも、寝てるとそれほどきつくない。


血液も脳CTも異常なし。


入院を勧められたけど、搬送先では入院できないらしく

別の病院も遠かったので帰宅を選択しました。

とりあえず帰宅して薬飲んで休んでます。


週明けにでも耳鼻科かめまい外来をうけるようにと。



今は落ち着いてます。暇です。でも気持ち悪いです。






発症して倒れたとき近くにいたのは上の子だけ。


主人はたまたま休日出勤。


上の子、昔は大人の病気なんて興味なし。心配もなし。

でも、今日は、すごく優しかった。


「心配かけてごめんね。自分のことやりな」

って気丈に振る舞おうとしたけど、


お母さんできることない?

救急車よぼうか?

いつも沢山守ってもらってるもん。

お母さんのこと心配だから…


だって。嬉しかった。苦しさよりも嬉しさで涙。


主人との連絡もとってくれたし、

物をとってくれたり支えてくれたり。


救急相談ダイヤルに確認したら

どんどん悪化する可能性あるから

その際は救急車呼ぶようにいわれた。

私自身で対応できない可能性もあるし

その際は助けてもらうしかないだろう。

スマホのロックを解除して子どもたちも操作できるようにして

救急車よぶ際のいろんなことを確認。


踏ん張ろうと思ってたけど、

上の子の不安そうな顔をみてて、

一生懸命対応しようとして疲弊していきそうに見えたし

想定通りどんどん意識が遠のいてきたから救急車決断。


上の子、基本的な部分はしっかり119番対応してくれました。

お昼ごはんも食べず看病してくれて。


あとでありがとうって伝えたら


「昔、お母さん倒れたときに放置しちゃって…

いつもお母さん自分犠牲にして

苦しんでる自分たちのこと看病してくれて、

お母さんに今度こそちゃんとしてあげなきゃって思ってたから。

ありがとうなのはこっちだよ。」




なんだよ、その完璧な答え…

泣くしかないじゃん。




主人に迎えに来てもらって何度か嘔吐しながら何とか帰宅。

主人にも支えられて一安心。


ほんとみんなに支えられて生きてる。

改めて実感。





横になってたらそれなりに平気なので思い出記録にブログ。
でも体を起こすとはめまいと吐気で死にそう。

今朝のご飯は戻したから昨日の夜から何も食べてない状況。
流動食もきついだろう。
けど、ゼリー飲料でなんとか我慢。

二三日は安静にしろとのことなのでゆっくり休みます。


苦しいのに何か笑顔になっちゃう、変な感じ。

何笑ってんの?と不思議な顔されてますが、嬉しいのよ。

素敵な子どもたちをありがとう。




こんなに苦しんでるんだ、少しは痩せたらいいな。てへぺろ

さて、いきなりですが


御法川法男ではございませんが、


今日はなんの日か覚えてますか??





もうみんな覚えてすらないよね。




ちょっとプレミアムな夜を過ごしていた(!?)人もいたかもしれない。いや、ほとんど気にしてなかったかもしれない…





あの日なんですよ。





わかるかな?









推進協議会のホームページすら2020年10月30日から更新すら止まってる…

そりゃもうみんな忘れてるよね。




早くプレミアムな金曜日戻ってきてほしい。




三年前まではあんまりプレミアムな体験しなかったけど、
こんなご時世だからこそちょっとプレミアムな体験をしたいな。



長らくちょいプレミアムな体験してないなぁ。
コロナ禍長かったなぁ…





みなさんはプレミアムな金曜日、何かご褒美ありますか?




私は主人とこれからせめてもの晩酌します生ビールニコニコ






その前に上の子にプレミアムなお説教…驚き

上と下の子二人で近所の公園の看板を破壊していたらしい…
わざとじゃないみたいだけど、思慮の浅さ…

悲しい

明日管理事務所に謝ってきます。

プレミアムじゃない、これじゃただの自棄酒。

明日誰かママ友に生電話で思いっきり話を聞いてもらおうかな…

服装の趣味が変わった時期

 

 え?…

小学校のときはチェックスカートとか、キュロットスカートが流行ってたし、憧れてたけど、親の買ってくれる短パンにポロシャツののび太君的な服になること多かった。


中高時代は私服少なくて…


大学時代は男らしさをチャラさに見出して、ファイブフォックス系にハマりました。PPFMとかCOMSA、丸井系。塾で働いていたときのスーツもホスト的なスリムなカラーシャツとネクタイ。

