リトル・プーリームのプラスティック・スリル・ブログ -26ページ目

リトル・プーリームのプラスティック・スリル・ブログ

テレビの低級化に抗し、マジで音楽を憂い、予言蔓延する世に悩み、
焦り多き家庭に困り、後悔伴う仕事に苦しみ、レーザー的に精密な
日本語の駆使に迷う中年男の見込み違いとニガリきった日々のアレコレ。


花柳界(かりゅうかい)というのは、はっきりしないコトバだ。

遊郭と、その周辺的な商売を含めたものと考えていいのだろうが、これを、花街(かがい)ともいい、「はなまち」と読むのは間違いであるらしい。

こういう思い違いというのは、結構ある。

納豆を包む「経木」を、ずっと俺は「きょうぼく」だと思い込んでいた。


花柳界を構成するのが、「三業」で、すなわち、芸者屋、待合、料理屋という。だから、三業地と花柳界は、ほぼ同義となる。

それに加えて、検番というのがあり、三業の経理事務所だという。


しかし、花柳界の具体的なありさまや、人々の生態は、なかなかうかがいしれず、そうしたものを扱った小説を読むことが大きな助けになる。

そうしたものを読んだことが無いかといえば、じつは、川端の『雪国』が最たるもので、おそらく誰もが読んでいる、あるいは、読みかけた、しかも、若いうちは、どう読んでも分からない小説なのであった。


丸谷才一の選んで編んだ『花柳小説名作選』(集英社文庫)というのがあり、短編を18おさめてある。


収録内容は、
永井荷風の「あぢさゐ」「雪解」「牡丹の客」、吉行淳之介の「その魚」、里見とん「いろをとこ」、川端康成の「童謡」、泉鏡花の「継三味線」、大岡昇平の「黒髪」、徳田秋声の「戦時風景」、小山内薫の「梅龍の話」、岡鬼太郎の「四つの袖」、舟橋聖一の「堀江まきの破壊」、森鴎外の「そめちがへ」、野口富士男の「なぎの葉考」、三島由紀夫の「橋づくし」、丹羽文雄の「海面」、中山義秀の「名妓」、岡本かの子の「老妓抄」。

そして、巻末に対談解説(野口富士男・丸谷才一)が付いている。


そこで語られていることだが、日本の花柳界は、低俗とみなされつつも、西洋の「上流社会」「社交界」の代用品として機能していたのではないか、という丸谷の説がある。

なるほどと思いつつも、他方で、あいかわらず、その西洋の「社交界」というものが、具体的にどこにあるのか、その実態はどういうものかが、わからないという気持ちも、あわせもっている。

だから、「社交界」の低級な代用品というものも、イメージは曖昧模糊としたままだ。

なお、この本には、続編があり(『花柳小説傑作選』)、
吉行淳之介の「娼婦の部屋」「寝台の舟」、井上ひさしの「極刑」、瀬戸内晴美の「てっせん」、島村洋子の「一九二一年・梅雨 稲葉正武」「一九四一年・春 稲葉正武」、大岡昇平の「母」、永井龍男「蜜柑」、丹羽文雄「甲羅類」、里見とんの「河豚」「妻を買う経験」、志賀直哉の「瑣事」「山科の記憶」「痴情」、永井荷風の「妾宅」「花火」「葡萄棚」、徳田秋声の「町の踊り場」、佐藤春夫の「哀れ」、以上19編が収められている(解説・杉本秀太郎)。


こちらは、紙質が悪いうえに高値で有名な講談社文芸文庫から、今でも定価(税込)の1,680円を出せば買えるのだが、前者は絶版らしく、古本でしか手に入らない。

ただし、おおかた、有名作家の短編なので、図書館で全集でも借りてきて、それぞれ拾い集めて読めば済む。しかし、それは面倒だということで、「どこかにあれば、買う」という類の本だろう。


そして、古本屋に行く人は、モノを、安く安く買おうと思って出かけるのだから、ほこりをかぶった棚から取り出してみた小さな本の裏表紙に、1万円の値付けがされてあれば、苦笑とともに、あきれた鼻息を漏らしながら、さっさと元に戻すであろう。


だから、そういうバカバカしい値段をつける古書店というのも無いはずなのだが、にもかかわらず、アマゾン(amazon)には姑息なボッタクリを狙う奇人が多数、こうした書物を出品している。


・\ 9,999 良い トモ江,書房(甲府市)
・\10,000 良い 満月にこにこ堂(東京世田谷)
・\20,819 良い ☆happy☆rie (浦和市南区)
・\20,820 良い もったいない本舗(都留市)


ここまで法外な値段の古い文庫には、よもや飛びつく人間もいまいと思うが、しかし、欲得に目がくらむ出品者というのは跡を絶たない。

そんな値段で売れるという「願望」の強烈さ。


だが、妥当な値段は、せいぜい3,000円ではないだろうか、というのが俺の考えだ。
なぜなら3,000円以上出せば、もっと中身の濃い、別の本を買い求めることができるからである。


まったく強欲な物売り、というのがはびこる世の中にはうんざりしてくる。だが、それは、ネットのおかげもありシロウトが商売をすることが容易になったことと深く関係があるのかもしれない。






有吉弘行が、ラジオで、「リュウジロウ、キ」、「リュージロゥ、キ」と繰り返し言うから、何かと思ったら、自分の名「ありよしひろいき」を早口で言っているのだった。

「リュゥジロゥ、キ」にしか聞こえない……

自分の名前を言うときに、聞き取ってもらえないという経験は、多くの人がしているとおもうが、それは、生まれてこのかた、自分の名前を何万回と繰り返していくうちに、それがひとつづきの呪文のようになってしまっているからである。それは、自覚されないままクセのついたコトバになっており、初めて聴く人にとってみれば、え?何いってんの?ということになる。


