リトル・プーリームのプラスティック・スリル・ブログ -25ページ目

リトル・プーリームのプラスティック・スリル・ブログ

テレビの低級化に抗し、マジで音楽を憂い、予言蔓延する世に悩み、
焦り多き家庭に困り、後悔伴う仕事に苦しみ、レーザー的に精密な
日本語の駆使に迷う中年男の見込み違いとニガリきった日々のアレコレ。


WBC開催中、コレを、NHKラジオの高齢アナウンサーが、
例によってミスをして、「ワールド・ビー・シー」と読んだりするので、
ガクッと気が抜けるわけだ。

「アナフィラキシー・ショック」もちゃんと読めないような、老いぼれアナは、

さっさと辞めてしまえばいいのに。


さて、

とあるTV番組で、中居正広が、「52kgが好き」だとつぶやいた。

これは、印象的に残った。


つきあう女性の体重について、理想の数字があるというのは、面白い。

(私自身は、相手が何キロでもいいと思うが)


そういった個人的なポロリ発言というのが、じつは無視できない。

あの手の男の発言にどれくらいの社会的影響力があるのかは、

オレには分からないが、

当然、<呪縛>としての効果を一部の女性たちに及ぼすばかりか、

そういう数字が、まわりまわって、知らず知らずのうちに、世間的な標準と化すことが

無いとも限らないのである。

「52」という数字が独り歩きする可能性が……


同じ頃、ラジオ番組で、志村けんの愛車が(といっても彼の運転手がハンドルを握る)、

ロールスロイス・ファントムだと、自ら語るのを聞いた。

で、どういう車かと思い、ネット検索すると、

5000万円ほどの高級車だと知って、ああ、なるほどね、と思う半面、

おぎやはぎの矢作が、TV番組で、美味いものはあらかた食べつくしたぜと、

(その証拠に、「チャービル」とかいう珍しい香草の名を口にしてみせ)

いやに平然と、語っているのを観ると、

軽い衝撃を受けたりもする。


つまり、ここへ来て、芸能人と一般人との格差の凄まじさに思い至った。

芸能人というのは現代の「貴族」なのだ、と認識せざるをえない。


貴族というのは、いつの時代にもいたわけであり

(そして各方面からバカにされてもいただろうが)

今の貴族は、庶民の顔をしているから巧妙である。


しかも、誰にでも貴族になるチャンスがある、と思わせる時代を、

われわれは生きざるを得ない。

だから、万人に広く、独特の苦しみが生まれてくる。


もちろん、芸能人の地位はかつての貴族ほど安定していない。

が、人間の記憶をベースにしている以上は、

逆に、同じくらい安定しているともいえる。

つまり一度「有名である」という地位を得れば、人々の記憶は簡単には失われない。

たいてい一生有名なままである。


話は変わり、

NEWSの加藤シゲアキという男は、以前から有望な俳優だという気配を漂わせ、

私も内心、肩入れしたい気持ちを持っていたが、

その彼が、小説家としてそこそこ売れている、ということを最近ラジオで知り、

へぇーと驚き、少し調べてみると、

処女作『ピンクとグレー』は、14万部とか売れたというんだから、感心させるではないか?

青山学院大学法学部卒というのも、なかなかの学歴だから、

いったい、どういう文を書くのか、と、

興味を持って調べてみたが、残念、

サンプル(試し読み/立ち読み)のページが、ネット上に、見当たらない、

その種のものがまったく用意されていない。

恐ろしい。こりゃあ、困ったことだと思うけれども、水嶋ヒロの失敗例もあるから、

不用意に、人目に晒すことができないのかもしれない。


ともあれ、加藤シゲアキのトークのおかげで、

樋口毅宏という名の新進小説家の名を知り、

そこから芋づる式に、白石一文という名の作家の存在も知ったが、

いまだ手にとって読んではいないので、

即断・論評できないにしても、

かたや樋口のほうは、村上春樹・石原慎太郎・山本文緒への傾倒が深いようで、

これは、疑問符のつくリストだし、

白石一文のほうは、司馬遼太郎が絶賛したという三島由紀夫の「橋づくし」をはじめ、

(「橋づくし」は最近読んで困惑した。ダメな作品だ。あれはブスを否定する観念的小説だ。)

熱心な三島の読者であり、宮本輝の信者ということで、果たして、これもどうなのか?