都会の華やかさに垢抜けようと頑張ってたから大分イメチェンwww



途中で限界きて、女の子として生活したけど、最初はnon-noにいってLOWRYS FARMとかRope Picnicとか代官山ファッション、時々アメ村系。そのあとはCanCam→AneCan系に走って、丸井系とか、神戸ファッションにひた走ったかな。INGNIとかね。懐かしい。


今は「普通」のママファッション。

昔みたいに体型戻ったら平成のノリでイケイケしてみたい…古



PPFMメンズがLOWRYS FARM…、ここがやっぱりファッション変わった時期だよね。LOWRYS FARMからのINGNIも大概飛んだけどwww



世代近い人ならわかってもらえる?かな?




 


そして今は…近所のイオンwww


 

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 「普通」であることは悪いのでしょうか。

 個性を認める、多様性の社会と言いながら、個性に対してより厳しい目を向けてくる時代になっていると思う最近。「普通」の範疇が昔と違うだけで、新時代の「普通」から極端にはみ出す人を実はあまり快く思っていないのが現実だと感じます。そういう人たちを視野に入れないで切り捨てる。表立ってそんなことはしないけど、心のなかでやってる、それが現実だとおもいます。現実としてやはり「普通」はある。


世界に一つだけの花、みんな違っていい。


 そういう声はたくさん聞くけど、そういう意見を取り立てるくらいに社会は「普通」を意識している。「みんな違ってもいい」は逆に「違い」に無関心でもいいという、好きにさせえいればいいという冷たい言葉にも聞こえてしまいます。

 そして、私が世間が大切にしたいと願っていると感じる「違い」は、「普通」の範疇における個々の僅かな「違い」だと感じています。




 海外にいる友人や外国人の友人と話していても、「普通」はどこにでもある。黒人から見た「普通」、白人から見た「普通」、韓国人から見た「普通」、中国人から見た「普通」、タイ人から見た「普通」、オーストリア人から見た「普通」、デンマーク人から見た「普通」、イギリス人から見た「普通」、フランス人から見た「普通」、ブラジル人から見た「普通」、日本人から見た「普通」。

 うちの中学の「普通」、隣の中学の「普通」。

 年寄の「普通」、親の「普通」、若者の「普通」。

 私の「普通」、あなたの「普通」。


 「普通」なんてみんな違う。住んでいる土地や民俗、歴史、社会情勢、技術革命、いろんな要素で変わっていく。そんなもの。そんな無価値な「普通」にとらわれることは阿呆らしい。確かにそうだと私も思います。


 でも、そう割り切るまでは「普通」にとらわれる。「普通」でないことにもがき苦しむ。かつての私も、多くの性同一性障害、性別違和のひとたちもそうだったように。


 発達心理学で思春期は親の庇護下から抜け出し、自立しようともがく時期。友人と徒党を組み、そのグループに属すことによって居場所を作り、その群れと自分自身を一体化することにより安心感を得て、自立の足がかりにする。群れの「普通」と異なることで不安を覚え、異なる人を排除する。この安心できる居場所を作ることがこの時期の若者には大切になる。今も昔もどの地域問わず変わらぬ人間の性(さが)。


 ちゃんと社会性やコミュ力をつけ、親への依存を断つためにも、若い思い出をしっかり残すためにも、群れを成し親に対峙する経験はしてほしい。そのためにも群れにちゃんと入れる環境は整えてあげたいと思ってます。


 その環境というのが「普通」。この地域の仲間たちと同じ感覚、同じ程度の環境。共通点が多いことは価値観を共有するのに大切なこと。仲間意識を持ちやすい。この「普通」が少なかったら価値観を共有できないまま思春期を終えてしまう。

 いや、どれだけ異端でも異端の仲間はできるのかもしれない。そういう行き方もありだと思うし、素敵ではある。しかし、そのまま踏み外した人もいれば、そういう異端である経験が生涯の重荷になる可能性があることを私は見てきた。