竜二郎は、有吉の別名ではない、という、ただの雑談。


さて、

『すべてはモテるためである』(二村ヒトシ著、イースト・プレス)という面白い文庫があって、これは、お前がモテないのはキモチワルいからだ、まずはそのキモチワルさを消してイイ人になることから始めろ!という内容の良書なのだが、この解説は上野千鶴子が書いており、付録の対談では、著者と新進気鋭の哲学者・國分功一郎が語りあっているという、なかなか豪華な中身の本だった。


ただし、定価は700円という微妙な?値段である。

が、まあ納得のうえ、新品で買っちゃえばそれで済む。


ところが、これがamazonじゃあ、現在5点の「中古本」が出品されており、すべて定価よりも高いのである。バカバカしい話ではないか??

ここに奇怪な売人たちが、勢ぞろいしている観がある。


・\1,180 ほぼ新品 NetApple
・\1,500 非常に良い fatpepper
・\1,500 ほぼ新品 TOTAL PACKAGE WEB
・\1,905 ほぼ新品 あじさい書店 (真心込めて丁寧に)
・\1,980 ほぼ新品 fan Book


定価の700円出せば、いつでも買える。では誰が、わざわざ古本を選ぶのか?
もし仮に、倍以上の値段で中古を選び、しかも型落ちで、上野千鶴子の解説も國分功一郎の対談も付いていないバージョンが、手に入ったとしたら、いったい全体何が嬉しいのだろうか?
そのことがオレには良く分からない・・・

というわけで、さらにリサーチを進めてみると、上のうち、NetApple と fatpepper という出品者はまったく同一人物であることが分かった(大阪府泉大津市内の同一の住所)。
たったこれだけのことからでも、世間でおかしなことをしでかすヤツというのは、さらに複雑な不審者的挙動をしがちだということが窺い知れる。要するに、キモチワルイ!のである。

『すべてはモテるためである』という本は、キモチワルい奴はモテない!と断じているのだから、この古本を高値で売ろうとする連中のキモチワルさ・ブキミさは、とうてい尋常ではありえない。





小林克也が司会の『ベストヒットUSA』という番組があって、わりと楽しみにしている。

特徴としては、エレクトロ・ダンスのはびこる退屈なチャートと、思いがけない過去のアーティストの意外な近況の組み合わせが、なかなか面白い。


先日は、産業ロックの代表格(自称「クラシック・ロック」)とされるジャーニー(Journey)のヴォーカルが現在スティーブ・ペリーではなくなっており、そのかわりに非常に小柄なフィリピン人・ピネダ君になっている、ということを教えられた。


これが、心とろかすウルトラ美声の持ち主で、「消臭力~♪」のミゲル君も顔負けだというので、驚嘆と同時に、感心させられっぱなしだったね。


一世を風靡した大バンドが、こんな(というと語弊があるが)ボーカルをスカウトするとは……


しかし、これはこれで、ジャーニーの世界(アジア?)ツアー戦略の一環として、賢明な策だったろう。


この手のバンドにありがちな「白人臭さ」も緩和されている。


そういえば、日系アメリカ人がボーカルの、フーバスタンク(Hoobastank)というロック・バンドもいるが、それよりももっと意外性がある。


あと、フィリピン系といえば、トロ・イ・モワ(Toro y Moi)というエレクトロ・ファンク男も、近年、話題を集めているらしく、「ベストヒットUSA」でも取り上げられたことがあった。


この日は番組内で、ファルコ(FALCO、1957-1998、享年40歳)の回顧もあり、名曲というか異端の極み「ロック・ミー・アマデウス」(1985年)のPVが流れ、またまた面白かった。

そして、小林克也いわく、スムーズ・ラップとは別の潮流が、このドイツ語ラップによって打ち立てられた可能性もあったのだ、という。


なるほど。ありえたかもしれない歴史に思いを馳せることに……


しかし、ファルコのこの曲はドイツ語ならではの引きつった硬直的なリズム感があり、この方法論がインターナショナルに普及しえたかとなると、別問題だろう。

日本語ラップには、ボヤボヤした生温いくぐもった響きある。悪くいえば、歯切れが悪いのが特色。そこに、エグみのあるファルコ的な方法論を導入できたか、どうか。


♪エァヴァインプンカ、ンデァレプテ、ンデァゴセンシュタッ、…


また、「ロック・ミー・アマデウス」の内容も、そう簡単には真似できない良さ・強みがあった。

つまり、オーストリア人が、自国の偉人(クラシック作曲家)をパロディーにしているのだ。

しかも、自国のコトバで。


伝統あるオーストリアだからできる離れ業(ほとんど1回限りの)であり、歴史の浅いアメリカには真似できないし、クラシック音楽の偉人がいない日本人にも、この世界観をどう模倣するべきか、可能か否か、定かではない。

パロディの対象がなければ、意味がないし、インパクトもないのだから。


ファルコ(本名=ヨハン・ヘルツェル)の死についても、このたびウィキペディアで調べて、あらためて詳しく分かった。ドミニカに移住していたファルコは、ディスコの駐車場から三菱パジェロに乗って出ようとしたところを、猛スピードで走って来たバスの激突を食らって即死したという。


バスの運転手は事故の責任を負い、ファルコの遺体からは、アルコール、コカインおよびマリファナが検出されたらしい。


なるほどなあ。

アルバムセールスは、トータル2000万枚、シングルは1500万枚という。