彼ら3人に、これから食指を伸ばす以前に、

「ハードルが下がる」情報をいろいろと仕入れてしまったわけである。

そのうち読むかもしれないが、

表と出るか裏と出るか……

いまから自分で、自分が、楽しみだ。




ラーメンにいくら払える? ブログネタ:ラーメンにいくら払える? 参加中

私は700円まで 派!


「700円ライン」にこだわりは無い。

むしろ、650円なり680円なりで、ラーメンを食わなければならない時代だ、というだけの話で。


それなら、カップヌードル(150円)4~5個は買える。

だからといって、カップ麺が「安い」、

とも思わない。


求めている味や量にたいして、及ばないものがある気がする。

味気ないものを、いくらたくさん食べても、結局、満たされない。

心が満たされない。


昔話に、香りだけで、たっぷり(ちゃっかり)満足する、というネタがあった。

出典は何だったか、忘れて、というか、もともと気にしたこともなかったが、

いまネットの力を借りると、

落語のなかに、鰻屋の店先で白飯を食う男の話があるというし、

16世紀のラブレーの『パンタグリュエル物語』にも、

焼肉屋の軒先でパンを食う男の話がある、

ということがわかって、安心した。


オチは、いずれも、匂いの代金を、搾り取ってやろうと考えた、あこぎな店主が、

逆襲される。

コインをチャラチャラさせた男に、じゃあ音で支払うよ、と巧みに返されるのだ。



ラーメンよりも、パスタが880円あたりで食べなければならないモノになっている。

そういう決まり事ができている。

納得できないというわけではないが、かなり前から、抵抗できないしくみになっている。


利益率が高いというウワサの生蕎麦だって、けっこういい値段で食わされる。


パスタの香り、そばの香り、そういうものが大事。

だとしたら、われわれは、かなり支払っているわけである。

身銭を切って。


音で逃げかわせるなら、かわしたいものだが、

そういう願望が、昔話にも込められているのかもしれない。


ラーメンにいくら払える?
  • 500円まで
  • 700円まで
  • 800円まで
  • 900円まで
  • 1000円まで
  • 1000円以上

気になる投票結果は!?



FMラジオで長くDJをしているらしいルーシー・ケント(Lucy Kent)、というオバサン(お婆さん?)がいる。

名前くらいは、あなたも、きっとご存知だろう。


時々やむをえず聴いているラジオ放送だが、このヒトの選曲が悪く、イライラさせられ、またバブル期へのノスタルジーを隠さないのだから、ぞっとしない、というわけで、とうとう、どういう音楽体験を経てきた人なのかと根本的な疑問を抱き、検索などしたが、一向に判明しない。


年齢がまず、分からないというのは、たいしたものだ。

(*「ネットでいくら検索しても分からない謎リスト」に追加されることになった)


自らをはぐくんできた音楽的環境を隠しながら年齢不詳のDJをやってもらっても、こちらはシンパシーが湧かない。
15歳のときに何を聴いて何かに目覚めたというような経験談は、共感を呼び起こす(たとえ、音楽ジャンルは異なっても)。

ルーシー・ケントには、それが見えてこない。空虚がある。

とはいえ、手がかりはあって、

Wikipediaによれば、1981年からライブハウスで歌っていたというから、仮に18歳~20歳だったとしても32年は経過しているのだ。


節操もなくポリシーも無いフワフワとした選曲はセンスがない。

そして、危機感も知性のかけらも無い退屈なトーク、ガマンに我慢しているが、"アメリカ生まれ"も3歳まで、実質、日本育ち、というから、意外にバイリンガルじゃないのかもしれない。と俺はにらんでいる。


いずれにしても、その辺も、うやむやにされている。


実際のところ、英語の曲名・人名が連続すると、あっぷあっぷしながら発音している様子が伝わってくる。

「/」(スラッシュ)を「スラッス」という、超ダサい言い間違いがある。

「オックスフォード」を「エックスフォード」とミスするのも、およそバイリンガルならありえない"噛み方"だ。


しかし、この人の「既得権」というのは大きいらしく、若い女性DJはなかなか見当たらない。

能力がその地位に見合わない人物を見かけるたびに、じわじわと人材というものへの疑問が沸いてくる。

私は気の利いた若手の女性DJの登場を待望しているのだ。


東郷かおる子がいると?

いや、それもお婆さんなのだった。

かなわない世界だと思うのは、このヒトも年齢について「ネットでいくら検索しても分からない謎リスト」入り間違いないという点である。