「普通」であることは悪いのでしょうか。

 個性を認める、多様性の社会と言いながら、個性に対してより厳しい目を向けてくる時代になっていると思う最近。「普通」の範疇が昔と違うだけで、新時代の「普通」から極端にはみ出す人を実はあまり快く思っていないのが現実だと感じます。そういう人たちを視野に入れないで切り捨てる。表立ってそんなことはしないけど、心のなかでやってる、それが現実だとおもいます。現実としてやはり「普通」はある。


世界に一つだけの花、みんな違っていい。


 そういう声はたくさん聞くけど、そういう意見を取り立てるくらいに社会は「普通」を意識している。「みんな違ってもいい」は逆に「違い」に無関心でもいいという、好きにさせえいればいいという冷たい言葉にも聞こえてしまいます。

 そして、私が世間が大切にしたいと願っていると感じる「違い」は、「普通」の範疇における個々の僅かな「違い」だと感じています。




 海外にいる友人や外国人の友人と話していても、「普通」はどこにでもある。黒人から見た「普通」、白人から見た「普通」、韓国人から見た「普通」、中国人から見た「普通」、タイ人から見た「普通」、オーストリア人から見た「普通」、デンマーク人から見た「普通」、イギリス人から見た「普通」、フランス人から見た「普通」、ブラジル人から見た「普通」、日本人から見た「普通」。

 うちの中学の「普通」、隣の中学の「普通」。

 年寄の「普通」、親の「普通」、若者の「普通」。

 私の「普通」、あなたの「普通」。


 「普通」なんてみんな違う。住んでいる土地や民俗、歴史、社会情勢、技術革命、いろんな要素で変わっていく。そんなもの。そんな無価値な「普通」にとらわれることは阿呆らしい。確かにそうだと私も思います。


 でも、そう割り切るまでは「普通」にとらわれる。「普通」でないことにもがき苦しむ。かつての私も、多くの性同一性障害、性別違和のひとたちもそうだったように。


 発達心理学で思春期は親の庇護下から抜け出し、自立しようともがく時期。友人と徒党を組み、そのグループに属すことによって居場所を作り、その群れと自分自身を一体化することにより安心感を得て、自立の足がかりにする。群れの「普通」と異なることで不安を覚え、異なる人を排除する。この安心できる居場所を作ることがこの時期の若者には大切になる。今も昔もどの地域問わず変わらぬ人間の性(さが)。


 ちゃんと社会性やコミュ力をつけ、親への依存を断つためにも、若い思い出をしっかり残すためにも、群れを成し親に対峙する経験はしてほしい。そのためにも群れにちゃんと入れる環境は整えてあげたいと思ってます。


 その環境というのが「普通」。この地域の仲間たちと同じ感覚、同じ程度の環境。共通点が多いことは価値観を共有するのに大切なこと。仲間意識を持ちやすい。この「普通」が少なかったら価値観を共有できないまま思春期を終えてしまう。

 いや、どれだけ異端でも異端の仲間はできるのかもしれない。そういう行き方もありだと思うし、素敵ではある。しかし、そのまま踏み外した人もいれば、そういう異端である経験が生涯の重荷になる可能性があることを私は見てきた。

 もし、親の匙加減1つで変えられるものならば、私はドラマティックでダイナミックな異端の生き方を子どもにさせようとは思えない。平凡な「普通」の暮らしでいいと思う。

 斯くいう「普通」も私の子ども時分のものとも違う。今の時代のこの地域の「普通」。昔よりも個性を認められる社会で、ママ友たちから仕入れた世間の感覚の範疇で「普通」を子どもたちのために用意しています。


 じゃぁ、個性を大切にしていないのか、そんなことはない。子どもたちの特長が「普通」に収まらないなら、その特長は当然大切にしてあげる。違いを隠すではない、何がどう違うのか話を聞き一緒に考え、個性と社会をどうコラボレーションさせていくのかこどもたちなりの形を子どもたちのコミュニティで見つけてくれたらいいと思ってます。


 大人の都合で振り回されることが多かったうちの子たち。ゆっくりと自分を育む余裕もなかった。大人都合の荒波の中ただもがいているばかり。周りも見えない、自分の姿も見えやしない。社会性が養われずにきた原因がそこにあったように思います。

