上の子、いろんな社会派ドラマなどを見て、いろんなハンデを抱える人たちについて考えることが最近多いらしい。
そこで、いざ自分を顧みたときに、「かわいそうな人」の部類に入れられてしまうことは薄々感じているらしい。

やっぱり「かわいそうな人」って思われるのかな?
何かそういう風に同情されたくないんだよね。
だって今辛いとか不幸だとかそんなの感じないし、かわいそうとか言われても「どこが?」ってなる。
普通にお父さんお母さんがいて、普通にこうやって暮らしてて、これのどこがかわいそうってなるじゃん。
その気持ち、お母さんもよくわかる。
例えば性同一性障害だからって別にそんな取り立ててかわいそうな人とは思わない。差別とかもあるけど、今となってはなんのことはない。「こんな体に産んだお母さんが悪い」なんて実親に言われても悲しさしかない。今の自分を愛してるし、幸せだし、他の誰と比べても別に何も変わらない普通の一人だし。と思うからこそ「かわいそう」認定されることに違和感がある。
でも、いざ「性同一性障害?だから何?そんなこと」なんて言われたら多分傷つくwそんなもの。この個性や経験は大切なアイデンティティとなってるんだよね。だからこそ「かわいそう」ではなくても実は大切なことだったりする。
実際、知らない人からしたら苦しんできてるとか、そういう偏見を持つのが正しいんだろう。共感や同情ができない人は基本的に関わりにくい。
いろんな人たちがいる。自分の境遇をどう捉えるかは相手次第。最初話すときはまともな人なら誰でも同情してくると思う。それ自体は相手のあなたに対する優しさ。その気持ちに感謝をしたとしても怒りをぶつけるのは違うよね。でも、今のあなたが一人の人としてしっかり立てていれば、誰も同情なんてしない。歩みを確かにするあなたを認めてくれる。
同情してくれる優しい人たちに感謝して、自分も人の為にできることはしてあげて、そんな温かい友達に囲まれたら素敵じゃん。そしたらみんなの中から自然とかわいそうは消えてると思うよ。
そういう感じの話を、上の子の状況で話をしたら上の子も納得してくれました。
にしても、これだけ今の境遇に満足してくれているなんて嬉しい。それだけ幸せを感じてくれてるみたい。
でも、斯くいう私こそこの子のことを可哀想と思っている。だからこそ少しでも「普通」でいさせてあげたいと頑張っている。普通じゃないことを子ども目線で「普通」に見えるように演出してたりする。
そんなものは子どもに見せる必要はない。大人になったときに、ちゃんと大人になれたときに、その普通じゃない「普通」が沢山あったことを笑いながら話せる日が来たらいい。ただ、今はその「普通」をしっかり味わってもらう。
私の「普通」の暮しの裏にも、きっと私には見えない沢山の人たちの愛が紛れ込んでいるんだ。きっとね。
私に限らない。誰だって気付かないうちに愛に包まれて、愛に支えられて生きてる。恋人や配偶者、親や子、友人、仲間。見えてないだけで、沢山の愛が毎日注がれて人は生きてる。
私はそう思うの。それでいいと思う。