 もし、親の匙加減1つで変えられるものならば、私はドラマティックでダイナミックな異端の生き方を子どもにさせようとは思えない。平凡な「普通」の暮らしでいいと思う。

 斯くいう「普通」も私の子ども時分のものとも違う。今の時代のこの地域の「普通」。昔よりも個性を認められる社会で、ママ友たちから仕入れた世間の感覚の範疇で「普通」を子どもたちのために用意しています。


 じゃぁ、個性を大切にしていないのか、そんなことはない。子どもたちの特長が「普通」に収まらないなら、その特長は当然大切にしてあげる。違いを隠すではない、何がどう違うのか話を聞き一緒に考え、個性と社会をどうコラボレーションさせていくのかこどもたちなりの形を子どもたちのコミュニティで見つけてくれたらいいと思ってます。


 大人の都合で振り回されることが多かったうちの子たち。ゆっくりと自分を育む余裕もなかった。大人都合の荒波の中ただもがいているばかり。周りも見えない、自分の姿も見えやしない。社会性が養われずにきた原因がそこにあったように思います。

 そんな境遇で育ったこの子達が自分を探す育てるために必要なもの、それが心の余裕だと思っています。それが環境要因の「普通」によってもたらされたと感じてます。

 いろいろヒッチャカメッチャカな荒海の中では自分も人も個性とは何が何だかんだ分からない。穏やかな海の中では逆に自分自身の姿も他者の姿もよく見えてきます。違いが際立ちます。破天荒な生育環境以上に自分の特長が露骨に見えてきます。


 私が思う個性を大切にする生き方は、そういう個性を見えないようにすることでも、何でもありにするわけでもない。そういう個性をしっかり認識し、そんな自分だからこそ何を思うのか、何ができるのかが理解できることだと思うんです。


 事実、上の子からは「里子ってかわいそうと認識される」という「普通でない」という自分を理解してくれました。でも、それが「普通だ」と本人は理解してくれました。「普通」とは何なのか、自分の個性とは何なのかを確実に感じてくれています。


 彼(社会)を知り、己を知れば、百戦して殆うからず


他人を知らなければ自分もわからない。自分も分からなければ他人を知ることもできない。自分がわかるからこそ自分の幸せもわかる。自分の幸せがわかるからこそ人の個性が認められるし、人の幸せを喜べる。


 幸せの本質は己を正確に理解することから。己をカオスの中に落とし込むことがそれではない。一定の秩序の海に落とし込むことによって己の中の宝石が姿を表し、一つ一つを丹念に磨き上げられる。その秩序こそが思春期における「普通」だと私は考えます。そしてその「普通」の海に浮かんだ宝石こそ「違い」であり、世界に一つだけの個性だと思います。




 「普通」という同調圧力に対する強く長い苦しみを味わっているマイノリティだからこそ、「普通」を否定したいと感じてしまうけど、「普通」の人たちが問題視する「普通」は意味が違う。「普通」を否定することは自分たちの否定。マジョリティが作る「普通」をマジョリティが否定などするはずがない。でも、その「普通」の中で違いを認めてほしいとは願っている。その感覚に近付けていくことが生きやすさにつながるし、世間的には「健やか」に成長していると認識される。

 ずば抜けた個性は異物。それを好とするのは親の感覚が異物と思われる。「普通」を否定するも順応するも思想だといえばそうだけど、マジョリティの環境を整えることを否定するひとはいない。そして、個性は「普通」の中でこそ本人が冷静に見つけていけるし、まっすぐ向かい合っていける。


 思春期の「普通」は必ずしも悪いわけではない。むしろ大切な要素。そう思います。


 荒波の中を泳いできて、今もなお荒波の中の子どもたちだけど、防波堤を作って穏やかな環境の中で確かな自分を作り、大海に漕ぎ出してほしい。本人も外の波を何となくでも見えている。大人の作った波、まして大波を子どもに受け止めさせるスパルタ的教育よりは、大波の大海原を臨みつつ大人になる歩みを一つずつ進めてもらいたい。





