いぃつでもぉさぁがしているよ~♪( ̄O ̄)
……ご無沙汰しております。白土でございます<( _ _ )>
皆様におかれましては、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
――などと、間が空き過ぎてしまったので、何とな~く他人行儀で堅苦しく
なってみました( ̄▽ ̄* こっからは、いつもと同じ口調で。
先週から今週にかけて、都下の某所と横浜の某所の間を行ったり来たり。
火曜日の夜には、桜木町で“こんな所にいる筈もないのに”泊まったりして
います( ̄m ̄* 冒頭のは、それですね。
片道、車で約二時間~三時間。工事の実施状況によって、大幅に時間が
変動します。それにしても、長距離の移動は、やはり疲れますね。けれど、
とても大事な用事なので、弱音を吐いてなどいられません。喜び勇んで、
いつでも飛んで行きます♪
そんな中、この時期には専門学校の成績提出、確定申告、車検などなど、
やらなきゃならないことがテンコ盛りワンコ盛り(更新の間が空いた言い訳
じゃありませんよ)。おまけに、先日書いていた「陰々滅々鬼畜サイコもの」
(あ、ちょっと長くなってる)の後編も執筆しなきゃならないと、体があと三つ
は欲しい!という状態です。
けれど、体が三つあったとしても、きっと根が物ぐさな私の分身だと、きっと
残り二体は寝てばっかで、結局、私が全部をやることになるんだろうな~( ̄_ ̄;
意味ないじゃん、分身(┬_┬)
閑話休題ヾ( ̄∞ ̄ヾ()ノ ̄∞ ̄)ノ
私の仕事に限らず、フリーの仕事全般に言えることは、仕事が終わり、次
の仕事が入っていないと、即失業! ということです。これが精神衛生上、
極めて良くない。別に、本当に失業してしまうという訳ではなく、放っとけば
次の仕事がすぐ入るので、空いた時間に休めばいいのですが、元々は、
会社員生活を長く送っていた私は、非常に大きなプレッシャーを感じる訳
です。それで、仕事を詰め込み過ぎてしまい、その結果、常に過労気味と
いう悲惨な状態に陥ります。
これは、本当に治りませんね~。まだVシネマを書いていた時代から今に
至るまで、ずっとそんなです。
そんな時は、一体どうすればいいでしょうか?
私は、少し毛色の違った仕事を、その中に一つ混ぜるようにしております。
昨年は、電子書籍雑誌での連載作を執筆する傍ら、その雑誌の立ち上げ
のお手伝いをしていました。同じような仕事ばかりやってると、結構疲れる
のですが、少し違ったタイプの仕事をやると、目先が変わるからか、意外
と疲れが溜まらないものなんです。
ビールをたらふく後でも、ワインや日本酒に変えると、意外と呑めるという
のと同じですね。
今まで、あまり手がけたことのない仕事や、未知の分野を開拓していると、
そこで受けた刺激の影響か、いつもの仕事をしている時も、思った以上に
捗ったりします。
もしよろしければ、お試しあれd( ̄∀ ̄*
閑話休題ヾ( ̄∞ ̄ヾ()ノ ̄∞ ̄)ノ
これが本題ではなかったということに驚きの貴兄も多いかと思いますが、
そこはどうかスルーして頂いて♪ もし体が幾つもあったら一体どうなる
のでしょうね。最近、ふと考えさせられることが、度々あります。
そこ。「えぇっ! そっちが本題Σ( ̄□ ̄!?」などと動揺しないよーに。
見てくれだけが同じということなら、それぞれが別の人格の個人としても
見られるのでしょうが(一卵性双生児等も、そうかも知れません)、内面も
全く同じ存在が何人も居たら、それは果たして喜ぶべきことなのでしょうか?
考えられることをランダムに挙げていくと……
◎溜まった仕事を別の個体に任せてサボれる
◎学生の方は、別の個体に代返を頼める
◎上司に怒られる時は、別個体を派遣する
◎分身の術で敵の目を欺ける(敵って、誰だ???)
◎パーティーなどのサプライズに最適!
……いやいや、何かちっちぇー話ばかりで、あまり有意義な考えではない
ですね。もう少し真剣に考えてみると、
◎自分の良き理解者になってくれる(全く同じだから当たり前ですね。
けれど、理解して貰って嬉しいかどうかは別問題。オウム返しに
近いかも)
◎自分を客観的に見る糸口となる
◎万一、自分の身に何かあっても、家族が淋しくない
ここで、とある疑問に突き当たって、はたと立ち止まります。自分と全く同じ
存在が居たとして、それは本当に自分なのでしょうか? もしそうでないと
すれば、自分はアイデンティティを保つことが出来るのでしょうか?
もし、ある人が事故か何かでこの世を去り、家族はその人と同じ姿かたちで、
性格まで一緒の存在(分かり易くする為、記憶まで植えつけたとしましょう)
と共に暮らすことになったとします。最初は戸惑うでしょうが、今までと同じ
会話をして、今までと同じように食事を共に楽しみ、今までと同じように一緒
に遊びにも行けば、喧嘩もするとしたら、どうなるのでしょうか? 家族旅行
の思い出話をした時、別個体はちゃんとその話をして、思い出に浸る楽しさ
も分かち合うのですが、家族が一緒に旅行したのは、既にこの世にいない
“ある人”であり、そこに居る別個体ではないのです。
それは果たして、その家族にとって幸せなことなのでしょうか?
もし、私がその“ある人”だったとして、別個体と共に生活をすることで、家族
の悲しみが癒されるのなら、それは嬉しいでしょう。その反面、家族が別個体
と幸せになるということは即ち、自分のアイデンティティが奪われ、自分という
存在が無になっていくということと同義です。それは、自分にとっては、とても
悲しいことですし、恐ろしいことだと思います。
クローン技術の発達が世界初の体細胞クローン羊のドリーを生み出して十五
年。日進月歩のバイオテクノロジーは、やがて人間の体細胞クローンを可能
にするでしょう。倫理的問題で禁止されてはいるものの、やがて医療の分野
を皮切り(自分が病気になった時の備えとしての、もう一人の自分)として、
体細胞クローンを作ることへの抵抗が薄れることはないと、誰が言い切れる
でしょうか?
その時に、私たちは直面するのです。愛する人を失った時に、そのクローン
と共に暮らすかどうかという選択に。
それは即ち、アイデンティティに関わる哲学的問題でもあり、又、法律的問題・
宗教的問題を始め、様々な問題が複雑に絡み合っており、一朝一夕で解ける
問題ではないでしょう。
けれど、究極的に言えば、故人の意思を尊重するか、それとも遺された側の
悲しみを低減するのを優先するかの問題に帰結すると思うのです。それは、
現代でも社会問題として度々議論されている安楽死の問題と同じ根であると
も言えるのではないでしょうか。
私は、この問題への答えを持ち合わせてはおりません。私ごときが偉そうに
何かを決めつけることが出来る問題では、到底ないと自覚もしています。
ただ、人間誰しも、いつかは身近に死を感じる時が来ます。その時に自分が、
故人も含めた周りの誰もが満足できる何らかの答えを出せるようになりたい
――その為にも人間の生命と尊厳というものについて思索を深めたい――。
徒然なるままに、そんな事を考えた桜木町の夜でした( ̄‐ ̄ゞ
