菅原孝標の女著の「更級日記」の中から、面白さを感じた箇所を紹介しています。今日の箇所は、浜名橋から遠江に入り、三河、尾張を通過します。
富士川を渡った一行は、遠江の小夜の中山を越えて天竜川のほとりまで進んだところで著者が発病、仮屋で数日間停滞。冬深くなり、川風がはげしく吹きあげる中、天竜川を渡り、浜名湖から流れ出る浜名川に架かる浜名橋を渡る。今日の箇所はその橋を渡るとこから。
原文
その渡りして浜名の橋に着いたり。浜名の橋、下りし時は黒木を渡したりし、このたびは、跡だに見えねば舟にて渡る。入江にわたりし橋なり。外の海は、いといみじく悪しく、浪たかくて、入江のいたづらなる洲どもに、こと物もなく松原の茂れる中より、浪の寄せ返るも、いろいろの玉のやうに見え、まことに松の末より浪は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。
それよりかみは、猪鼻(ゐのはな)といふ坂の、えも言はずわびしきをのりぬれば、三河の国の高師の浜といふ。
八橋は名のみして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし。
二村(ふたむら)の山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木の下に庵を造りたれば、夜ひとよ、庵の上に柿の落ちかかりたるを、人々ひろひなどす。
宮路の山といふ所越ゆるほど、十月つごもりなるに、紅葉散らで盛りなり。
嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山
まだもみぢ葉の散らで残これる
三河と尾張となるしかすがの渡り、げに思ひわづらひぬべくをかし。
尾張の国、鳴海の浦を過ぐるに、夕潮ただ満ちに満ちて、こよひ宿らむもみ中間(ちゅうげん)に、汐満ちきなば、ここをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ。
口語訳
天竜の渡しを渡り、浜名の橋に着いた。浜名の橋。この街道を下った時は樹皮を削り取っていない丸太を渡してあったが、今回は、その橋の跡形さえ見えないので舟で渡る。橋とは入江に架っていた橋である。外海は、実にひどく荒れて、波は高く、入江のあるあちこちにある何の風情もない洲に、他の物は何もなくただ松原が茂っているその間から、浪が寄せては返すのも、(波頭が)いろいろな玉のように見えて、本当に波が松の木を越えるように見えて、ことのほかよい眺めである。
橋から上り坂を進んで行くと、猪鼻という坂で、なんとも言えず難儀な坂を上りきれば、そこは三河の国の高師の浜という。
八橋は名前だけが残っていて、橋の跡形もなく、何の見どころもない。
二村の山の中に泊まっている夜、大きな柿の木の下に庵を設けたので、一晩中、庵の上に柿の実が落ちて」くるのを、人々が拾ったりしている
宮路の山といふ所を越える時分は、十月も下旬だというのに、まだ紅葉は散らず盛りであった。
なんと紅葉が冬のさなかなのに散りもせず残っているよ。
この宮路山には嵐も吹いてはこないのだな。
三河国と尾張の国との境にあるしかすがの渡りは、その名の通り渡ろうか渡るまいかと悩んでしまいそうな所で、面白く感じた。
尾張の国、鳴海の浦を過ぎると、夕潮がどんどん満ちてきて、ここで泊まるのは、旅程として中途半端で、しかも満潮になってしまったら、ここを通り過ぎることもできないと、一行の者は皆あわてて走り抜けた。
感想
この旅の記述は「歌枕」の地を次から次へ書いているとも言えます。上記口語訳の中でも7か所も出てきます。赤字の箇所です。
「歌枕」とは本来和歌で詠まれる諸国の名所・旧跡でしたが、実際の風景をもとに詠まれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが、実際の風景から離れてしまうこともある、利用されて詠まれた面もあります。
しかし筆者は過去のイメージに捉われることなく自分の目で感じたことを述べているように思えます。例えば、業平の「から衣きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」と詠んだ有名な歌枕を「八橋は名のみして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし」と切り捨てます。鳴海は古来千鳥の名所、そのことは一言も触れず、「汐満ちきなば、ここをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ」とは面白いです。
浜名の橋とは浜名湖が海に通じる浜名川に架けてあった橋で名高い歌枕。しかし明応の大地震(1498)で浜名川は埋められ、水流は地盤の弱いところを破って外海へ流出し今切(現在海に通じている所)が出現したと考えられます。更科日記を読んで東海道一帯を襲った二つ大地震を知りました。
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