 子どもたちが学校で友達と話してきたと報告してくれること。


「お母さんもそうだけど何で母親ってみんな〜〜なの?友達と話しててめっちゃ共感して盛り上がった。」

「今日の晩ごはん何食べたい?ってお母さんに言われるのウザいって話でちょー盛り上がった!お母さんもしょっちゅう聞いてくるしねwww」

お父さんに対するいなし方がうまいから理由を聞いたら「え?オヤジなんてみんなそんなもんでしょ。そういうムカつく親父の扱いはみんなと情報交換してる」とか。

「ねぇねぇ、今これが流行ってるんだよ!」と学校で聞いてきたことの受け売りとか。


そういう「普通」の経験が社交性の経験値をあげる。だからすごく嬉しい。その「普通」がわかるからこそ「里子であること」のような特殊性がわかる。そして悩める。その特殊性こそ愛してあげたいし、その特殊性をどう扱っていくのか自分の答えを見つけてもらえたらと願う。私は私の視点を参考に示してあげるだけ。


里子であることに同情してくれるのは優しさじゃん。

そういう優しさを向けてくれた人に感謝したいかな。

でもその優しさが必要ない人だと感じてもらえたら、同情なんてされないどころか輝いてすら見られる。みんなに希望を与えることもできる。

お母さんは、みんなに愛され、愛してあげられるそういう人って幸せだと思うな。

あなたはどんな人になってみたい?


 上の子、いろんな社会派ドラマなどを見て、いろんなハンデを抱える人たちについて考えることが最近多いらしい。


 そこで、いざ自分を顧みたときに、「かわいそうな人」の部類に入れられてしまうことは薄々感じているらしい。




サムネイル

やっぱり「かわいそうな人」って思われるのかな?

何かそういう風に同情されたくないんだよね。

だって今辛いとか不幸だとかそんなの感じないし、かわいそうとか言われても「どこが?」ってなる。

普通にお父さんお母さんがいて、普通にこうやって暮らしてて、これのどこがかわいそうってなるじゃん。

 その気持ち、お母さんもよくわかる。

 例えば性同一性障害だからって別にそんな取り立ててかわいそうな人とは思わない。差別とかもあるけど、今となってはなんのことはない。「こんな体に産んだお母さんが悪い」なんて実親に言われても悲しさしかない。今の自分を愛してるし、幸せだし、他の誰と比べても別に何も変わらない普通の一人だし。と思うからこそ「かわいそう」認定されることに違和感がある。


 でも、いざ「性同一性障害?だから何?そんなこと」なんて言われたら多分傷つくwそんなもの。この個性や経験は大切なアイデンティティとなってるんだよね。だからこそ「かわいそう」ではなくても実は大切なことだったりする。


 実際、知らない人からしたら苦しんできてるとか、そういう偏見を持つのが正しいんだろう。共感や同情ができない人は基本的に関わりにくい。




 いろんな人たちがいる。自分の境遇をどう捉えるかは相手次第。最初話すときはまともな人なら誰でも同情してくると思う。それ自体は相手のあなたに対する優しさ。その気持ちに感謝をしたとしても怒りをぶつけるのは違うよね。でも、今のあなたが一人の人としてしっかり立てていれば、誰も同情なんてしない。歩みを確かにするあなたを認めてくれる。

 同情してくれる優しい人たちに感謝して、自分も人の為にできることはしてあげて、そんな温かい友達に囲まれたら素敵じゃん。そしたらみんなの中から自然とかわいそうは消えてると思うよ。





 そういう感じの話を、上の子の状況で話をしたら上の子も納得してくれました。

 にしても、これだけ今の境遇に満足してくれているなんて嬉しい。それだけ幸せを感じてくれてるみたい。


 でも、斯くいう私こそこの子のことを可哀想と思っている。だからこそ少しでも「普通」でいさせてあげたいと頑張っている。普通じゃないことを子ども目線で「普通」に見えるように演出してたりする。

 そんなものは子どもに見せる必要はない。大人になったときに、ちゃんと大人になれたときに、その普通じゃない「普通」が沢山あったことを笑いながら話せる日が来たらいい。ただ、今はその「普通」をしっかり味わってもらう。


 私の「普通」の暮しの裏にも、きっと私には見えない沢山の人たちの愛が紛れ込んでいるんだ。きっとね。


 私に限らない。誰だって気付かないうちに愛に包まれて、愛に支えられて生きてる。恋人や配偶者、親や子、友人、仲間。見えてないだけで、沢山の愛が毎日注がれて人は生きてる。


 私はそう思うの。それでいいと思う。