ひとつという、わたしなりの意味 | 鹿児島セラピスト目指し中えむのブログ

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プロセラピスト(カウンセラー)目指してます。鹿児島在住、自分らしく生きたいとやっと目覚めた50代。
学ぶなかでの気づき、日常のなかでのひらめき、ただの思いつき、迷い楽しみ心のままに書いてます。

おはようございます。
まだうまく文章にできないかもですが。スピリチュアルの世界で象徴的な「ひとつ」ということ、実感できますか?
あなたもわたしもなく、全てがひとつ。このことを伝えているブログに出会えたとき、ほんとに救われた気がしました。でも、頭でわかったような気になっていても、体験としては理解できていなかった。
気づきというのは、ほんと、それぞれにうまいタイミングでやって来るものです。(人によっては突然全てが一瞬にして理解できたりするらしい。)わたしの場合、段階を経てひとつ乗り越えたら次の問題、やっと何とか乗り越えたと思ったらまた次と。
で、最近やってきた気づきに至る段階を説明すると。
多分ものごころついた頃から他人に認められることで自己容認できてたわたしは、いつからか人の目ばかり気にしていて、自分の価値を見失ってた頃は他人はわたしの批判ばかりしてると思ってました。
それをほどく最初の段階は、他人はその人の世界の価値基準で判断してるのだから、他人がどんな批判をしようとわたしの世界とは関係ないとする、つまり無視でした。
次にきたのは、わたしが他人を責めるから人からも責められるのだという、モンダイは自己発信と気づき、自分の内側を見つめると同時に、解放して変えていくという段階。自分が被害者という意識はなくなりましたが、それでも他人の悪口ばかり言ってる波動の低い人達とは相入れないという分離観は残っていました(何という傲慢さ)。
そのように段階を経ても、周りの状況があまり良くならないのは何故だろうと、さらに深く自分自身を覗いた時に、やっとこの気づきを得ました。
わたしは他人を責めていたのではなく、自分自身を責めていたのだ。他人がわたしを責めていると感じていたのは、他人の言葉を通してそのことを気づかせる為だった。
なんと。全ての疑問が解けた瞬間でした。自分に起こっていたモンダイの意味。拭いきれていなかった分離観、傲慢さ。そして、全てはひとつということ。
人は、ひとりでは生きていない。生活が成り立たないのはもちろんですが、ひとりでは、自分を知ることも、自分の在り方を決めることさえもできない。
わたしはひとりが好きです。固有の身内や友達にこだわることもしないでしょう。来る者拒まず、去るもの追わず。でも、全ての存在と繋がっています。心から、ありがとうございます。