寒い日々が続きますが、皆様、お変わりございませんでしょうか?
今日は、かつて並々ならぬお世話になった方が正月に急逝されたので、
その方を「偲ぶ会」に行って参りました。
その方は小説家であり、漫画原作者であり、映画プロデューサーであり、
空手家で真樹道場の宗師でもある、真樹日佐夫先生という方です(詳細
はこちらをご覧頂ければ幸いに思います)。このところ、だいぶご無沙汰
をしてしまっていたのですが、私がデビューして間もない頃から、先生が
代表取締役である真樹プロダクションで多くの作品を書かせて頂きました。
先生は海が非常にお好きで、毎年、年末年始や誕生日、記念日などに、
逗子マリーナに行かれて、ご自身所有のヨットに乗っていらっしゃいました。
船上パーティーの際、私も何度かお招き頂いたことがあります。海が好き
だから海で逝くなんて、一本筋の通った男らしい死に様ではないでしょうか。
最近、“死”について考えることが度々あります。そうは言っても別に、自殺
を考えている訳ではありません。昨年から今年にかけて、偶然にも“死”に
ついて考えさせられる機会が度重なり訪れたのです。そのせいもあって、
今年に入って手がけた作品には“死の香り”が漂っているように思います。
“死”は、間違いなく全ての人に訪れます。けど、それがいつ自分に訪れる
かということは、高齢者の方でなければ考えはしないでしょう。病に斃れた
人も事故に遭った人も、自ら死を選んだのでない限り、訪れる直前までは
死を意識しないのではないでしょうか。明日やる事を考え、明後日の約束
をしたまま、亡くなっていくのです。
“死”を考えることは“生”を考えることと裏表を成しています。風邪を引いて、
初めて健康の大切さが身に染みるように、“死”を考えることで、初めて“生”
の大切さを実感します。
もし『残りの寿命メーター』が開発されたとしたら、我々の日々の過ごし方
が、劇的に変わるのではないでしょうか。目の前にあるそのメーターを見
さえすれば、自分に残された時間が分かる――例えば残りの時間があと
二十年と表示されているとしたら、「これは明日やればいいや」とか「今日
は何となく、何もせずに過ごしたな」などということはなくなるように思うん
です。日々を、どう有意義に過ごすかということを妥協せず考えていけば、
その積み重ねが残りの二十年の満足度に繋がると思うのです。
因みに、何故、二十年かというと、私は今四十三歳なのですが、昨年の
初夏にお亡くなりになった元上司が享年六十三だからです。それを自分
の身に引き寄せて考え、あと二十年しか生きられないとしたら、あと何本
の作品を書けるのだろう、などと思いもするのですが、勿論その二十年
とて何の保障がある訳でもありません。明日にでも、寿命が尽きるかも
知れないのですから。
無数のお墓が並ぶ墓地。その間に続く狭い通路を、お参りに来た家族
連れが通っていきます。走り回っていた小学生の男の子がふいに足を
止め、両親を振り返ります。
「どうしたの? お祖母ちゃんのお墓は向こうでしょ?」
「僕、この名前知ってる」
そこにある墓石の名前を男の子は見ています。
「誰よ、これ? 知らない人のお墓でしょ?」
「ううん。僕、この人の映画を観たことあるんだ」
そんな風に言われる墓に入りたいという思いを、私は抱いてきました。
けれど、日々の仕事や生活に追われて、いつしかその思いを忘れて
いたように思います。「本当に、そのような墓に入れるんだろうか?」
と思うにつけて、自分の不甲斐なさに気づかされるのです。
自分がこの十年間で成し遂げてきたことと、これからの十年間で成し
遂げたいと思っていることを比べたら、もっと頑張らなければならない
のは、分かりきったこと。なのに、そのことから目を背けがちな自分が
居るのです。「水は低きに流れ、人は易きに流れる」ものですから。
いかんいかんっ! この仕事を始めた時に夢見たような人生にする為
には、やるべき事が無数にあるのです。寸前まで知ることの出来ない
「残りの寿命」を見据えつつ、それらを一つ一つ達成していくことこそが、
充実した人生を生み出すのではないかと思います。
“死”について考えたからこそ、“生”への様々な執着や、今の生き方
の至らない部分に気づくことが出来たと思います。恩人であり、業界
の大先輩でもある真樹先生のような偉大な生き方は、私にはとても
出来ませんが、せめてその何百分の一か、何千分の一でも、人に
喜びを与え、人から尊敬され、何より自分自身が満足できる生き方
を志したいと思います。
真樹日佐夫先生のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
今まで、本当にありがとうございました。