 そんな境遇で育ったこの子達が自分を探す育てるために必要なもの、それが心の余裕だと思っています。それが環境要因の「普通」によってもたらされたと感じてます。

 いろいろヒッチャカメッチャカな荒海の中では自分も人も個性とは何が何だかんだ分からない。穏やかな海の中では逆に自分自身の姿も他者の姿もよく見えてきます。違いが際立ちます。破天荒な生育環境以上に自分の特長が露骨に見えてきます。


 私が思う個性を大切にする生き方は、そういう個性を見えないようにすることでも、何でもありにするわけでもない。そういう個性をしっかり認識し、そんな自分だからこそ何を思うのか、何ができるのかが理解できることだと思うんです。


 事実、上の子からは「里子ってかわいそうと認識される」という「普通でない」という自分を理解してくれました。でも、それが「普通だ」と本人は理解してくれました。「普通」とは何なのか、自分の個性とは何なのかを確実に感じてくれています。


 彼(社会)を知り、己を知れば、百戦して殆うからず


他人を知らなければ自分もわからない。自分も分からなければ他人を知ることもできない。自分がわかるからこそ自分の幸せもわかる。自分の幸せがわかるからこそ人の個性が認められるし、人の幸せを喜べる。


 幸せの本質は己を正確に理解することから。己をカオスの中に落とし込むことがそれではない。一定の秩序の海に落とし込むことによって己の中の宝石が姿を表し、一つ一つを丹念に磨き上げられる。その秩序こそが思春期における「普通」だと私は考えます。そしてその「普通」の海に浮かんだ宝石こそ「違い」であり、世界に一つだけの個性だと思います。




 「普通」という同調圧力に対する強く長い苦しみを味わっているマイノリティだからこそ、「普通」を否定したいと感じてしまうけど、「普通」の人たちが問題視する「普通」は意味が違う。「普通」を否定することは自分たちの否定。マジョリティが作る「普通」をマジョリティが否定などするはずがない。でも、その「普通」の中で違いを認めてほしいとは願っている。その感覚に近付けていくことが生きやすさにつながるし、世間的には「健やか」に成長していると認識される。

 ずば抜けた個性は異物。それを好とするのは親の感覚が異物と思われる。「普通」を否定するも順応するも思想だといえばそうだけど、マジョリティの環境を整えることを否定するひとはいない。そして、個性は「普通」の中でこそ本人が冷静に見つけていけるし、まっすぐ向かい合っていける。


 思春期の「普通」は必ずしも悪いわけではない。むしろ大切な要素。そう思います。


 荒波の中を泳いできて、今もなお荒波の中の子どもたちだけど、防波堤を作って穏やかな環境の中で確かな自分を作り、大海に漕ぎ出してほしい。本人も外の波を何となくでも見えている。大人の作った波、まして大波を子どもに受け止めさせるスパルタ的教育よりは、大波の大海原を臨みつつ大人になる歩みを一つずつ進めてもらいたい。





 子どもたちが学校で友達と話してきたと報告してくれること。


「お母さんもそうだけど何で母親ってみんな〜〜なの?友達と話しててめっちゃ共感して盛り上がった。」

「今日の晩ごはん何食べたい?ってお母さんに言われるのウザいって話でちょー盛り上がった!お母さんもしょっちゅう聞いてくるしねwww」

お父さんに対するいなし方がうまいから理由を聞いたら「え?オヤジなんてみんなそんなもんでしょ。そういうムカつく親父の扱いはみんなと情報交換してる」とか。

「ねぇねぇ、今これが流行ってるんだよ!」と学校で聞いてきたことの受け売りとか。


そういう「普通」の経験が社交性の経験値をあげる。だからすごく嬉しい。その「普通」がわかるからこそ「里子であること」のような特殊性がわかる。そして悩める。その特殊性こそ愛してあげたいし、その特殊性をどう扱っていくのか自分の答えを見つけてもらえたらと願う。私は私の視点を参考に示してあげるだけ。


里子であることに同情してくれるのは優しさじゃん。

そういう優しさを向けてくれた人に感謝したいかな。

でもその優しさが必要ない人だと感じてもらえたら、同情なんてされないどころか輝いてすら見られる。みんなに希望を与えることもできる。

お母さんは、みんなに愛され、愛してあげられるそういう人って幸せだと思うな。

あなたはどんな人になってみたい?